2017年11月28日火曜日

表情の重要性 ゼノブレイド2トレイラーを見比べる

ゼノブレイド2発売まであと3日!
先日はストーリー編のトレイラーも公開されてますます盛り上がってきました。

さて、今回はゼノブレイド2が初公開された1月のPVと9月に公開されたPVを見比べて表情の重要性を考えてみたいと思います。
まずは1月に公開されたPVをご覧ください。



次に9月。



正直に言いますと、1月の時点ではゼノブレイドの続編が出るということは嬉しかったのですが、キャラクターに対してはどこか違和感を感じていました。
それは、前作とは異なるキャラクターデザインのせいだと、その時は思っていました。
けれども、新たにPVが公開され、キャラクターに一月の時点ではまだ記号的にしかついていなかった表情が豊かにつけられたとたん、印象が変わったのです。
モデリングもブラッシュアップされたとはいえ、デザインに大きな変更はありません。
表情の動き一つでこんなにも印象が変わるのだととても驚きました。

ゼノブレイドシリーズでは前作でも、イベントシーンではかなり表情が動いていました。
なんというかディズニーのアニメのようでした。
声優さんの演技と相まって、とても感情豊かに訴えかけてきたのです。
ゼノブレイド2の1月のPVではまだそこがブラッシュアップされる前だったのでしょう。
だからこそ、違和感を感じたのかもしれません。
ゲームに対して、作り物…というとなんかおかしい気もしますが、1月の時点では作り物感が強く、その後はその世界に生きている、生き生きとしている、そんな風に見て取れました。

このキャラデザインは意図的で、公式ホームページにデザインをされた方のインタビューが載っておりますので気になる方は読んでほしいのですが(ゼノブレイド2:プロダクションノート キャラクターデザインについて)簡単に言いますと、表情がわかりやすくするために目を大きく見せるデザインにした、とのことでした。
やはり、目というのは大事ですね。
聖闘士星矢の作者である車田正美氏も、全編3D映画を作る際スタッフに目が大事だとおっしゃったそうです。
それゆえでしょうか、聖闘士星矢の3D作品もリアル調でありつつもアニメっぽさを残すセミリアルという表現で瞳は大きめに作られていました。
そして、たまたまでしょうか。
とても、感情表現がディズニーっぽいのです。
ディズニーアニメって見ていると感情表現が大げさにも見えるんですが、でも、それぐらい大げさだととても伝わってくるんですよね。
大げさに表現されますが、でも、決して記号的ではない。
キャラクターにあわせた表情を作っています。
それはもともと、海外の人が3DCGでリアルに描くことを求めていった結果なのかもしれません。
ディズニーの初長編映画の白雪姫なんて80年前の1937年に作られた作品だというのに、人に踊ってもらってそれをもとに絵を描いたりしていたのです。
それに対し、アジアの絵画なんかはデフォルメされた描写が多いように、日本もデフォルメ、記号化が得意なんでしょう。
いろんな漫画表現は記号でできています。
でも、それが行き過ぎるとどこか作り物感が出てしまう。
そんな風に感じました。

素人ゆえか、漫画なんかを描いてますと、笑顔はこう目を^^な感じに描いてとか、怒っているときは眉毛は吊り上がってとか…ついつい、記号的に描いてしまいます。
それで伝わるというのは、それはそれですごいことなんです。
その意味が、誰にでも伝わるということはすごい。
でも、そうでなければいけないわけではありません。
大事なのは、伝わるか否か。
より、多くの情報を伝えられる表情を描くことが大事。

2017年11月21日火曜日

ゼノブレイド2発売まであと10日です!

一月にSwitchの発表会で披露されてから、十ヶ月…
ついについに、12月1日「ゼノブレイド2」が発売されます!

紹介映像とか見て盛り上がりましょう~



もうワクワクしますね!
予約済みなので12月1日が楽しみです。

「ゼノブレイド」という作品

前作「ゼノブレイド」が発売されたのは2010年。
7年前にWiiのソフトとして発売されました。
当時の私は、ゲームに飽きかけておりました。
当時「テイルズ」シリーズというバンダイナムコさんのRPGを好んでやっていたのですが、一つのソフトを時間をかけて遊ぶタイプだったので、クリアする頃にはまた新しいソフトが発表されて…の繰り返し。
テイルズシリーズはFFとかドラクエと同じく、シリーズといっても戦闘システムとかが共通しているだけで舞台やキャラクターは毎回異なります。
とはいえ、ストーリーは気分を盛り上げてくれたらいいというタイプなものですから、同じ戦闘がさすがに飽きてくる。
それでいてテイルズしかやらないから、ゲーム自体に飽きちゃったんじゃないか?と思うようになっていました。
そんなころ、「ゼノブレイド」が発売されました。

”ゼノ”ブレイド。
ゼノギアス、ゼノサーガといったゲームはご存知でしょうか?
実は、それを開発したスタッフたちが立ち上げた会社が、ゼノブレイドも開発しています。
やったことはなかったのですが、ゼノサーガは以前友人にプレイしているところを見せてもらったことがあります。
ロボットが出てきて、宇宙を旅して…すごくSFちっく。
ファンタジーを好んだ私には、ゼノと聞いたらそのイメージがあって買うつもりはありませんでした。
ところが。
こちらで見られるトレイラーを見た瞬間、欲しくなったのです。
すごく引き込まれました。
それでも少し不安が残るので、発売されていたから少しネットで評判をのぞきました。
かなりの高評価。
これは買わねばと、急いで買いに行きました。
そして、半年。
私はこのゲームを遊びつくしたのです。
トレイラーを見てもらうとわかる通り、7年前ということを加味しても決して綺麗なグラフィックではありません。
それでも、このゲームで描かれた世界は美しく魅力的でした。
起伏にとんだ地形。
どこまでも広がる大地。
解像度を高くして、細かく描くことで美しいグラフィックになる。
そう思っていた私にとって、それを美しいと思えることは衝撃でした。
魅せるセンスがいい。
よく見ればジャキジャキした草も、たくさん大地を覆って風に吹かれて、草原らしさを見せてくれました。
というか、今まで私のやっていたゲームだとフィールドマップの草というのは申し訳程度に生えているか、緑色に染まっていて草と見せているだけで、そこまで草原らしい草原の表現を見たことがありませんでした。
PS3で当時出ていたFF13の画面が時折テレビで流れていましたが、そこでも草の表現は芝生っぽいテクスチャが貼られているだけだったと思います。
草原を草原らしく、熱帯雨林を熱帯雨林らしく、そうはじめて見せてくれたような気がしました。
らしく見せる、ありえない風景さえも。
それが美しかった。
そして、全てがらしく描かれることで、嘘っぽい風景さえもそこでは本物になるのです。
没入感がありました。
そこを駆け回る楽しさがありました。
楽しさを思い出させてくれました。
だからこそ、「ゼノブレイド」という作品は私にとって特別です。

そんな「ゼノブレイド」の名前を冠した「ゼノブレイド2」
舞台は前作と変わって「アルスト」と呼ばれる世界。
キャラクターも設定も異なります。
だから2作目だし…と思っている人も、楽しめると思います。
私も新しい世界を、走り回りたい。
新しいキャラクターたちに早く出会いたい。
12月1日。
冒険の旅へ出かけませんか。

2017年11月2日木曜日

長く”練習の”絵を描いていると自分の上達がわからない

私はとにかく、上手くならなければ絵は外には出してはいけないと思っていた。
【外に出す】というのは、私にとっては商業に応募するとか展覧会を開いてみるとかそういうこと。
とにかく、上手くなるまで練習し続ける。自分でOKが出せるまで、練習だけ。
雑誌に投稿したりネットのイラストSNSに投稿したりすることはあったけど、それは趣味の範疇で、気合を入れたものも適当なものもごちゃ混ぜになっていた。
何が違うのかというと、批評されるかどうかだった。
雑誌もイラストSNSも、自分たちのコミュニティの中。そんな感覚だった。
そこを飛び出すには、むしろコミュニティの中でも一番にならなければいけない。
そう思っていた。
だけれども、学校だとかそういう小さめなコミュニティならまだしも、ネットで世界中につながったコミュニティで一番になるのは、多分商業で成功するのと同じぐらい難しいのかもしれない。
上にはいくらでも上がいるのだ。
多分、私にとってコミュニティ内で投稿するというのはスポーツで同チームのライバルとしのぎを削ることで、そこから出るということはレギュラーに選ばれること。
そういう感覚だったんだと思う。
つまり、結局は練習のつもりだったのだと思う。
いつまでたっても、こんなに練習していても、上手くならない。
人にうまいねと言われても、いやいやそんなわけないと心のどこかで思っている。

ただ、最近、それでもなんだかうまくなったんじゃないかという瞬間があった。
以前描いた漫画と今描いた漫画。
それらを見比べてみると以前よりはうまくなった、そう思えたのだ。
ちょっと抜き出してみる。

上から2014年、2016年、2017年。キャラは同じものだ。
何が違うのかといえば、一番違ったのは丁寧に描くことを意識したことだった。
以前も別に雑に描いていたつもりはないのだけど、後から見ると雑に見える部分もあった。
同人誌を発行したことがある人は知っていると思うけど、印刷所に早めに入稿できればそれだけ割引が効くことがある。
趣味とはいえ、できれば出費は抑えたい。
そう思ったら締切ばかりを気にして、どこか妥協した部分もあった。
でも今回は、丁寧にやろうと決めた。
今までは多少の違和感は無視していたけど、それも徹底的に直す。
簡単なとこは資料はあまり見ないで描いてたけど、わからないとなればいくらでも資料を探す。
そうしたら締切りを気にして焦っていた今までよりもむしろ早く入稿できたし、今の時点では納得の行くものができた。

正直に言うと、今まで練習と称して好きなキャラばかり描いてきた。
そして、上記のキャラはあまり描いてこなかったキャラクターだった。
練習と言っても、自分のできないことが多すぎて何をしたらいいのかわからなかったのだ。
描き続けたからといってうまくなっている実感も湧かない。
だから絵を描くのが嫌になる。
だけど、今回は描くことが楽しかった。
直せば直すだけよくなっていく。
今までは資料をろくに見ずに感覚だけでやっていたせいだろう。
直す正しい位置がわからなかった。
だから、直しても違和感だけが残る。
それがないだけで、こんなに楽しいとは。
練習だけしていたらわからなかった。
完成品を作る。
ただそれだけで、よかったのだ。
完成品をきちんと作るということは、今のレベルを知ることになる。
それで落ち込むかもしれないけど、それでも今の立ち位置を知らなければ前には進めない。

何を練習したらいいのかわからない人は、とにかく実践してみたらいいと思う。
好きに作品を作り、そして、描けないからといって諦めない。
今の自分にできる最大限で描く。
そうしたら、きっと前に進める。
そう、思った。

2017年10月6日金曜日

手早く綺麗な絵を描くなら、資料を見ることが一番

「絵が描ける」人の間違ったイメージ

「絵が描ける」と言われてどんなふうに思うだろう。
私が子供の頃は、絵を描くプロというのは何もみないでサササッと描けるものだと思っていた。
プロだもの、見本なんて必要ない。
想像したものを思いのままに描ける、それが絵が上手いということ。
そんなイメージしたことないだろうか。
それに漫画家なんかがサインを描くとき、ササっとペン一本でイラストをつけて描いてくれる。
そういうものが目について、実際どんな風に描いているかなんて知る由もない。
それでも、最近は漫画家の作画風景をテレビやネットで見ることができるようになったから、そういうのも減ってきたのかもしれないけど。
でも、それだって、作画している部分だけで、資料を見るとかそういう部分はあまりうつさない。
写すとしても、例えば発想の元になったものとかそんな風に紹介されるものばかり。
作画するときに参考にしているものは、あまり出てこない気がする。

資料を見ることがズルい

何となく、こんなイメージを持ったことはないだろうか。

資料を見ながら描くこと=ズルいこと

まるで、テストでカンニングするがごとく、そんなイメージはないだろうか。
私は持っていた。
最終的には何もみないで描けるのが一番だと。
そんなものだから、好きなキャラクターを描くときだって、資料を見るのは一、二度ぐらいだった。
あとは記憶で描くだけ。
そんなものだから、パーツの少ないキャラクターばかり描くようになっていた。

でも、考えが変わった。
何故か。

久しぶりの同人誌

ここ一年ちょっと描く気が起きないことが多々あり、最近久しぶりに漫画を描いている。
二次創作の同人誌だ。
何度も描いているキャラクターだ。見ないで描ける。
以前はそう思ってろくに資料を見なかった。
見ないと描けないキャラクターも一、二回参考にしたらあとは見ない。
締切があることもあいまって焦って、よし描けた!とさっさと次のコマに進む。
でも、自分の心の奥底では納得できないまま、違和感を感じたままだったのだろう。
一年前ははじめて下書きから全部デジタルで描いてみていて、慣れないせいか、普段アナログで描くより断然下手くそで、それを発行してみて、さらにはミスも見つけてしまって…
何やってるんだとばかりにやる気がどこかへ飛んで行ってしまったのだ。
なんとか描こうとしたけど、物語さえも思い浮かばない。
それでもやっと1年経って少しだけやる気が戻ってきた。

前回を反省し、まず、オールデジタルで描くのをやめることにした。
イラストを描くときもそうなのだけど、どうも私はデジタルで描くとバランスが取れない。
ただでさえまだまだというところなのに、レベルが5年ぐらい前に戻っているような、そんな感じになってしまう。
だから、下書きまではアナログで描くことにした。

そして今回、一番変えたことは、資料をちゃんと見る、そして、納得するまで描くということだった。
昨年描いた同人誌の自分の絵、さすがに納得がいかなかった。
下手だと思い続けていても、それでも、実はそんなに下手じゃないんじゃないかと思っていたのに、現実を突きつけられた。
時間がかかっても、見るしかない。見て、ちゃんと描かないと。
そう思ったのだ。

見ながら描く

そうすると、見ないで描いていたときより時間はかかる。
休みだったら一日に数枚は描けていたのに、今じゃ一枚か二枚がやっとだ。
ただ、描いていて気が付いた。
以前はただただ、締切に間に合わせないととの焦りもあって、なんとなくこれでいいやと思ったら次に進んでいた。
でも今回、資料を見ながら納得するまで描くようにしたら、自分の思い込み、観察の足りなさを痛感した。
人間の身体など、毎日見ているはずなのに、案外わからないことだらけだった。
資料を見ながら描くということは、自分の思い違いで違和感を感じているのにでもどうしたらいいのかわからない部分をはっきりさせてくれる。
だから、資料を見ないで描いていたときよりも、早く納得のいく絵になるのだ。
以前は、何度も描きなおしても何が違うのかよくわからない部分もあったのに。

そして何より、楽しかった。
直せば直すほどちゃんと変わっていく。
今まで、絵描きはずっと手を入れていたくなる。だって、手を入れればよくなっていくから。という感覚がさっぱりわからなかったけど、今回、はじめて感じたのだ。
叩けば反応が返ってくる。ただそれだけで楽しいなんて。
そういえば、ゲームだってそれが楽しかった。
ゲーム好きなのになんで気が付かなかったのだろう。
思い込みが、理解を邪魔していた。

早くいい絵を描くなら資料を見よう。
それが一番の近道。

2017年10月3日火曜日

2から5へ

私は、漫画とかアニメ、ゲームの感想を眺めるためによく「2ちゃんねる」を見ていた。
先日も、新しい情報にどんな反応があるだろうと眺めていたら、ふと画面左上の表記に目がいった。

あれ?5ちゃんねる?

「2ちゃんねる」を見ていたはずなのに、5ちゃんねると書いてある。
いったい、なぜ?…とは思ったものの、反応が見たかったので気にしないで、そのまま眺めていた。

「2ちゃんねるが5chになっててビビった」 動物キャラが「2」を蹴って「5」にする動画も

そうこうしているうちに、yahooニュースでこんな記事が。
経緯よりなにより、アンダーグラウンドなイメージだった2ちゃんの、一般人からしてみれば名前が変わっただけのことがニュースになるなんて思いもしなかったというのが、感想だ。
まあ、2ちゃんねると言わないまでも、匿名掲示板とニュースで言われたり、もう10年以上前に「電車男」という作品で注目されたりもしたから、思うほどアンダーグラウンドでもなかったのだろうけれど。
今やSNSが主流だし、昔ほどにぎわってはいない…のかな?
昔がよくわからないから何とも言えないけど、数年前と比べるとレスポンスが遅い気がする。

私が2ちゃんを見ている理由

SNSが主流だと言ったけど、それでも私は2ちゃんを作品の感想や新作情報を得るために使っている。
Twitterでやればいいじゃないと思うかもしれないけど、2ちゃんの方が楽なのだ。

検索すれば感想がたくさん出てくるだろうって?
感想がたくさん出てくればいいというものじゃない。
脈絡なく話された感想は、大量にあるとみていて疲れる。
アカウント名なんかも引っかかるから、関係ない話も出てくる。
2ちゃんだと、掲示板だから一つのテーマについて話されているし、なにより、前の話を受けて話が続いていく。
流れがちゃんとわかりやすい。
だから、疲れない。
SNSをさかのぼるのは途中で嫌になるのに、2ちゃんの過去ログをさかのぼるのは気がついたらもうこんな時間!?でも、あともう少し…なんてやってしまう。

以前、今もあるんだろうけどSNS疲れなんて言われていた。
それはネット上の人づきあいとか、そういうものから来ているのだろうけど、多分情報の流れ方にも理由があるのだと思う。
前後の脈略なく流れていく大量の情報。
Twitterならば、一つはたったの140字以内。
それでも、たくさん集まれば目が疲れる。
短いゆえに、文字にならない、隠された情報を頭で思いめぐらすのに疲れる。
激しい運動すれば疲れる。それは、見た目にだってわかりやすい。
でも、頭を使うことだって疲れるのだ。
それを、人は軽視している気がする。
常に誰かを気にしていなければいけないというのは、常に頭を使っている状態なのだ。
常に何かについて考えて疲れているものだから、意見は目で見た受け売りにしかならなくなる。
だって、考える体力を失っているから。
だから、疲れるのだと思う。

常につながらない世界

2ちゃんはその場にいる時だけのつながり。
そこを出れば、それぞれの生活があり、それぞれの役割がある。
ただただ、あれが好き、これが好き、それだけで集まった人たちのひと時のつながり。
SNSだってそういうところだろ?と思う人もいるだろうけど、例えば、「インスタ映え」
インスタに投稿するための写真を撮ろうと旅行したりする。
2ちゃんだと、2ちゃんに投稿するためにアニメ見てゲームやって…なんて人はいないだろう。
(まあ、いないことはないんだけど…)
だから緩いし、軽い。
その気楽さも必要だと思う。
ずっとそばにいられたらうっとおしい日だってあるはずなのに、現代はだんだんそれをできなくしていく。

緩く、軽く。

2ちゃんに入り浸る以前は、ゲーム雑誌が私の好きな場所だった。
月に一回、常連さんたちの投稿を眺めながら、自分もそこに投稿して。
来月は載るかな、来月はどんな投稿があるかな。
そんなことを思いながら待ったものだ。
互いに面識はもちろんない。
ただ、投稿で知っているだけ。
そんな緩く、軽いつながりも大事だと思う。
つながり方も、自分で選ばなければいけない時代なのかもしれない。
めんどくさいけど、心地よい世界を選べるのならそれもそれでいいのだろう。

2017年9月26日火曜日

ブログに書くことがない!を解決する方法

ブログのネタがない!どうしよう

私のような初心者がブログを書き出すと直面するのは、ブログになにを書けばいいんだ?ということ。
これについて書くかと思っても、ブログとしていったい何を書けばいいのか。
趣味とか思ったこととかとりあえず書いてなんとかもうすぐ100記事になりそうだけど、ノリにのった記事はすぐに書けたが書けないときは本当に書けない。
書けなくてまた明日でいいやと、先延ばしにしてしまう。
そうしてると、面白いネタがないなと思って何も書けなくなってしまう。

だけど最近、間違いに気が付いた。
以前の記事を見返していたときだ。
美術系の学部に進んだ私はとにかく文字で何かを書くということが苦手だった。
今の私は2000字書くことに苦労していたときの自分と一緒なんじゃないか?
そう気が付いたのだ。

2000字書けない問題

2000字書くことに苦労していた自分と一万字書けたときの自分。
何が違うのか。
それは、準備を徹底的にしたか、しなかったか。

2000字書くことに苦労していたとき、私は、本を読みながら文章を書いていた。
一回読んだ本を、おぼろげな記憶を頼りに、確かあそこにこんなこと書いてあったようなとペラペラめくって確かめては書いていた。
出来上がった文章は、いろんな本の中身を切り貼りしたようなそんな文章にしかならなかった。
文章を作るのに2、3日はかかっていた。
対して一万字の時は、3日のうち2日を資料を読むことに費やした。
2000字を書くのに、2,3日かかっていたのに、だ。
何故この決断をしたのかというと、以前の記事にも書いたけれど、趣味で書いた映画の考察は2時間ぐらいで2000字書けていたことに気が付いたから。

何が違ったのか。
映画の考察もはじめは2000字のレポートの時と同じように、映画の内容を思い出しながらその内容を書き、感想を添える、そんな風に書いていた。
けれど、自分で書いていてだらだらした文章で面白くないな…と感じた。
先行上映で見たから、あらすじでも需要はあると言えばあるのだろうけど、映画を見た次の日に書いていたから、すでに詳しいあらすじは他の誰かにネットにアップされていた。
それにどうせ2週間もすれば、興味のある人間はみんな見に行く。
そんなものだらだら詳しく書いたって、面白くないじゃないか。何かこう、見に行った時に意味のある考察が書きたい。
そう思ったのだ。
とはいえ、先行上映ゆえにパンフレットもなく、思い出す以外もう一度内容を確認する方法がなかった。
だから、まずは一から順にできる限り思いだして紙に書き出した。
書き出すと面白いことにここはこういう意味だったんじゃないか?とかこことここの描写は対比されているんじゃないか?とか考えが思い浮かんできた。
そういったことも全部メモにとった。
その中から、面白そうな部分をピックアップして文章を組み立てたら、面白いほどスルスルとかけてしまったのだ。

本を一回読んで、理解できる人はできるんだろうけど、私はそうではなかった。
飲み込んだのはいいけど、消化吸収もろくにされないまま出ていってしまうようなそんな感じだったと思う。
だから、一回読んだだけだと、表現を少し変えてみるぐらいしかできなかったのだ。
だけど、映画の記事は違った。
自分の中で咀嚼する。
これは文章を書く事前準備。
そう、事前にしっかり準備しなければいけないところを、毎回準備もおろそかに本番に突っ込んでいたのだ。
だから、書けなかった。

ブログに書くことがない!を解決する方法

それで、タイトルに戻る。
とりあえず書くことは思いついていても、文章に書けない。
だから、書くことがないと思ってしまう。
それを解決するにはどうしたらいいのか。
とにかく、準備すること。
考えることは文章を書く前の準備であって、書きながらすることではなかったのだ。

そしてもう一つ、普段から、なんでもいいから書いておくこと。
人に見せなくていい。
ノートでもスマホのメモでも何でもいいから思い付きをただだらだらと書いていく。
文章にすらなっていなくていい。
とりあえず、目に見える形にする。
そうすると、頭の中ではそれ一つに固執していた考えが飛躍することもある。
つながりを見つけることもできる。
とにかく、頭の中にだけしまっておいてはダメだと思う。
思考は目に見えないから。

この文章が、何かの役に立てたのなら幸いです。

2017年9月25日月曜日

Javascriptで15パズル

15パズル。
15枚の1から15の数字が書かれたパネルを上から数字順に並び変えるパズル。
図書館で借りた本にコードが載ってたのでその通り打ち込んでみた。
こんな感じ(イラストは自作)
写してるだけなのに、すっごい時間かかった。
上手く動かなくて、でも、何が間違っているのかわからない。
これだけの動きを、あんなに長く記述せねばならんのか。
やってみないとわからないものだなぁ。

全くのど素人のため、そこに書かれている意味が分からない。
ゲーム作るのに、すでにいろいろ用意されたものもあるけれど、でもある程度はわかっていた方がいいのかなと、やり始めてみたものの難しい。
いやはや、プログラマーって凄いなぁ。

さてさて、でも作りたいゲームってこういうのではない。
こういうのではないんだが具体的な形もまだない。
まずはゴールを考えないとなぁと改めて思いました。
結構動いただけで満足しちゃったところがある(笑)
アニメを作りたいなと思ったときも、まずはトレスしてみようかなってやってみたら冒頭数秒をトレスして動かしてみただけで結構満足しちゃった(笑)
試してみたいだけだからそれだけで満足しちゃうんだよね。いかんいかん。
面白いゲーム作りたいな。

そこにいないもの

写真とか映像というのは不思議なものだなと、時々思う。
すでに亡くなった芸能人が、ドラマの中で生きている。
動きが付くとより不思議に思える。
ドラマやなんかの物語のあるものだと、作中の生死とは別に、役者の人生があるわけだけど、それでもなんだか不思議な感覚を覚える。

先日、古い写真を見せてもらった。
まさに、戦中って感じの出征前に集合写真を撮ったかのような写真。
詳しくは聞いていないから見た絵から想像するしかないのだが、戦争がなくてももう戦後70年以上たってるし、そこに写っている人で生きているのは数えるほどだろう。
それに、70年も経っているのだから姿かたちはすでにそこに写っているものとは変わっている。
二度と撮れない写真。
写真は一瞬を切り抜くのだと改めて思う。

さて、何で上に猫の写真を載せているのかというと、この猫もう亡くなってしまっているのだ。
めんどくさがりなものだから、写真はSDにしまったまま整理をしない。
こうして、何か載せる写真ないかなと探しているとふと目についた。
ふわふわした感触、なんとなく思いだせる。
ああ、こんな猫いたっけな、なんて思いだすのだ。
もうその姿を見ることは叶わないはずのいないものが、この写真の中にはいる。

最近は写真が手軽になった。
スマホでパシャリと撮ればいい。
容量もいっぱいだから、気にせず撮影できる。
だから、気がついたら何千枚と保存されている。
手軽だから気楽だ。
でも、その写真は見返すのだろうか。
指でざーっとスクロールして、目当ての写真だけ見つけたら、あとは知らない。
手軽になって気楽になって、思い出は重たくなくなった。
データのまま、消え去っていく。

データは表からは全く見えない。
開いてはじめて見えてくるものだ。
スマホの薄っぺらい外観の中に、何千と写真が入っているなんて気づかない。
ありすぎて、そう、思いがけない瞬間は消え去る。
欲しいものにしか目がいかない。
欲しいもの目当てのもの、それ以外のものを視界から綺麗に外す。
そこにあるのに、そこにいないものになる。

手軽になって気楽になった。
でも、その一枚一枚はもう二度と撮れない。
簡単に消えていくものになっていっていいのだろうか。

2017年9月24日日曜日

カメラの機能を使い尽くせ

カメラ屋さんにいると、カメラについて聞かれることがたまにある。
一眼レフとか持ってる人は、カメラについてわかって使っているのだろうけれど、子供や孫の写真が撮りたいだけのお年寄りなんかは、案外機能を知らずに使っているんだなと最近気が付いた。

例えば夜景。
カメラにせっかく綺麗に撮れるモードがついてるのに、知らない。
オート以外で撮影しないみたい。
こちらCanonのカメラについてる手持ち夜景モードで撮影しました。
結構綺麗に撮れたと思ってます。
せっかく高いカメラを持っているのに、オート撮影だけじゃもったいない気がします。
いろいろ試して、カメラの癖を知るのも面白いなと最近思っています。

これは水中モードで撮影しました。
水中じゃないじゃん!?って思うかと思いますが、思った通りの絵が撮れるならなんだってOKなのです。
水中は青い光が強くなるので、赤みをプラスすることで自然な色合いに補正してくれてるんですが、それを使って夕焼けの色をより強く映してみました。
夕焼けがより鮮やかに見えるので結構好きです。

食べ物は極彩色フィルターをかけて撮影するのが楽しいです。
色が鮮やかになるので、よりおいしそうに見えます。

やっぱりいろいろ試してみるのが楽しいですよね。
せっかく買ったカメラ。
使いこなしたい。

2017年9月21日木曜日

丁寧に描く

私は丁寧に描くということが苦手。
時間をかけて描くということがどうしてもできなかった。
よく、絵は手を入れ続ければよくなっていくなんて言うのだけど、それもよくわからなかった。

というのも、いったいどこの時点で完成と言ったらいいのかわからなかったから。
デッサンを練習していても、先生がここまでと言ったところが完成形だった。
誰かがこれでいいと言ったものが、私にとっての完成形だったのだ。
まあ、つまり誰かの評価に依存していた。
だから、課題だからと自分なりに時間をかけて描いたものと、気晴らしに適当に描いたものを並べて、気晴らしに描いた方がいいと言われたりすると、やっぱり丁寧に描く必要ないじゃんと思ってしまう。
(今思えば、気晴らしに描いた方がいい感じに力が抜けていてよかったのではないかと思う)

何故、そう思うようになったのか。
私が思い当たる原因は二つある。

一つは子供の頃のことだ。
子供の頃、周りには絵を描く友人が何人もいた。
他人がいれば子供だって比較する。
友人の中にとても絵の上手い子がいた。
なんでだろうと思っていたら、その子は、最近はあまり見かけないけど雑誌の裏に載っていた通信講座で絵を習っていたのを知る。
私もやりたいと言ったけど、子供だから親の許可がなければできない。
やらせては貰えなかった私が考え出したのは、上手さでは敵わないからスピードで戦おうという戦法だった。
私の通っていた小学校の休み時間は2種類あった。
10分と20分。20分だと子供たちはみんな外へ遊びに出る。
だから教室で待つ10分の間に一つ描けるようにと必死に描いたのだ。
多分このころ、上手さは敵わないから速さでというのが身についてしまったのだと思う。
じっくり丁寧に描くことは、負けることなのだ。

もう一つは、速く描くことに関連しているが、私がデフォルメが好きな事がある意味原因だったのだと思う。
好きではあったものの、しっかり時間をかけて描いたつもりのイラストよりもササっと描けてしまうデフォルメの方が評価が高いと時間かけても意味ないじゃんと思ってしまう。
やっぱり、これぐらい時間をかけたんだという過程をついつい評価してほしいと思ってしまう。
でも、そこは評価の対象じゃないのに気が付くのがだいぶ遅かったので、ふてくされていた。

とにかく、勝ち負けにこだわっていた気がする。
絵で勝つにはどうしたらいいんだろう。
一番になりたかった。なんでかは忘れたけれども。
けれども、上手くない絵を速く描けても敵いはしない。
それどころか、ある時絵の上手い子が、やっぱり貴方は速く描けるねと先生に言われていたのを聞いた。
むかついた。
早くうまくならないとと、もう、その時点で焦り始めていた。
でも、そんなにすぐにうまくなる方法はなく。

とにかく、速く描けることだけにプライドを持っていた。
そこだけは、その上手い子に認めてもらっていたから。

だから、どんなに下手だろうと”速く描けること”は捨てられなかった。
時間をかけたくなかった。
でも、それじゃうまくはならない。
上手くならないと、面白くない。
面白くないから、気が付くと雑になる。
悪循環だった。

そんな私が丁寧に描こうと最近思い立った。
理由は、上手くなろうとかそういうことじゃない。
フルデジタルで描いたものがあまりにも雑すぎたからだ。
私はアナログで線画まで描いて、デジタルでトーンなんかを入れるという方法で漫画を描いていたのだけど、それだととくにページが多いとスキャンが大変だった。
だから、フルデジタルにすれば速くできるはず!…と思ったのだけど。
やはり慣れていないから、いつもよりもめちゃくちゃ時間がかかってしまった。
イベントに出すので締め切りがある。
それに間に合わせなければと、これでいいやなんて雑になっていた。
出来上がったものを見ると、何とも言えなかった。
なんだか気が抜けて、全然何も手につかなくなったぐらいだ。

だから、今度はちゃんと描こうと思った。
デジタルで下書きを描くと、何故か途中でこんなもんでいいだろとなるからアナログで。
アナログでも、いつも以上に丁寧に。

そしたら不思議だ。
自分のデフォルメじゃない絵はあまり好きじゃなかった。
そのはずだったのに、何度も直して、よしいいだろうと自分で納得した絵は嫌いじゃなかった。
好きとか嫌いとかじゃなくて、楽しかった。
描いては直して、描いては直して。
今までだったら、めんどくさくてやめていたのに。
楽しかった。

雑に描くことは、結局のところ絵に対しても雑になる行為だったのかもしれない。
丁寧に丁寧に、向き合っていこう。

2017年9月16日土曜日

ゼノブレイド2遊びませんか

最近はスマホゲーにおされて縮小気味のCSゲーム…
そんな中、今年の3月に発売されたSwitchはいまだに手に入れられない人もいるんだとか。
私は3月に購入しましたが、まさか半年たっても普通に購入できないなんて思ってもみませんでした。
3DSの時は発売一か月ぐらいは手に入れるのが大変だったけどその後はお店に行けば普通に売ってたのに…
とはいえ、縮小気味だったCSゲームが盛り上がるのは嬉しい。

スマホゲーもやってはみたものの、どうも私にはあわなくて…暇つぶしにやるものだと聞いたのに、全然暇つぶしじゃ勝てない、進められない。
うーむ…皆さんどんなプレイをしているのでしょう?
ゆるーく縛りプレイが好きなものだから、基本無料だと絶対課金しない!って思っちゃうんですよね。
でも、スマホゲーってCSゲーと違って大半が誰かと競わせるような、もしくは協力させるようなそういう作りになってるものだから、ついつい他人が気になって、どうせ課金してないから弱いんだよ…という気分になってしまいました。
ね、向いてない。
私は、一本買って他人を気にせずゆっくり遊びたいタイプ。
仕事の合間の暇つぶしは妄想でもしてればいいんですもん(笑)

さて、ゼノブレイドですよ。ゼノブレイド。
12月1日に2の発売も発表されたわけなんですけど、私このゲーム大好きで。
と言いますのも、多分これがなかったらSwitchも買ってなかっただろうなという一本なのです。

ゼノブレイドが発売された2010年。
私はゲームに飽きていたんだと思います。
年に数本しか買わないので、ついつい同じシリーズのものを買ってしまっていました。
何故かといえば、みなさんもドラクエだからとかFFだからで買ったりするでしょ?
それってみんなが話題にしてるからとか、前作が面白かったからとか、つまりおもしろさがある程度保証されてるからですよね。
でも、ドラクエとか見たいに数年に一本ならいいんですがそのシリーズは毎年出てましてさすがに飽きてきていました。
でも、新しいゲームを探す気力もなかった。
一つだけやってたら、それがゲームのすべてになっていて、だから、ゲーム自体に飽きてしまってたんです。
そのときふと見たPVとすでにプレイしていた人の評判を見て購入したのがゼノブレイドでした。
飽きていたんだけど、でも、好きだったから面白さを思い出したかった。
そして、思いださせてくれた。
私にとって、ゼノブレイドとはそういうゲームでした。

何せ冒険してる感がすごかった。
だんだん広くなっていったフィールド。
広さで魅せるのが終わったら、今度は多彩な風景を見せるフィールド。
何処までも歩いて行ける。
今まで私がやったゲームではたいてい見えない壁がつきまとっていました。
それがない。
崖があればその先には行けなかったのに、ゼノブレイドでは飛び降りれた。
縦横無尽に駆け回る。
ただそれだけで面白かったのです。
知らない世界が見える。
それも、導かれたわけではなく自分の意志で見つけた幸せ。
とても楽しかったのです。

美術を志していながら、有名な絵画になんてあんまり感動しなかった私は、そのころ迷っていました。
なんで美術館いってもふーん…なんて思ってるのに美術やってるんだって。
でも、ゲームには感動しました。
Wiiのゲームだったので、当時の同世代機であるPS3やXbox360のグラフィックには到底かなわなかったはずなのに、その世界の美しさに感動していました。
フィールドの見せ方のセンスがすごかった。
それはきっとゼノブレイド2にも受け継がれている。
だから、楽しみなのです。

2は、1とは直接のつながりがありません。
だから、2からやっても大丈夫なはず。
ぜひ、12月1日、一緒に冒険の旅に出ませんか?

2017年9月14日木曜日

ゼノブレイド2発売日決定しました!


今朝のニンテンドーダイレクトにて、ゼノブレイド2が12月1日に発売されることが発表されました!
いやー早い。さっそくコレクターズエディション予約してきました。
今年の一月に今年中に発売される旨は発表されておりましたが、まさか本当に出るとは…
こういうRPGって開発に時間がかかって延期されることも多いのでビックリ。
FF15とか10年ぐらいかかってるし…

やっぱり任天堂傘下になったことが大きいのかなと思います。
詳しいことは、社長が訊くという故岩田聡前社長のインタビュー記事を読むと面白いですよ。

社長が訊く「ゼノブレイド」

出来れば、今作も聞いて欲しかった…いろんなゲームのインタビューがあるんですが、面白いです。お時間あれば他も読んでみてほしいです。

このインタビュー記事は趣味でモノ作る人も読んでほしいなーと思っております。
わかってる人にはそんなこと知ってるわって感じかもしれないけど、趣味でやってるといつまでも手を入れていきたくなるじゃないですか。
手を入れることでよくなっていくから。
でも、それだといつまでたっても完成しなかったりするんですよね。
どこかで、区切りをつけなきゃいけない。
でも、どこで?
私はいつもそれがわからなかったのです。
いったいどこで終わればいいんだろう。
デッサンやってても、ここで終わってもいいし、まだ続けてもいいし…なんて思いながら描いてました。
どこまでできるのかわからない。
そんな時、まずは一つ作ってみる。できるところまで作り込んだ一つを。
そうすると、それが指標になるんですね。
完成形が見えたからこそ、さらに先に進める。

よく、モノ作りは完成させなきゃだめだって言うじゃないですか。
完成させないと正しく評価できないんですよね。
だって、完成してなかったらいいものになるかもしれないし、ここから悪くなっていっちゃうのかもしれない。
わからないのです。
ゲーム、特にCSゲーだと全て完成するまでに数年かかります。
だからこそ、一つ遊べるマップを作っていく必要があった。
どこまでできるかみんなで共有もできるし、ここまで作れたからこそさらに上に行ける。
そういうものなのだと思いました。

私はせっかちではやく人に見せたいと気が逸るタイプなので、ついつい雑になってしまうところもあります。
これでどうだ!と思えるぐらいかけなきゃダメですね。
本気になって取り組んだからこそ、次に進める。
そうなんだと思いました。

さて、ゼノブレイド2はどんな世界を見せてくれるのでしょう。
楽しみです!

2017年9月13日水曜日

本気になったら死ぬ病気

「まだ、本気出してない」「もっとやれる」
そういうだけで、一向に本気は出さない。
きっと本気になったら死ぬんだろう。
だから、本気にならない。

かくいう私は本気にならないでいる。
本気になって絵を描いたら、きっと自分の下手な絵は本気になっても変わらないとわかってしまうから。
上限はここじゃないと信じたいばかりに、本気になることをしない。
だって、本気で描いたのに思った評価を得られなかった。
本気で描いたのに、いつだって自分の上に誰かがいる。
その状況から逃げたくて、本気じゃない、本当はもっとやれる。
そう、言い訳をしている。

そうしているうちに、本気じゃない状態が上限になる。
もう、とっくの昔にそうなってる。
好きなはずなのに本気が出せず、本気になれないから興味が薄れる。
本気と書いていて、ゲシュタルト崩壊しそうだ。
ネットで本気の出し方を検索している。
そんなことしてる時点でダメな気もする。
とあるネットの記事で、本気を出すのも才能だなんて書かれていた。
じゃあもう、どうしたらいいんだろう。

本気になったつもりで描くしかないのか。
つもりを続けてたらいつか本当に本気になれるのか。
どうなのか、わからない。
やるしかない。
やるしかないのか。

好きだったら本気になれる。
そういうのなら、好きじゃないのか?
好きなんだ。
好きなのに、本気になれないから辛いんだ。
そうでなきゃ、とっくに諦めてる。
諦められないんだ。

本気になったら死ぬ病気なんて、幻想、なんだ。

2017年9月9日土曜日

「存在意義」というネタ

ニュースアプリを見ていたら、コメント欄で「レゾンデートル」なる単語を見つけた。
なんだそりゃ?と思ってググったら、存在意義という意味のフランス語だとか。
なんですぐに横文字を使いたくなるのか…と思いつつも、存在意義という意味に惹かれた。

何度か書いているが、私は「死にネタ」が好きだ。
とはいえ、別に悲惨な、グロテスクな、そんな死に様を見たいわけではなかった。
海外のホラー映画のような痛い死に方は、見ていられなくて目をそらしてしまう。
何が好きなのかといえば、人が死ぬということの前後でおこる、人間模様が好きなのだ。
何気ない日常から突然永遠に失われてしまう、それを引き起こす死という現象。
それに相対したとき、どういう行動を起こすのか。
それが見たいのだ。

ある意味でそれは、「存在意義」について描くということなのではないかと思ったのだ。
失ったからこそわかる「存在意義」というものを、他人の目を通して書いていく。
「死にネタ」ってそういうものなんじゃないかと思う。
もちろん、全てではないけれど。

こういうネタについて考えるのは、どうも最近描きたいものが見えてこなかったから。
描きたい場面、描きたいキャラ、そういうのはあっても、どうにもまとまらない。
話が散らかってしまう。
そうしたとき、テーマとなるネタがあると締まる。
必要な描写とそうでない描写を取捨選択できる。
テーマや伝えたいことが必要なのは、その取捨選択をするためなのだ。

「死にネタ」が好きでも、さすがにすべて死にネタにして描きたいわけじゃない。
平凡な日常のことだって描きたい。
けれど、その日常を描くのに伝えたいことがない。
そうすると、いったい何を描いているのかわからなくて迷走する。
そういう時、もっと、広い意味で描きたいこと、伝えたいことがあった方がいいと思ったのだ。
そうしたとき「存在意義」という単語は、一つの答えになった気がする。

ヒントっていろんなところに落ちてるんだと感じた。
やっぱりいろんなモノを見ている方がいい。

2017年9月7日木曜日

嫌になる、ということ

学生の頃、絵を描くのが嫌になった。
だから、論文を書けば卒業できる研究室を選んだ。
でも、なんで嫌になったんだろう。

いつまでたってもうまくならないから?
どこまで行っても、上には上がいる。
心のどこかで一番になりたいと思っていた。
中学生の時からすでにそう思っていた。
でも、どこへ行っても一番になれない。
頑張る気をなくしていた。

それでも描き続けた。
上手くなる努力はできなかったけど。
資料もみないし、教本だってちんぷんかんぷんだし。
それでも、描き続けた。
頑固だから。
一度始めたことをやめるつもりはなかった。

嫌になったのは、面白くなかったからなんだと思う。
はじめは面白くて描いていたのに、絵を描いていれば美術や図工の授業なんて関係なく、子供同士で比べはじめて評価してしまう。
頑張って描いたはずなのに、いつだって求められるのはうまい子の絵だ。
子供にだってわかるのだ。
それでも、こんな自分でも求めてくれる人がいるはずだ。
そう思って雑誌に投稿した。載るまで頑張って、それからも投稿し続けた。
交流サイトのお絵描き掲示板というのにも投稿し続けた。
そこが、絵を描く身としての居場所になっていた。
なっていたのに。

雑誌は休刊。
サイトは閉鎖。
運が悪いことに立て続けだった。
居場所を失ってしまっていた。
描き続けることさえも嫌になったのは、思えばあのころだった。
面白いことが、なくなってしまった。

毎月、載せてもらえるようにどんなネタがいいだろう、どんなイラストがいいだろうと考えて描いたイラスト。
毎週、交流したくて描いたイラスト。
大事にしまってある。
楽しかった思い出だ。
嫌になってしまったのは多分居心地が悪くなってしまったから。
自分の居場所でなくなってしまったから。
それでも他に居場所を見つけられないから、描き続けた。
面白くなくても。

もう一度、好きになれるんだろうか。
もう一度、居場所になれるんだろうか。
嫌になっても、考え続けてる。

2017年9月1日金曜日

坐骨神経痛になりました(笑)

一週間ぐらい前、急に腰が痛くなりました。
でも、そこまでひどくないし、以前にも時々痛くなったことがありました。
その時はシップを貼っていれば治ったので、今回もシップを貼って過ごしておりました。
ところが。
何故かふくらはぎがつったように痛くなり。
歩いていれば収まったので、気にしなくてもいいかと思っていたのですが、朝起きると起き上がるのも嫌になるぐらい痛いのが何日も続いてさすがにこれはまずいと病院へ。
レントゲンを撮ってもらったのですが、背骨の隙間が一部分だけ異様に狭くなっている。
軟骨が変形していてそれが神経を圧迫している。
それが坐骨神経痛でした。
どうやら今まで痛かったのもそのせいだったようです。

しかし、痛みがあると何もやる気になりませんね。
やらねばと思いながらも、痛みが収まったらにしようと寝っ転がってしまいます。
痛み止めを貰ったとはいえそんなにすぐに収まる物じゃなかったので、結局何もできずじまい。
激痛、ではないんです。
我慢できなくもない。でも、そんな痛みでも長々続けば嫌になる。
それに、そんな状態なのでイライラしてしまいます。
病は気からなんて言いますけど、体の状態も気持ちに影響を及ぼす。
体と心は密接に関係しあってるんだなぁと改めて実感しました。

人間って簡単に影響されちゃうんですよね。
環境だったり、関係だったり。
日記をつけてると思います。
考えてることってホント一瞬一瞬で違ってくる。
自分で一貫性があると思っていても、案外そうでもない。
だからついつい、新しいものから身を守ったりしてしまうのかもしれませんね。
変化って怖い。
変わっていくことって怖い。
今までのやり方がきかなくなるから。
でも、自分が変わらなければいいって訳でもない。
まわりも変わっていく。
変わっていっているのにいつまでも同じ方法をしているのはよくない。
たとえ成功体験でも。
その時はうまくいったからって、同じ条件がそろうとは限らないから。

痛み止めのおかげかだんだん痛みもひいてきました。
痛みがないと少しずつやる気も戻ってきます。
こういう体験を残しておけば、創作に役立つかも?なんて今は思ってます。
風邪とかインフルエンザとかにかかったことはありますが、こういう痛みははじめてだったので、知識としてはあっても実際どうなのかってわからないものですね。

暇な時間は横になってることが多かったのでいろいろ考えてしまいました。
「勉強」について、なんて考えてしまいました。
勉強というとどういうイメージでしょうか。
私は、机に座って本を開いて…なんてイメージ。
いわゆる学校教育的な勉強のイメージですね。
私、勉強嫌いというかなんかなんなんだろうこれ、何のためにしたんだろうと思っていました。
学生時代、美術系に進んだせいか高校までに習ったもの全然忘れてしまっていて、そういう知識が問われる試験のために勉強しなおしたとき、え?覚えてない?え?これも?なんてガッカリしちゃいました。
一応進学校だったんですよね、高校。
だから受験のために必死に勉強しました。
それなのに、習ったような覚えはあっても肝心の答えがわからない。
知識になってない。
まさに受験のための勉強。
なんか、馬鹿らしくなりました。
大学に入るのに必要だったんだから、そこ突破できたからいいんじゃないかと思う方もいるでしょうけど、受験のための勉強ってそれって重要なの?と思ってしまったんです。
知識は、知って役に立たなきゃ意味がない。
活用できなきゃ意味がない。
そう思ったのです。
だから、勉強は大事だと頭でわかったつもりでいても全然できない。
どうせ、やった傍から忘れてく。
活用できなきゃ意味がないのに。

そう、活用。
私の場合、実際にやってみたりとかして、(だから実技が多かった美術も好きだったんでしょう)そこから調べたりするようなことは好きでした。
今思えば、それも勉強だなと思います。
必要だからと言われて覚えるのはなんだか苦痛だけど、やってみて必要だとわかれば覚えられる。

だから、坐骨神経痛の事とか調べちゃうんでしょうね(笑)
今、痛いから。
これもまた、勉強と言っていいんじゃないでしょうかね。

2017年8月24日木曜日

「死」という題材

大河ドラマは見てますか?
歴史とかあまり得意ではないので、祖母が見ているのをなんとなーく眺めている。
そんな感じだったのですが、昨年の「真田丸」の脚本が三谷幸喜さんだったのでずっと見ていました。
三谷さんの喜劇面白くて好きだったので!
前半はよかったんですが、ラストがちょっとあれでしたかね。
なんか週刊漫画の打ち切りが決まって尻つぼみで終わったかのような…

とまあ、昨年の感想は置いといて。
その流れで「おんな城主直虎」も視聴しております。
今週の話は、ちょっと話題になりましたね。
主人公の直虎が、主人公の治める井伊の地を守るために幼馴染であり臣下であった男を槍でつく。
何とも悲壮な場面。
感想を検索すると、泣いたとかそんな感想が出てきたり。

いやしかし、「死にネタ」好きとしては最高の場面でした。
本心を口にはできない、それでも通じ合う二人。
穏やかな日常が手に入りそうだったのに、あとその手から零れ落ちていく残酷さ。
死ぬのに、だというのに笑う男。
次回予告が素晴らしい。
いなくなってしまった彼の名を呼ぶ直虎。
お家を失った現在と相まって、何ともいえない物悲しさが映像から伝わってきます。
むしろ、来週が楽しみ。

「死にネタ」を盛り上げるのは、悲壮な最期ではなく前後のストーリーだと改めて認識しますね。
いきなりこの場面で始められても、悲しくはないんですよ。
井伊のたどってきた物語と、二人の関係が描かれたからこそ、悲壮感を増すのです。
だって、刑事ドラマなんてたいていいきなり人が死ぬけど、そこまで悲しくはないでしょう?
そして、もっと重要なのは、実は死んだあとだと思うのです。
昔、テイルズオブシンフォニアというゲームがありました。
プレイヤーの選択によっては、パーティキャラの一人が裏切りそして死ぬ。
ただ、そうやって選択させたにも関わらず、死んだあとそのキャラに関してそのダンジョンを抜ける際に一言あったぐらいで、その後はまるで初めからいなかったかのようなのです。
仲間を大切にする、そういう評価の主人公であるにもかかわらず何ら言及がないので、むしろ薄情だなと思ったものです。
そうなんです。
死んだあと、死んだキャラに関わった人たちがどうなるか。
「死にネタ」の重要ポイントはそこなのです。
今までそこにいたものが失われたときどうなるのか。
刑事ドラマが好きなのもそこかもしれません。
被害者遺族となった家族たちの反応。それが、被害者の生前を思い起こさせる。
いないのに、です。
そこが面白いんだと思います。
もちろん、派手なアクションとか推理とかそういうところも面白いんですが。

死にネタについて書きたいと思ったのは、実は今週の聖闘士星矢EpisodeGAを読んでから。
なにそれ?と思うかもしれません。
チャンピオンクロスという、無料のWEB漫画サイトで読める聖闘士星矢の派生作品です。
今週のお話は、ある兄弟が地上のために殺し合わねばならない展開でした。
その兄弟は、聖闘士の鑑と言われるような正義感あふれる兄弟なんですが、GAだとその兄は狂って自らを純然たる悪とまで言うようになってしまいます。
彼がなぜそうなってしまったのか。
それを描いた過去のお話が今週の話だったのです。
邪神にとりつかれた弟を、殺さなけらばならなかった過去。
最高でした。
これまで描かれていたのはいわば、死のあと。
死の前というのは原作やGAの前作で描かれていたように、仲のいい兄弟でした。
殺し合わねばならない。
殺さなければ地上は滅ぶ。
でも、弟を殺すことなんてすぐには決断できない。
それを促したのは、なんとか意識を表に持ってきた弟の言葉。
兄はみんなを守るために正しい選択をするのだという、弟の言葉。

「死にネタ」の何が好きかって、多分、それぞれあるんだろうけど、私は死という不可逆的な出来事に対して起こる変化です。
中にはスプラッタなものが好きな人もいるんだろうけど、私実はスプラッタなホラーとか見てられないんです(笑)
ホラーだとやっぱり自分の身を守ることが最優先になっちゃいますから、「死にネタ」としては面白くないんですよね。

ああ、面白い。

2017年8月21日月曜日

足裏樹液シート

一時期流行りましたよね。
足の裏に貼って寝ると、毒素やら老廃物やらが染み出して色が変わるシート。
本当に毒素が抜けてるかどうかは定かではなく、似非科学だとかいろいろ言われておりますね。

最近足の裏のむくみが酷いので貼ってみました。
足の裏をぎゅっと曲げようとするとすごい違和感を感じるし、なんか溜まってるのを感じていたので、
むくみって余分な水分が溜まってるらしいじゃないですか。
汗が出てシートに水分が吸収されているのは確かな感じなので、水分が出るならいいんじゃないかと思いまして。
こんな感じに色がつきます。
なんの色かは私にはわからないけど、べたべたしてます。
水分は出てってる感じがあります。
朝起きるといつもよりのどが渇いてます。
むくみも多少改善された気がします。
ちょっと気持ちほっそりしたかなーみたいな。
足の裏を曲げようとしたときの違和感もなくなってるし、軽くなった気がします。
指で足つぼ押すとすごいゴリゴリしてたのも、あんまり感じなくなりました。
効くことは効くみたいです。
100均で売ってたので、そんなに出費もないしよかったかな。

一緒にウェットティッシュ買っとくといいかもしれません。
はがすとべたべたするんですよね…
裏にも水で洗い流すか濡れタオルで拭いてねって書いてあります。
あと、木?竹?そんな匂いがするので気になる方は気になるかも。

2017年8月4日金曜日

話を練る

二次創作を始めたのは最近の事だけど、一応漫研なんかで漫画を描いておりました。
でも、二次創作と一次創作は勝手が違う。
二次創作は世界観もキャラクターもすでに出来上がってる。
それゆえだろうか、こういうネタを描こう!と思っても、いざネーム(漫画の設計図みたいなもの)を描こうとすると全然描けない。
長いものでは、ネームに一か月以上かかってしまった。
一次創作の時は、長くても2週間ぐらいだったのに。

何故だろうか考えてみた。
さっき二次創作では世界観もキャラクターも出来上がってると言った。
そこなのだと思った。
一次創作の時は、ネームを描き始める前にかなりの時間を使ってキャラクター設定、世界観設定を作っていた。
で、かなり時間をかけても、物語を作る際に邪魔になればいらないと捨てていた。
続き物を描いていたとき、そうなるとだんだん二次創作と同じように設定も出来上がって外せないものも出てくる。
その時はすごく時間がかかった。
だから、二次創作も同じように設定が決まっているから描けないのだと思っていた。

でも、そこは半分正しくて半分不正解だった。
一次創作の時、設定をかなりの時間かけて練っていたといった。
でも二次創作はすでに出来上がっている。
原作を読んでよく知っている…そう思っていた。
だから、あまり設定を練っていなかったのだ。
そこがいけなかったと感じる。
二次創作は原作にないような場面も出てくるし、そういった面を描くのも楽しさの一つだろう。
そういった場面でのキャラクターの行動が、何となくでしかわかっていなかった。
だから、動かせない。
無理に動かすと、話の都合で動いてしまって、このキャラこんなことしないと思ってしまう。
だから、一向にネームが仕上がらない。

というわけで、最近は話を練ることにした。
まだ始めたばっかりであんまり変わらないかもしれないけど。

まあ、考えてみれば、美術の授業なんかでも作品づくりってテーマをポンと出されてさあ描いてみたいな状態だった気がする。
頭の中にあるものを直接本番用紙に描いていく。
そんな風に訓練されてたら、なかなか考えてネタを出すという作業ができないのかもしれない。
美術の授業はどんどん削減されてしまってるみたいだけど、ちゃんと授業内で思考する方法を教えておいた方がいいんじゃないかしら。
だって、私もそうだったけど一般人の美術科のイメージって、思いついたら即キャンバスって感じじゃないですか?
そうじゃない、習作や取材、構想を練る場面があるのに。
いきなり本番じゃ誰だって失敗する。
それも、美術嫌いの理由の一つになるんじゃないだろうか。
何事も練習が肝心。

2017年8月3日木曜日

聖闘士星矢再アニメ化ですってよ。

車田正美原作『NETFLIXオリジナル聖闘士星矢(仮)』Netflixで全世界配信決定!

昨年の派生作「セインティア翔」のアニメ化、ハリウッドでの実写化の報道に続いて今度はCGアニメ―ションとしてリメイクして再アニメ化だそうです。
NETFLIXオリジナルということで、登録してないと見れないんですかね。

東映はどれだけ星矢を流行らせたいのでしょうか(笑)
実は今の東映アニメーションの偉い人に、かつて80年代に星矢に関わってた人がいるみたいなので、多分そのせいです。
星矢好きとしては話題が尽きないので嬉しいですが、好きなのでもっといろんな世代に流行ってほしいところです。
やっぱり、本当に長く続くシリーズっていうのはかつてのファンだけじゃなくて、新し人が入ってきてるんですよね。
そうでないと、かつてのファンだって飽きたりして離れていってジリ貧になってしまいます。

長く同じものを好きでいるのって案外難しいんですよね。
もちろん、あ、昔好きだったなと何かをきっかけに思いだしたりすることはあるけど、ずーっと同じものを見ているのって難しい。
長く好きでいられる人は、そのものの新しい面を発見できたり、もしくは新しい作品でそういう面を見せてもらったりしてるんだと思うんです。
私が星矢を好きでいるのも、多分いろんな展開があるからだと思います。

例えば、ファンには不評もあったようですが「聖闘士星矢Ω」
聖衣がボディースーツっぽくなったりしたところが不評だったようですが、私は別に嫌いじゃなかった。
星矢の「星座モチーフの形の模型が分解して鎧になる」アイデアはホント素晴らしいんだけど、正直なところ、後の方の敵キャラはごてごてしずぎてほぼ着た形と模型状態の形が変わらなくなってましたし、これはこれでありかなと。
そこは確かに星矢を印象付ける部分ではあるんだけど、多分、ストーリーの根幹というか星矢を星矢らしくしている部分ってそこだけじゃないと、私は思います。
そういうのもありか!と思わせてくれる作品が好きなんですよね。

だからこそ、エピソードGだったり、LoSが好きなんです。
賛否両論あるだろうけど、そうでなくっちゃ。
そう来るか!その発想はなかった!
趣味とはいえ、一応漫画描きとしては悔しくなるところもあります。
なんでもありのように見えて、ちゃんと聖闘士星矢なんですから。

同じものだと確かに安心はしますが、同じだと思うと脳が覚えるのをやめるらしいです。
多分、飽きるのもそういうものじゃないかなと思います。
新しい発見がないと思うから、飽きちゃう。
絵を描いてても同じものばかり描いていると飽きちゃいます。
変化って大事ですね。

2017年7月27日木曜日

スプラトゥーン2はじめました

基本的に流行にのらないわたぬきですが、スプラトゥーン2はじめました。
やっぱり体験版的なものがあると面白さがわかってやってしまいますね。
前夜祭が楽しかった!

ランクはただいま15です。
勝ったり負けたり…楽しいですね。
前夜祭ではローラーがいいかなと思ったんですが、いろんな武器が増えてくると狙われやすくなり…今はプロモデラーMG使ってます。
たくさん塗れるように頑張ってます。
でもうまい人と当たるとどんどん自陣に攻め込まれてきちゃいますね。
いやー駆け引きが難しい。
でも、これは流行りますね。
とてもルールがわかりやすくてやりやすい。
それにキャラやグラフィックがポップで可愛くて細かいところまで作り込んであって、ストーリーはないけど、そういった部分で世界観を語っているのがいい。
ヒーローモードにはストーリーありますが、別に世界観は語ってません。
語ってるとしたら、収集要素のミステリーファイル。
まだ全部は集めてないけど、いろいろ想像をかきたてますね。
こういうの面白い。

ゲームやってると、やっぱり自分はゲーム好きなんだなと思います。
子供の頃から基本的に、遊べるものが好きで、だからホビーアニメなんかも好きでした。
流行にのってハガレンとかガンダムも見てましたし好きでしたが、やっぱりハマるのはゲームの方。
やっぱり自分で進めてく方が好きみたいです。
じゃあ、なんで聖闘士星矢が好きなのかというとゲームやってて気が付いたんですが、この作品はいろんな解釈が受け入れられる懐があるんだなーって思ったこと。
物語を進めるのに必要なことしか語られてないからこそ、そこからくみ取っていく面白さ。
あと、展開が予想外。
想像の範囲内で終わるとああそうだよなで終わっちゃうんだけど、そうじゃないから驚きとともに覚えてる。
最近の作品は丁寧に解説しすぎです。
突き放して、読者の想像力を信じてくれてもいいと思う。
ゲームは製作者とプレイヤーの殴り合いだと思っております。
製作者の想定外の遊びも許容できればこそ、作品世界も広がる。
漫画も多分そう。

スプラトゥーン2はどんな遊びができるんでしょう。
これからのアップデートも楽しみです。

2017年7月20日木曜日

写真を撮ることを趣味にしたい気分

カメラを持っているものの、あまり撮影はしないし、撮ったら撮ったで人に見せるわけでもなし。
せっかくブログもあることだし、撮りためた写真をのせようかなとか考えてます。

以前、バイト先でブログを書かないといけなくてそれで写真を撮りためるようになりましたが、その経験上やっぱり自己満足で撮っているよりは人に見せる気になっている方が、撮り方を工夫したりとかするし、ちょっと構図とか勉強したいなと思ったりしたので、人に見せるのは大事かなと思いました。
あと、写真を撮り始めたのはイラストの背景とかに使えないだろうかと思ったのと、イラストの構図の勉強にならないかなという感じです。
何を書くかとか考える必要がない分、構図に集中できる気がします。

ちなみに、使っているカメラはCannonのpowershot s120です。

 夕焼け空。この時間帯は、目に見えた色に近づけるのが難しい…
でも、写真で撮れた色の方がよかったりもするのが面白いです。
なんかこう対角線構図っぽくなっていい感じな気がします。

 水面に映るお堂。コンデジだと反射を消すのは難しいんだけど、こういう感じに水面に移り込んでいるものを撮影するには十分。
もう少し緑が濃くなるように写したらよかったかも。


私の趣味。知っている方はみればわかるかもしれません。聖闘士星矢です。
黄金聖闘士という黄道十二星座を守護星座に持つキャラクターたちで、文字のごとく金ぴか。
金ぴか感出てますかね?
あ、知ってるけどこんなんだったっけ?と思った人。実は2015年に新作アニメが作られてまして(聖闘士星矢黄金魂っていうのです)そこで出てくる黄金聖衣の進化系です。
神聖衣って言います。原作でも星矢たちが最終決戦に臨むときに青銅聖衣がこの神聖衣に進化してました。
みんな羽根もしくは羽根っぽいものがついててより金ぴかです。
ちなみに、今度はセインティア翔という派生作品のアニメ化も予定されております。
最近はリバイバルみたいな感じで昔の作品やってたりしますね。
私もリアルタイムでは見てなかったんですが、後になってハマりました。

設定をいじったり、撮影モードを変えてみたりするようになってから、ちょっとずつですが狙った写真も撮れるようになりました。
やっぱり機能を知らないと、ですね。
パパッと撮るならオートでも十分ですが。
でも、少し高いコンデジだったので、もうちょっと機能を使いこなしたいところ。

今時コンデジを持つということ


学生の頃、絵画とか工芸の課題でレポートを描くのに作品の写真を撮影する必要があった。
携帯のカメラでも可とは言われていて、最初はそれで撮っていたものの、あのころ今のような高精細に写せるスマホはなかったし、私の携帯は数年前の機種で古く他の人のレポートと比べたら見劣りしていた。
親のカメラを借りる方法もあったが、結構大きかったので大学まで持っていくのもなんだかなと思い、コンパクトデジタルカメラを買った。

でも、今だったら多分スマホのカメラで十分だろう。
多分、あのころ買ったコンデジのカメラと同じぐらいの性能はあると思う。
だから、多くの人は写真を撮るにしてもスマホで撮影している。
そして、写真にはしない。
昔だったら、写真は現像しなければちゃんと写せているのかわからなかった。
デジカメに代わっても、写真にする目的があるからこそカメラを買っていたはずだ。
でも、今やカメラは写真に現像する目的で撮影するものではなくなっている。
デジカメで現像したのは結局、人に見せるのが大変だからで、SNSで簡単に共有できる今、よっぽどのお気に入りや残しておきたい写真でなかったらなかなか写真にはしない。
写真を趣味にしたりするのは、一眼レフとかそういうすごいカメラを持っている人。
そんなイメージだ。
やっぱりそういうカメラで撮った写真はすごくきれいだし。
となると、コンデジって中途半端な存在になってしまった。

それでも私はコンデジを使っている。
ちょっとお高い高級コンデジというタイプ。
一眼レフには敵わないけど、まあ、スマホよりはいい感じ。
そんなカメラ。
何故それを持つのかといえば、スマホのカメラじゃ星は撮れないから。
双子座流星群という、天体現象の撮影がしたかった。
カメラに詳しい人が聞くと、ん?って思うかもしれない。
それだったら一眼レフとか買った方がよかったんじゃないかって。
もちろん、そっちの方がより綺麗に撮れるのはわかってる。
でも、コンデジがよかった。

まず一つ。これで星が撮れる事がいい。
コンデジで星が撮影できる、その事実がいいのだ。
一眼レフで撮影できるのは、当たり前。
当たり前じゃないからいいという天邪鬼というかなんというかそんな理由だ。
あともう一つ。カメラを鞄に突っ込んでおきたかった。
いつでも撮れる。そのためにはコンパクトでないといけない。
おや、上でスマホのカメラはいいって言ったじゃない。
だったら常に持ち歩いているスマホで撮影すればいいんじゃない?
そう思うかもしれないが、写真撮影アプリを使うとスマホの電池を喰うから嫌なのだ。
それだったらコンデジを持ってた方がいい。
そういう理由だ。

それにお手軽になったからこその弊害がある。
フィルムカメラの頃は一枚一枚大事に撮影していた。
でも、いくらでも撮影できるようになったら、大量に撮影しはじめる。
そうすると、いらない写真もあるのに、お手軽にとったのであとから整理することもない。
容量が大きいとはいえ、スマホで写真が何千枚と並んでいるのは正直見返す気がしないし、やっぱり容量を圧迫している。
カメラはカメラでしかない。
容量がいっぱいになっても困るのは写真が撮れないことだけだ。
スマホだとそうもいかない。
だから、カメラはカメラだけにしておきたいのだ。

とはいえ、スマホのカメラも使うことはある。
やっぱりすぐにSNSにあげられるのは楽だ。
ちょっとしたものならそれで撮るのが一番。
それでも、そうやって撮影しているだけでもすでに数百枚あるんだから、カメラとして撮ってたらもう、はじめに撮った方なんて見る気がしない気がする。
今だって過去の画像を探すのが大変なんだから。

コンデジの困ったことは、参考書がないことだろうか。
カメラを趣味にしたい人はたいてい一眼レフだ。
別にそういうのが参考にならない訳じゃないけど、コンデジに特化した参考書も見てみたい。
うーん、難しい。

2017年7月19日水曜日

誰かと遊べばより楽し

スプラトゥーン2発売まであと3日…
発売が楽しみです。

ゲームってあまり私のまわりではやってる人いなくて…
いることはいるんだけど、スマホゲーだったり、CSでも私がわりとマイナーなゲームをやることが多いせいか、結局仲間を求めるとネット上ということにばかりなる。
でも、スプラトゥーンは前作が流行りましたし今回も盛り上がってて遊ぶ人がいて、そのおかげでよりワクワクしています。
スプラトゥーンは一緒に遊べるゲームですからそれはそれで面白いんですけど、ゼルダなんかのプレイヤーが一人のゲームも同じゲームで遊んでいると面白いですね。
ここはどうだ、あそこはどうやってクリアするんだ…
そんなことを話している時間がとても面白い。
大人になってゲームから離れていくのは、やっぱりこういう話ができないからなのかもしれません。
みんなの興味がゲーム以外にも増えて、ゲームだってジャンルが違ってきちゃったりして…
ゲームだけじゃなく、ネット上で実況というものが行われるのも、結局は楽しみを共有したいってことなんだろうと思います。
いつの間にか、交流とか共有することがメインになっていて作品はそのための媒体でしかない…なんてことも起きたりしてますが。
そういえば以前、任天堂の宮本茂氏がいっていたと思うのですが、相手がいれば面白い、だからメールって面白いんだ、そんな風なことを言っていた…はずです。
どの記事だったか思いだせなくてソースが出せないんですが、でも、確かにそうだなと思います。
ゲームだって、なんていうか、思った通りに動かせることも面白いけど、自分が思いもしなかった反応が返ってくるというのが楽しい。
ゲームじゃないけど、漫画家の車田正美先生が週刊少年漫画は読者との殴り合いだみたいなことを申していました。
殴り合いということは、双方向なんですね。
双方向だから面白い。
反応が返ってくる。
ゲームはプログラムなので、長くやってるとある程度反応が予測されてきちゃうけど、対人だとそうもいかない。
だから、誰かとやるとより長く楽しめるんだと思います。

ゲームが楽しいって素晴らしい。

2017年7月17日月曜日

「失うこと」が紡ぐ物語 死にネタについて

以前「死にネタ」についてブログを書いた。
「死にネタ」に思うこと 2017/02/19

時々、アクセスがあるみたいで、語りきれなかったことを語ろうかなと思いこの記事を書いています。
以前の記事を読んでいない方に軽く「死にネタ」について説明しておくと、死にネタというのは字の通り死を扱うネタの事。
多分、この単語で作品の内容を表すのは二次創作が多いと思う。
二次創作で原作のキャラを原作のストーリーと関係なく殺してしまう、死なせてしまう時に「死にネタ注意」と書く。

さて、私は学生の頃、漫画研究会に所属していた。
漫研で7本オリジナルの漫画を書いたが、そのうち5本は人が死ぬ話だった。
あのころは二次創作の漫画をネットで発表したり、同人誌を描いたりはしてなくて、半分はそこでやりたかったネタをオリジナルで描いていたから、ある意味二次創作だった。
以前の記事に書いたけど、「死にネタ」は嫌われることもある。
二次創作だもの、好きなキャラが活躍しているところを見たいと思って読んでいるのに、その好きなキャラが死んでしまう話なんて、知らないで読んでたらきっと気分が悪い。
それゆえに実際に書いて発表するのは、なんだかとても気が引けたのだ。
オリジナルなら、そういう話だと納得してもらえる。
だから、描いていた。
最近は、注意書きしとけばいいやと二次創作でもやってるけど。

でも、二次創作でやっていると死にネタもだんだん扱いづらくなる。
何せ、今やってる二次創作、原作中で自分の好きなキャラはすでに死んでいるから。
死んでいるから、他の人だと生き返らせる創作が多いんだけど、死にネタでそれをやったらそれこそ本当は嫌いなんじゃねと思われる気がする。
だって、わざわざ死なせるために生き返らせているのだもの。
それはさすがに気が引ける。
でも、ふと、死にネタ以外を想像していて気が付く。
死とは生命を失うこと。
他のネタにかんしても、何かしら失っていくことを描いていた。
私は多分「失うこと」が生み出す物語を描きたいのではないかなと思い至った。

「失うこと」に関して、とても印象深い話が合った。
「爆走兄弟レッツ&ゴー!!」という作品はご存じだろうか。
第二次ミニ四駆ブームをけん引した作品で、いわゆるホビー漫画。
私は子供の頃それが大好きで、学生の頃に中古ショップで見つけたレンタル落ちのVHSを全部買って見直した。
ホビー漫画だと、よく出てくるのが新しい玩具に乗り換えるシーン。
性能がよりアップした玩具を手にして、強い敵に挑む。
レッツ&ゴー!!にももちろんそういうシーンがある。
その一つ。これがとても印象深かった。
ある研究所に招かれた烈と豪の兄弟(主人公)
それは敵側の罠で、なんと、二人の大事にしていたミニ四駆を容赦なく溶岩の中に落としちゃいます。
二人は大事にしていたミニ四駆を失って意気消沈。
博士が新しいミニ四駆を、二人が大事にしていたミニ四駆のデータをもとにより改良して作ったんだよと用意してくれても、それは自分たちのじゃないと拒否。
でも、最後にはそのミニ四駆で走り出す。
大事なものを失う辛さ、その代わりはいないこと、でもその魂を受け継いでいるんだと気が付きまた走り出す二人。
他のホビーアニメだと、結構すぐに乗り換えてたりするんだけど、この話、乗り換えるまでに2,3話使ってて、ホント、失ってしまったことの悲しさ辛さを強調していました。
それは、大事な友人を失ってしまったかのような…

それはある意味、死んでしまったことと同じだった。
ただ壊れただけじゃないんですよね。
溶岩に落ちたら、跡形もなくドロドロに溶けちゃいます。
もともと、この漫画の主人公二人って、あんまり強いレーサーじゃなかったんだけど、対照的な兄弟だから同じマシンを与えたらどう改造してくるんだろうと、博士が二人にマシンを与えるんですね。
そこから自分の手で作り上げたマシンだから、本当に大事なもので。
唯一残されていたのは、使い古してしまいこんでいたモーターだけ。
モーターって使い古すと速く走れないんですよね。
それをあえて使って走る。
そうやって、大事なマシンの魂をのせる。
そうやって、確かに二人の走りのデータをもとに作られたマシンなんだと実感する。
なんだかその一連の流れが感動的でした。
まるで、死に向き合っていったような感じ。
こうして、乗り越えていくんだなと思ったものです。

よく、物語というのは失ったものを取り戻しに行くことで作られると言います。
何かが足りない状態も、足りている状態から失っているということです。
王道の魔王を倒しに行く物語も、魔王によって失われた平和を取り戻しに行く話。
ある意味、失うことをテーマに描くことは、王道なのかもしれません。
そして、死もまた、失うことである。
だからこそ、物語が紡がれるのだと、思いました。

2017年7月16日日曜日

スプラトゥーン2前夜祭遊びました。

さてさて、スプラトゥーン2の発売まであと5日となりました。
1をやっていなかったので、これを機会にやってみようかなと今回前夜祭遊びました!
試射会もやったんですけど、その時はホントダメダメな感じで…
これでだめならどうしようかな…と思ってたんですが。
今回は、何となく掴めた!そんな気がしました。

まず、初心者はローラーがいいのかなと思いました。
ローラーで前線に出ないで隙間なくぬりぬり。
地道に陣地を広げていく。
広げていくうちに戦いの真っただ中にいちゃったりするんだけど、ローラーだと轢いてしまえば一発で倒せるので、毎回うまくいくわけではないけどあっさり倒せてしまったりして面白かった。
試射会の時は、やっぱりガチ勢の中に初心者じゃ到底かなわないな…と思ったのですが、今回はなかなかいい戦績。
もうちょいやれば勝てそうだ!とか思えるとがぜんやる気になりますね。
試射会のときは、他のレベルが高すぎてもう越えられねぇ…って感じで。
そういうのってやっぱりやる気をそぐじゃないですか。
どうあがいても越えられそうにない。
スポーツで言ったら、アマチュアなのにプロの世界に放り込まれてもどうにもならない。
そんな感じでした。
でも、今回は時間の長さ的にもいろいろ試せて、あと前回よりもフィールドが広くていろいろ遊べましたね。
誰もいないフィールドを散歩したりもできるんですね。
チュートリアルやってから日が空いてたので、あそこで少しでも練習できるのはよかったです。
実際のゲームの場合はヒーローモードっていうのをやればだいたいの操作に慣れるらしいので、発売日が楽しみです。

こういう、体験版みたいなものはいいですね。
ゲームってやってみないとわからないところがあるんですよね。
体験版をやって購入を決めたゲーム、本当に面白かったです。
バテンカイトスっていうんですが。
キャラクターデザイン、結構癖のある絵柄だったので敬遠してたんですが、ゲームのアンケートに答えたら体験版が送られてきまして、せっかくだからとプレイしたらそのシステムが面白くて面白くて。
やり込んだゲームです。

スプラトゥーンも絵柄は結構癖のある感じですよね。
どちらかといえば、アメコミとかなんか海外の雰囲気。
昔やってたパワーパフガールズみたいなデフォルメの強い感じ。
でも、こういうのって楽しければやってるうちに愛着が湧いてくるんですよね。
バテンカイトスもそうでした。
システムが面白いので、これが流行るのはすごいわかりました。
ゲームが流行れば、癖のある絵柄でも受け入れられる。
それがすごく表れているのがスプラトゥーン。
それにあの絵柄のおかげで、スプラトゥーンの世界観が唯一無二って感じになります。
絵柄がリアル系な洋ゲーって詳しい人に言わせたら全然違う!って言うんでしょうが、外から見てると世界観の違いがよく分からないじゃないですか。
それが任天堂のゲームだと、マリオはマリオ、ゼルダはゼルダとそれぞれのテイストがあってデザインとしてまとまっているのでわかりやすい。
ちぐはぐさがない。
システムなんかも感じますが、グラフィックに関しても、どう見せるかをすごく考えているんだろうなと感じさせますね。
全てのものに理由があるとは言いませんが、でも、ゲームとか創作物って人の手で作られているもの。
そこにある意味付って結構大事だと思います。

ゲームの話からちょっと逸れてしまいました。
スプラトゥーン2楽しみです!

2017年7月14日金曜日

デザインと模倣と 図工、美術でアニメキャラを描いてはいけない訳

ネットニュースを見ていたら、こんな記事を発見。

白山陶器、ダイソーに抗議
波佐見焼白山陶器 ダイソーに抗議 「デザイン模倣」 販売中止、在庫破棄求める

白山陶器が販売している「ブルーム」という食器シリーズに使われている柄そっくりの扇子を販売していたことで、白山陶器がダイソーに抗議したということらしい。
記事に載せられた写真を見てみると一目両全。
(ぜひ見に行ってもらいたい。この写真構図思いついた人のセンス好きです)
しかも、陶器柄の扇子として販売していたとか。
もう、わかってやってますよね。それを許可もなしに販売する。悪質です。

Yahoo!ニュースだと、元のデザインも北欧食器の模倣じゃんなんてコメントがありました。
でも、私個人の意見としては、たとえ模倣だとしてもこのブルームシリーズは、和っぽいテイストに昇華されているのでいいと思います。
ダイソーの商品の場合は、そのまんまです。それはダメ。


図工、美術でアニメキャラを描いてはいけない訳

それで、この記事のタイトルに行きつくわけなんだけど、え?なんで?って感じでしょうか。
意識しないだろうけど、アニメやマンガ、ゲームのキャラクターだって、デザインの一つ。
それをただただ描くのは結局のところ模倣でしかないから。

とはいえ、私も子供の頃はそれが不満だった。
好きなものを描けというのに、本当に好きなものは描いてはいけないのだから。
実をいうと後ろ向きの姿で描いてみたり、いろいろ誤魔化してたりしてはいたが。
ずっと、なんで?と思ってた。
3DSで「ポケモンアートアカデミー」というソフトが出た時は、やっぱり学ぶなら好きなものを題材にしてた方が楽しいよねと思った。
というか、多分、やっぱりその方が正解なんじゃないかと思う。
興味がない題材じゃ面白くない。

さっきと話が違うだろうって?
いやいや、そうじゃない。
ポケモンアートアカデミーの場合は、ポケモンを題材にして、あたりの取り方だったり色の付け方だったり、そうした指導をしてくれるのだ。
ポケモンを使って、ものの見方を、それの表現の仕方を教えてくれているのだ。
対して、美術の授業の場合…それは教えてくれない。
みんな描くものが違うのに、指導してはいられないのだ。

好きだから描く、それが許されるのは、幼稚園保育園のお絵描きまで。
お絵描きだから許される。
でも、図工や美術は違う。
物の見方を、捉え方を教えなくちゃいけない。
教えられているかどうかは、ちょっぴり疑問だけど。
豊かな感性だとか、そんな言葉にふりまわされているような気がしてならない。

ポケモンアートアカデミーって、絵心教室のポケモン版なわけで、ポケモンが描けて楽しい!っていうのもあるんだろうけど、その先にもっと自分で絵を描いてみて!というのがある。
だからこそ、見方を指導しているのだと思う。
技術を教えればこそ、豊かな表現につながる。

模倣は悪いことではない。ただ、それを商品として、作品として発表したらダメ。
だって、模倣は練習方法だから。
その作品に使われている技法とかデザインのバランスとか、見てわかるよ!と思うかもしれないけど、自分で実際にやってみることでより深く理解できる。
そこを発表することは、計算問題で使う方程式だけ書いて提出してるようなものだ。
答えが出ていない。そんな回答に意味はない。

最終的に自分の中に取り込み、昇華させられるようになる。
いろんなものを見て、いろんな表現を知って…それはそのための手段。
そういえば、美術教育って個性を重んじるよね。
何となく模倣はいけない気分にさせられる。
常に、発表できる作品を作らされるわけだから、息も詰まる。
もっと気楽にいろいろ試せる時間と余裕が欲しい。

昇華された表現だったら、アニメや漫画のキャラでもいいんじゃないかな。
ただ、著作権とかの問題もあるから、やっぱり公に発表はできなくなるけど。
子供の場合、やっぱり単に好きだから描いちゃう。
そこを、どうしてそのキャラクターを描く必要があるのか?どうしてそれでなくてはならないのか?じっくり考えて、そこに自分なりの答えを出せるのなら、そういう授業があってもいいと思う。

大学生の頃、漫画を持って行ってその中からコマを選んで、先生のいう表現方法の通りに描く授業があった。
まずは模写してみて、それから線を増やしてみたりとか、周りに何かを描くならなにを描くか?とかいろいろ試してみた。
面白かった。

物は使いよう。
模倣から、昇華へ。

2017年7月13日木曜日

自分の同人誌が売られてた話

二次創作の同人誌を時々出しているのだけど、時々感想とかないかなぁと思いながらサークル名とかPNなんかで、いわゆるエゴサーチをしてみる時がある。
先日、それをやってみてたら、「買取」の文字が見えた。
弱小サークルだし、需要もあまりないのはわかっていたので、同人誌専門店みたいなとこに卸してはいないし、いったい何だこれ?とクリックしてみたら、自分の同人誌の表紙が見えてびっくり。
ビックリしたのは、「買い取ってくれるんだ…!」ってことだった。
先に言った通り弱小サークルだから、在庫だって20~30刷っても数回イベントに出てようやくはけていくような感じなのに、買い取ってくれるところがあるんだと。
しかも、売られたらしいのはすでに買われていたようで品切れ状態なのにもびっくりだった。
いやー世の中、何があるかわからないですね。

しかし、困ったことに「BL」表記なんですよね。
うーん…女が描いたら男同士の友情ってそう見えるんかなぁ。
確かにまあ、ベタベタした感はあるかなぁとは思いますがね。
男じゃないんで、実際問題どんなもんかっていうのは、本とか見たりするしかないわけで。
でも、やっぱり感覚の違いは埋められない。
それでも、描きたいから描いてはいるのだけど、それをBL表記されちゃうのはなんか違うなぁって思ってしまう。
そこに、恋愛感情はないんだもの。
たとえそう見えようとも。

いやしかし、もっと困惑したことがある。
作中で初めの方しか出てこないキャラと終わりの方しか出てこないキャラで、CP表記されていたことだ。
こうしてみると、読解力を疑いたくなった。
さすがにそれはおかしいだろうと。
表記するのに何を参考にしてるのかわからないから何とも言えない。

外に出してみると、思いがけないことがおこるものですね。
売られてるのがそれだけだったから、みんな大切に持っていてくれているのでしょうか。
単に、そこがたまたま買い取ってくれただけで、他は買い取り不可なだけかもですが(笑)
もっと、絵がうまくなってしっかり描けたら売れるかも?…とそこを目指すのも変だけど。
何が起こるかわからないね。

2017年7月12日水曜日

絵が描きたくなくなったら

学生の頃、もう絵なんか描きたくない!と思ったことがある。
でも、残念なことに美術科だったのもだから描かなきゃいけなかったわけだけど。
情熱を傾けることもできず、かといってサボることもできず。
やる気のない絵を描いていたと思う。
もう、絵を描くことなんて嫌いになった。いや、最初から好きだったわけじゃなかったのかもしれない、そんなことさえ考えた。

でも、いまだに絵を描くことをやめてはいない。
最近はちょっと楽しくなってきた。
そんな経験を踏まえて、私のケースだけだけど、描きたくなくなったという人の参考になればと書いてみる。

私は長いこと絵を描いてきた。周りにも絵を描く人がいた。
いつだって、私よりうまい人がいる。
努力しても敵わない(今思うと努力の方向性を間違えていたのが悪いとわかるのですが)
ずっと、下手なのがコンプレックスだった。
それが多分、大学生になって静かに爆発したんじゃないかと思う。
田舎の少人数の学部とはいえ、美術科に集まる人は絵が上手いのだから、自分で下手だと思っている人間が敵うわけがない。
ずっと、本当は絵を描くことなんて好きなんかじゃなかった、ただただ、称賛されたかっただけだったんじゃないか。そう悩み続けていた。

でも、そんなとき。
ある人に息抜きにどう?と漫画を紹介された。
その人はいろんな漫画やアニメをそれまでも紹介してくれてはいたんだけど、ゲームの方が好きだったのでそこまでハマらなかった。
でも、その漫画は自分でも驚くぐらいにハマっていた。
何故かというと、やっぱりゲームなんだけど。
その漫画はゲームにもなっていて、それで遊んでいるうちにもっと知りたいと漫画を自分で買い揃えて、そして描きたくないと思っていた絵を描いていたのだ。

なんで、描きたくないと思っていた絵をまた描いていたのか。
それは多分、自分の「好き」を伝える手段が、絵にすることだったからなのだ思う。
また、漫研に入っていたことも影響していると思う。
伝える手段がそれでも、伝える相手がいなかったら、多分やっぱり描いてはいなかったと思う。
だから、伝える相手がいるってすごく大事なんだと思うのだ。
それが特定の相手でなくてもいいし、自分自身でもかまわない。
とにかく、好きを形にして見せる相手を作ること。
そして、伝えたら反応を貰うこと。
それで結局今まで絵を描き続けている。

でも、それでも最近やっぱり描く気がなくなってきていた。
どうしてなんだろうと考えていた。
飽きてきたのかなと思っていた。
それが正解だった。

長くやっているとどうも保守的になる。
上手くなりたいと言いながら自分の絵というのを変えたくない。
それだから、小手先のテクニックぐらいしか試すものはなく、結局変わらない。
変わらないから、絵がうまくなった気にならない。
変わらないから飽きる。
ただ、それだけだった。
それに最近気が付いた。
描き方をちょっと変えただけで、楽しくなっていた。


多分きっとずっと、変わらないことにイライラしていたんだと思う。
だから、描く題材を新しく手に入れた時や描き方を変えた時に、楽しくなってきたんだと思う。
絵が描きたくない。
その理由は人それぞれかもしれないけど、もしかしたら私と同じように、変化しないことに飽きていた、ただそれだけなのかもしれない。
ちょっとだけ変えてみたらいいと思う。
例えば、私は下書きを水色シャー芯に替えただけで、楽しくなった。
そういえば、子供の頃、顔の書き方を前髪から描くのをやめて、輪郭からにしたときもやっぱり楽しくなっていた。
変化が大事だ。
くだらないことでも変えてみたら楽しいかもよ?

2017年7月10日月曜日

水色シャー芯のススメ 

最近は、デジタルが主流、スマホなんかでも絵が描けるようになったのであまりアナログで絵を描かなくなったかもしれない。

それでも私は、らくがき用にクロッキー帳を持っている。
なんでかっていうと、デジタルで下書きができないから。
どうも変になる。だから、クロッキー帳に描く。
クロッキー帳というのは、本来その名の通りクロッキー用(ささっと描くデッサンのようなもの)だけど、学生の頃、美術科の学生はネタ帳にしたり、課題を練るためにいろいろ書いたりしていたものです。
最近、らくがきに水色のシャー芯を使うようになった。
水色で下書きして黒で清書する。
そうすると黒だけで描くよりなんだかうまくなったような気がするのです。

もちろん、道具を変えたからっていきなりうまくなるわけじゃないよね。
だけど、うまくなった気がするというのは大事。
人間変化がないことには飽きるんだよ。
下手だ下手だと思い続けるということは、画力に変化を感じていないということもあると思う。
変化がないから飽きてきているのに、それでも描き続けて苦痛になってた。
趣味はイラストと言いながらも描けないのは、下手だ下手だと思い続けていたからなんだと最近感じています。
だから、気がするだけでもいい。それでやる気が出るのなら。

さて、どうしてうまくなった気がするんだろうか?
黒で下書きすると、うまく消さない限りラフな線が結構残ってしまう。
ざかざかした線が残っていることで、ちょっとプロっぽい感があってそれでもいいかもしれないけど、下手だと思ってたらあんまり意味はない。
対して、水色は色が薄いので、線が残っていても上から黒で清書した線が目立つ。
下書きしてあるから線が綺麗にひける上に、まるで一発で綺麗に描けたように見える。
それゆえにうまく見えるのだと思う。
それに黒だと、何度も修正しようと消しゴムをかけたりしてたら紙が汚くなってしまうが、水色だとどうせ目立たないからとあまり消すこともしないので綺麗なまま。
そういったところもうまく見える点なんだと思う。

そう、何というか、黒で描いていたときより気楽に描けるんだ。
どうせ下書き。見えない。
見えないから雑に描いていいって訳じゃないけど、とにかく気楽になれる。
力が抜けていい感じになるのかもしれない。
デジタルで下書きできないというのも、多分それに尽きる。
なんだかデジタルで描き始めると、はじめからうまく描かなきゃいけない気になってしまう。
身構えてしまう。

それを、ちょっと道具変えるだけでいい感じになるんだったら、それでいいよね。

2017年7月9日日曜日

牧場物語2はじめました。

先日ついにVC化ということで喜び勇んでブログを書きました。
そして、ついに、WiiUでDLしてきました!
手元でできるなんて幸せです。
しかし、軽い。ささっとDLできちゃった。やっぱり昔のゲームは容量が少ないんだなぁ。

懐かしい音楽、懐かしい街並み…思い出が蘇ってくるような感じです。
しかし、OPでどうして主人公が牧場を始めるのか流れるものの、ほぼいきなり放り出される状態。
一応、上の画面を見てもらうとわかりますが、遊び方を説明してくれるメニューはあるものの、そんなのよりさっさと遊ぼう!なんてゲームをはじめたらチュートリアルなんてありません。
ゼルダの伝説ブレスオブザワイルドも何もわからず放り出された感がありましたが、あれはあれではじまりの大地という場所自体がチュートリアルになっていてやってくうちにわかるんだけど、これは町の説明や出荷の説明はしてくれるものの、いきなり放りだされてはじめなきゃいけなくて、昔のゲームだなと感じました。
でも、意外と操作方法とか覚えてるもんですね。
どのボタンが、64のコントローラーのボタンと対応してるのかわからなかったものの、わかればだいたい思いだせました。やっぱりやり込んでると、覚えてるもんですね。

しかしまあ、一日がホントに短い!
あれ、もう真っ暗だ!なんて、何度も思いました。
とくに序盤なんて、荒れた牧場を開拓しつつ街に行ったりしていたら、平気で寝るのが夜中の3時とかになってました。
一番最後にやった牧場物語はふたごの村という作品だったのですが、あれはもっとゆったり時間が流れてました。
牧場仕事に慣れないうちから、山にいって採集とかしてても余裕だったのに、2は久しぶりにやってみたら全然時間が足りない。
早く寝るほど体力も回復するんですが、寝るのが3時とか4時の生活を続けていたら、もう2回も風邪ひいて一日潰してしまいました…
眠るのは大事です。

でも、だんだん慣れてくると余裕ができるんですよね。
なんだかそこがリアルに感じました。
仕事に慣れてきて、やれることが増えて…
山や街を散策してまわる時間もできて、心に余裕ができる感じでしょうか。
そうなってくると、だんだん一日の予定をたてて行動できるようになりますね。

予定をたてるのが結構大事。
このゲームでは牧場に蒔く種を街に買い出しに行ったりしないといけないんですが、一日中ずっと店が開いてるわけじゃないんですよね。
夕方には閉店。定休日もある。
だから、この仕事は後にしてタネを買いに行こうとか、今日は動物について聞きに行こうとか、時間がない中で考えなくちゃいけない。
でも、それがメリハリになりますね。
決まってるからこの時間に行かなきゃってなるし、後でいいかがきかない。
季節によって育てられる植物も違いますからね。たくさん収穫したいなら一日でも早く買い出しに行かないといけない。
不便かもしれないけど、季節の移り変わりを感じたり、あ、この人は今日は休みだから外にいるんだとかそういう発見があっておもしろいです。
便利さも大事だけど、ちょっと不便って方がどうしたらいいか工夫を考えるのでいいのかもしれません。

昔やってたときは、朝牧場の仕事をして、山で採集、街に降りてきて散策、最後は海で夜釣り…なんて生活してました。正直どうやってその時間を作れていたのかわかりません(笑)
うーむ、効率重視でその域に戻れるのはいつの日か…

このゲームの中に他の地域から放浪してきて、友好度によっては定着してくれるキャラがいるんですが、そのキャラがいうんです。
この町は親切にしてくれるけどそれが過度に干渉してくるものでもなくて、適度な距離感を保ってくれると。
お互いの生活を尊重している。そんな感じがして、物悲しさを感じさせつつどこか温かい。
やっぱり、これが好きなんだなと思いました。
ベタベタしてない、さっぱりしてる。互いにそこまで干渉しないのは、冷たいわけじゃない。
そこが好きです。

まだまだ、一年目の秋。
まだまだ、楽しめそうです!

2017年7月6日木曜日

ゼルダの伝説やってたらスマホゲーにほぼ触らなくなった話

今年の3月、NintendoSwitchで発売された「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」
それをはじめてから、一つ生活の中で変わった事があります。

スマホゲーに触らなくなったことです。

たまに「ねこあつめ」(これをゲームというのかわからないけど)で猫に餌をやったり、ちょっとした暇つぶしに昔入れたシンプルなパズルゲームをやるぐらいで、毎日ログインしなきゃとやっていたゲームには一切触らなくなりました。

ちなみにやっていたのは、聖闘士星矢のキャラゲーとカフェ経営するゲーム。
昔は結構キャラゲーがCSでもいろいろあったんだけど、今キャラゲーの主流はスマホアプリなんでしょうか。いっぱい配信されてますね。
星矢のゲームはPS3とか4で発売してたんですが、本体を持ってないし本体を買うほど欲しかったわけでもなく…でもスマホは持ってたので、せっかくだからとDLしてました。
はじめは面白いんですよね。
新しいキャラをガチャで手に入れたりストーリーを進めたり…でも、だんだん内心嫌になってきてたんです。
自分のことはゲーム好きと思ってはいますが、毎日帰ってきたら即ゲームとかそんな風に遊んでいたことはなく、やる日とやらない日がありました。
でも、スマホゲームだとログインボーナスがあって、毎日ログインした方がお得なんですよね。
とくに課金するほどではないなと思っている私のようなプレイヤーは有利に進めたいならログインは欠かせません。
それを続けていると…ただただログインしてアイテムを貰ってそれだけ、遊びはしない。
そんな風になっていました。

何故かというと、そのゲームの調整が悪いのかもしれませんが、だんだんストーリーを進めてくのが難しくなっていくんですね。
経験値が全然たまらない。
課金していれば、経験値を得られるアイテムを買えばいいんですが課金してなくて戦ってもらえる経験値だけで進めようとすると長時間拘束されます。
バトルが面白ければいいんですが、正直、ただ眺めてるだけの戦略性も乏しい感じで面白くない。

ストーリーだって正直不満です。
収録されているキャラクターが少ないせいでしょう。
あるゲームでは、なぜか物語の主人公である星矢やその仲間たちを頻繁に敵側で出してくる。
そこに理由なんてとくにありません。そんな細かいとこ気にしなくてもと思うかもしれませんが、敵キャラのグラフィックだって一応用意されているんです。
何故主人公が立ち向かってくるのか?そんな理由考えてもないでしょう。
そういうのが嫌いでした。
それに、やはりこの手のゲームは好きなキャラが使えるというのが売りだと思います。
が、無課金だと好きなキャラを手に入れるのだって大変ですし、手に入れたって一から育てないといけないとなると貰ったって結局使わないんですよね。
むしろ、アニメや漫画では特に愛着もなかった、でも初期に手に入れたキャラの方が愛着が湧いてたりする。
そこはゲームのいい点かもしれません。
けれども、どのみち、ストーリーに関わってくるのは、漫画やアニメでその場面にいた
キャラだけ。
いろんなキャラがいたところでただただ棒立ちしてるだけです。何にも面白くない。
使ってるキャラでストーリーが分岐するわけでもなし、ただただ有利に勝ち進めるパーティを組むだけ。
何にも面白くない。育成もめんどくさいシステムでしかない。

正直なところ、不満に思ったすべてがお金をかければ解決するんです。すべて完璧にではないにしろ。
とにかくそういう風に仕向けられたシステムの作りが嫌で嫌で仕方がなかった。
暇つぶしのためにやってるのに、なんでこんなにやらされている感を感じなければいけないのか。
とにかく、私はやらされてる感というのが嫌でだからこそスマホゲーはやらなかったんです。
それでもやったのは、好きな漫画のゲームだからで。
私がキャラゲーに求めるのは、そのキャラの違う一面とかそういうのが見れることであって、好きなキャラ集めたって面白くない。
こういうゲームで集めたってどうせ新しい何かをしゃべらんし棒立ちだし。

結局、私スマホゲー向いてなかったんだと思います。
最初は面白いなと思っても、だんだん作業感感じてくし、やらされてる感が強くなるし。
なんていうか、CSのゲームだったら、進めないのは自分の腕が悪いと納得できるんですけど、スマホゲーだと進めないのは金を払ってないから、そんな気しかしない。
カフェ経営のゲームはそうでもなかったんですが、こっちはこっちで、何度も開いてはコーヒー入れなおしたり掃除したり、サイドメニューチェックしたり(ほおっておくと焦げる)ゲームに時間が縛られていくことが嫌になっていく。

ゼルダに使った時間、それもまたゲームに縛られていたのかもしれないけど、そっちは好きな時に始めて好きな時に終わっていいんです。
時間の使い方はこっちの自由なんです。だから、同じぐらいの時間を使っていたのだとしても、イライラしてない。
遊んでて楽しい。試練をクリアすると、達成感を感じる。
その楽しさに触れたら、本当にゼルダばっかりやってて、スマホゲーにログインしなきゃと思うことさえなくなっていました。
もちろん、面白いスマホゲーだってあるんだろうけど、探す気にはなれません。
CSの方で楽しいゲームがあればそれで充分。
ずっとゲームばっかりやってるわけでもないですし。

最近、イベントで好きなキャラがもらえる!みたいなことをやってるみたいですが、それさえ魅力に感じませんので戻ることもないでしょう。
だって、確かに好きな漫画だからと始めたけど、別にキャラクターあつめたくてやってるわけじゃないんですもん。
ただただ、面白いゲームがしたい。
ただ、それだけなんです。
どうせ遊ぶなら、イライラしない方がいいでしょ?

「牧場物語2」日本でも配信です!!



今年の2月ごろ、海外での配信が決まったニュースが入ってきていつか日本でも…と思っていたら、しれっと配信開始してました!
価格は1,028円。1,028円で遊べる…!

YOUTUBEを見てたら、おススメの動画を載せているところに懐かしいスタート画面がWiiUゲームパッドに表示されている絵と「牧場物語2 プレイ映像」のタイトルが。
え?と思ってのぞいてみたら、なんと知らないうちに配信されているじゃありませんか!
もう、嬉しくてうれしくて!
64というハードで出されたせいか、マイナーなゲームになっちゃってますが、私はこの牧場物語2が大好きで!
牧場物語というタイトルなのでもちろん牧場を経営するゲームなんですけど、住人達と交流するのが楽しいんですよね。
毎日話しかけたり、プレゼントをあげたりしてるとだんだん仲良くなっていく感じがいいです。
最初はお客さんって感じの対応だけど、だんだん仲良くなっていくたびに受け入れていってもらえてる、そんなセリフのセンスが素敵でした。
牧場経営だけだと、単調になりがちなんですが、住人達との交流や時々開かれるお祭りなんかに参加してると楽しいですね。
ほのぼのしていて、それでいてどこか田舎の物悲しさが感じられて。
しんみり温かい世界観が、本当に練り込まれていて素敵です。

子供の頃、親がでかけていないときに延々と遊んでました。
昼飯時になっても、まあいいかって延々とプレイ。ゲームの中ではケーキ食べたりしてたけど(笑)
ジャガイモの収穫時期がわからなくて、花が咲いたまま夏を迎えて枯らしちゃったなぁ。
植物って、花が咲いてそれが散ってから実がなるイメージがあったのでジャガイモの事知らなくて花が咲いた後まだ何かあると思ってたんですよね(笑)
あのころは(今もですが)知らないことが多かった…

1999年発売のゲームなんで、できることは今の牧場物語シリーズと比べたらホント少ないし、時間経過も結構速い。
でも、その限られた時間の中で、日々の生活のための農業畜産をこなしつつ、街の人との交流をしていくために時間を作る…それが楽しくて楽しくて。
日常に追われつつも、住人たちとの交流で心が温まるというか癒されるというか、そういうホッとする時間とのメリハリがいいなと思います。
イベントもいろいろ凝ってるんですよね。
めっちゃやり倒したつもりだったのですが、ネットで検索したら出てくる出てくる知らないイベント。
嫁さんが実家に帰っちゃうイベントとか、わざと無視し続けないと出てこないからやったことなかった(笑)

今のゲームに比べたら、行動パターンも数えるほどしかなく、街も狭いし外の世界を感じさせても外には行けない。そんなゲームですが、遊んでいるとキャラクターたちがその世界の中ですごく生き生きしてるのを感じます。
できることが少なかったからこそ、表現できたゲームなんじゃないかなぁと思います。
イベント事があると強制参加なんてゲームもありますが、参加しないで牧場の仕事してても別にいい。
そういう、自由さもいいですね。
実際の田舎だと参加しないとあれな時もあるけど、ゲームなんでそういうことはないし。
田舎暮らしではあるけれど、みんなある程度距離感を保っていてくれている。
そういうのが心地いいのかもしれません。
相手を尊重している。それぞれの生活に過剰に干渉はしてこない。ゲームのキャラにそういうこと言うのもあれなんですが。
過剰に干渉してこないところが、自由さを感じさせてくれます。

WiiUでもいいんですが、ぜひSwitch版も…!
WiiUだとつなげるものがいろいろあって面倒なところもあるんですよね。
その点Switchは本体だけでOK。ホントこのハード、楽です。
ま、とりあえずWiiUで遊びまーす!!
この機会に、当時64持ってなくてやらなかった方も、もちろん興味がある方もぜひぜひ遊んでください!

2017年7月3日月曜日

100均のレジンとちょっとお高いレジンの違いを比較

最近プラバンにハマりまして、表面保護のためにUVレジンを使っています。
レジンは紫外線に当てると固まる樹脂のこと。
100均でも売っているので、ずっと100均のものを使ってました。
が、使う量が多くなってきたので、せっかく会員価格で買えるし…と清原というところが出してるUVレジンを買ってきました!
というわけで、比較をしてみます。

左がセリア、右が清原です。
4グラムと25グラムですからだいぶ大きさが違いますね。
どちらもノズルがついてて流し込みやすい。
ただ、セリアのはどうも空気が入りやすく、それゆえに気泡ができやすいです…

そして、色を比較してもらうとわかりやすいですが…
左が清原、右がセリア。
プラバンに塗ってる時は、あまり違いがないかな?と思ってたんですが、中にものを封入しているとはいえ違いは歴然。
お高い方がやっぱり透明感が強いです。
それから、硬化しやすい。
セリアのはちょっと分厚くしてると太陽光だからかもしれませんが、底の方がなかなか硬化してくれませんでした。
でも、同じくらいの時間でやっても清原の方はきっちり硬化してくれます。
やはり高いものはそれなりの理由があるんだな…と思いました。

とはいえ、やはりちょっと試そうかなというにはやはりお高い。
それを思えば、セリアのレジンも十分使える範囲だと思います。
ちなみに、100均よりはやはりお高くなりますが5グラムぐらいのチューブも売ってたりしますから、試してみたいけど100均のはなと思う方はそちらを使うのもいいかもしれません。

本日の手芸はここまで~

妄想ができないのは情報が足りないから

以前はもっといろいろ想像できてたのになぁ…
二次創作をしていると、そんな風に思う時がある。
もう飽きちゃったのかなとかそんな風に思うけど、多分、半分正解で半分間違いだなと考えた。
私は基本的に二週目というのをやらない。
同じ本を二度読むときは、数年たってからあるかないか、完全に内容を忘れてしまったときだけ。
ゲームだって、どんなにハマっても二週目はまずやらない。
一度読んだ本、一度やったストーリー、つまり同じものを何度もやりたくないのだ。

妄想できたころを思い出してみる。
漫画やアニメ、ゲームにハマった時。
それは、本や映像を読んだり見たりした直後。
まだまだ、いろんな記憶が鮮明な時。
そういう時は、細部まで結構覚えていたりして、この時のこの行動は?とかこのセリフはとか考えられていた。

だけど、記憶というものはだんだん薄れていく。
自分は結構記憶力がいいと思っていた。
忘れる部分は確かにあるけど、思い起こせる部分から考えていけば思いだせる。
そう、思っていた。
だけど、人から借りた漫画でどうしてもわからない部分があって、よし、自分で買って読むか!とはじめて漫画を2回読んだとき、あまりに覚えていないことに気が付いた。
確かに印象的な部分は覚えている。
だけど、細部を覚えていないのだ。
わからなかった部分は、そういった細部を読み取っていけば理解できた。
読み返す大事さを感じた。
そして、読んだ直後というのはいろんな想像、妄想が出てくる。
時間が経つと、それが減っていく。
それに気が付いた。

少ない情報だからこそ、想像させられるとは、よく聞く。
だけど、少ない情報で想像できるものは、多分、自分がわかっている範囲のことでしかない。
でも、自分がわかっている範囲が広ければ、想像もかきたてられる。
つまり、結局、自分がすでに持っている情報が多ければ多いほど、想像は容易くなるのだ。

最近、絵ばっかり描いてるから物語の方が妄想できないのかなと思っていたけど、簡単なことだった。
以前、気が付いたことだった。
薄れた情報を頼りに妄想してたって、同じことしかできないのだ。
何度も何度も見直すことで、新しいことに気が付くことだってあるはず。
ただ、アニメにしろ漫画にしろ、読み返すのって結構労力がいる。
時間がかかるのだ。
それをかけられるうちはまだ飽きてない。
かけられないのなら、飽き始めてる。
多分、きっとそう。
もしくは、同じものばっかり見てたから、視点が凝り固まってしまっているのかもしれない。
それゆえに、妄想ができなくなっている。
いろんな情報を取り入れ、いろんな視点を探る。
それが妄想するために必要なものなんだろうと思う。

さて、久しぶりに読み返そうかな。

2017年6月29日木曜日

将棋とストーリー作り

最近、将棋が話題ですね。
最年少でプロになった藤井4段がただいま29連勝中…まだまだ伸びそうです。
私は将棋は詳しくないので盤面を見ててもどうなっているのかわかりません。
ルールとか知ってるとより楽しいんだろうなぁ…

さて、将棋を見ていてふと物語の作り方について考えました。
ストーリーの作り方は将棋と似ている…なんてふと思ったのです。
どういうことかというと、将棋って駒ごとにそれぞれできることが決まってるじゃないですか。
歩は前にしか進めないとか。
それらを駆使して王将を取りに行くのが将棋、ですよね。
じゃあ、どのあたりがストーリーの作り方と似ているのかというと…
将棋の駒を、登場するキャラクターと捉えてみましょう。
様々なキャラクターを登場させ、活躍させ、そして目的にたどり着く…似てませんか?

「オレたちはゲームの駒なんかじゃない!」

そんなセリフもありますね。キャラクターという一つの人格をゲームの駒として扱うのはいかがなものか、なんて思うかもしれません。
でも、将棋の駒で考えてみましょう。
将棋の駒にはそれぞれできる動き、役割があります。
その動きを理解し、何ができるのかを理解することはゲームをするうえで重要です。
ルールもわからないままにやっていたら、どう動かしたらいいのかだってわからないのです。
それをキャラクターに当てはめてみます。
キャラクターにもそれぞれ役割だったり、性格だったり、いろんな設定がありますよね。
それらを理解することで、どのキャラクターに動いてもらうのが今の場面で効果的なのか、ストーリーを進めるうえでそのキャラがとるべき行動がわかるのです。
よく、キャラクターが勝手に動き出したなんていう作家さんいるじゃないですか。
こういうことだと思うんです。
キャラクターを理解したからこそ、自分の考えていたこととは違う行動が出てくる。

原作つきアニメなんかでこれは違う!と思ってしまうのは、多分、性格だったり役割だったりを理解しきれていないせいなんじゃないかなと思います。
一時期キャラクターをツンデレだったりそういう枠に当てはめたのがすごく流行ったじゃないですか(今もかな?)
キャラクターを分析して、そういう性格なんだなと自分で当てはめるならいいんですが、作り手が、このキャラクターは世間ではツンデレと言われてるんだと聞いただけで作ったのとではだいぶ違うと思うんですよね。
自分で当てはめた方は、自分が理解しているツンデレと同じだからツンデレに当てはめたわけなんですが、世間でそういってるからというツンデレに当てはめた方は実は自分が理解していたツンデレとは違う可能性がある。
一度、自分でちゃんと理解する必要があるんですよね。
最近は二次創作メインでやってるんで特にそれを意識します。

駒の動きを知ることで、それぞれを活躍させられるように、自分もキャラクターを理解して活躍させられたらいいなと思います。

そういえば、活躍の仕方で思いだした話があります。
ある作品の続編で、冒険したある土地を舞台にしていた作品なんですが、登場キャラクターの一人に以前その土地に災いをもたらしたキャラクターの家族がいたんです。
ところが、そこには全く触れず、相手のキャラクターがその災いをもたらしたキャラのせいで死んでしまったにもかかわらず、今も自分を見守っていてくれる大事な家族として出してきたんですよね。
全く使い方がなってない、そう思ったのを思い出しました。
しっかり練られる時間があるといいのにねぇ。

2017年6月23日金曜日

100均レジンでレジン細工

数年前(だったかな?)レジン細工が流行りましたよね。
紫外線に当てると硬化するUVレジン。
最近は100均でも売ってます。100均ってなんでもありますね。
プラバンの表面を覆うために買ってみたのですが、レジンでもなんか作ろうかなと同じく100均で型を買って作ってみました。

星型以外はすべて100均で買えるもので作ってみました。
夏なので、魚やイルカ、貝やヒトデの型が売っていましたが、その中でこのエンゼルフィッシュっぽいのがかわいかったので買ってみました。
中には、貝殻を細かく砕いたシェルパウダーと何となくスチームパンクっぽくしたくて歯車を。
なかなか綺麗な透明度。
プラバンもそうですが、自分でガラスとかのような透明度のあるものを作るってなかなかできないので、こういう体験がお手軽にできるのはいいですね!
お値段もお手軽なので、売るとか考えなければいくらでも失敗していろいろできて面白い。

いろいろできるといえば、こんなこともやってみました。
色が付いたレジンも売っていて、ふと、これで目玉焼きが作れるのでは…?と思い実験。
左は、白身を先に作って黄身を載せて、右はその逆に黄身を作ってから白身を周りに流しました。
白身を先に作った方は、黄身が上手く載らなくて流れちゃってダメですね…
ちょっとした食品サンプルづくりっぽくて面白かった。
クリアイエローとホワイトのレジンとシリコンマット(他の素材だとくっついてしまう場合があるので)の3つでできるので、興味持ったらお試しあれ。

さて、上の星型は100均じゃないんですよね。
何故かというと100均で売ってた星はすごく角が鋭い感じで可愛くなかったから。
ちょっと高かったけど手芸店で買いました。
しかし、やはり高いだけのことはあるんですよね。
100均の魚の型は、固まりきれなかったレジンがふき取ってもそこに少し残ってしまったのですが、手芸店で買った星型は綺麗に拭き取れました。
それから、作る際には別に問題はないんだけど、100均の方は裏に傷、縁にシリコンがはみ出した部分が残ってる。
お高い方はさすがに型自体の作りが綺麗です。
綺麗さは側面にもあらわれる。
固めたレジンの側面が、100均のは筋が入ってるけど高い方は綺麗なんですよ。
やはり100円は100円。そこは割り切って使わないとと思います。
値段にはそれなりの理由がある。道具なんか使ってるとよく感じます。
初心者はむしろ高いものを使った方がいい場合もあるといわれますよね。
高い方が品質管理がしっかりしているはずですから、100均のようにあたり外れが少ない。
マステもこないだ100均で買ってきたものは、切断に失敗したのか縁に細く切れ目ができてたんですよね…
もちろん100均でも十分使える、いいものはあるんですけど。

とはいえ、安いっていうことは、気持ち的に使い潰しても楽なんですよね。
本格的に始めたいわけじゃなく、テレビで見たからとか友人がやってたからちょっと試してみたいってときには、今の100均は本当に素敵。
ここから、ハマったならいいものを揃えていけばいいんですし。
やっぱりモノづくりって楽しい。

2017年6月22日木曜日

熱中症にご注意

先日も、運動会で子供たちが熱中症に倒れたなんて記事が出ておりました。
とはいえ、実際、自分がその症状にならないとこんな気温で熱中症になるのか?と疑問に思ってしまいます。
でも、今日、この曇り空でなんだか熱中症っぽい症状になって、考えを改めました。
なるときはなる。
それは仕方がないことです。
根性でどうにかなるものでもありません。
しっかり、対処できる知識を持たねば、と思いました。

素人判断なので本当は熱中症ではなかったのかもしれません。
でも、首のあたりを保冷材で冷やしてたら収まったので、やっぱりそうだったんじゃないかと思います。
最初は正直熱中症だとは思わなくて何か悪いもの食べたかな?と思ったんですよね。
なんだかやけに気持ち悪いし、吐き気がする。
でも、食べたものはお茶漬けだったし、具材だって普通のお茶漬けのもと。
ご飯も今朝炊いたばかりのもの…悪いものが思い当たりません。
で、ふと思いだしたのです。
熱中症でも吐き気とか気持ち悪いとかそういう症状がでると。
首のあたりを触ってみたら、風邪ひいてないし熱もなかったのにやけに熱い。
これは冷やさないと!と思って保冷剤を首にあてていました。
水分も多めに。
こういう判断ができると、知識って重要だなと思いますね。
ネットで検索すればなんでもわかっちゃう時代ではありますが、常に正しい記事を引き当てられるかどうかはわかりませんし、気分が悪いのに文字を読まなければならないと思うと検索するのもおっくうになりますしね。
便利だからこそ、自分の身に降りかかりそうなことは覚えておかねばいけないなと思いました。

この時期、なぜか気持ち悪い、吐き気がすると思ったら熱中症も疑った方がいいかもしれませんね。
まだ、クーラーを入れるほどでもない気温だったりするから、部屋でPCでイラスト描いてたりすると知らないうちに熱中症になっちゃうかもしれません。
集中してると水分補給忘れちゃいますしね。
倒れないためにも、水分を忘れずに。

2017年6月19日月曜日

かわいい食玩 ピカチュウの木漏れ日カフェ

ネットを漂っていたら、かわいい食玩を見つけました!

ピカチュウの木漏れ日カフェ

私、ピカチュウ大好きなんですよ。
ぬいぐるみとかついつい買っちゃったりして…デザインがいいなと思います。
同じデザイナーさんのポケモン(ポケモンはデザイナーがたくさんおります)はかわいい系ばかりで見ていて癒されます。

というわけで、これもかわいくていいですね!
この食玩を作ってるリーメントって会社、10年ぐらい…もっと前かな?
あのころ、食品サンプルブームみたいなのがあっていろんな会社が、食玩で食品サンプルみたいなのを出してたんです。
食玩って安いから安いなりのクオリティのものばかりだったんですけど、ここのは頭一つとびぬけてました。
さすがに本物そっくり…ではないけど、限りなく本物そっくりに作り上げられていました。
細かな作りが他とは違ったんですよね。
表面のテクスチャーがしっかり作り込まれていて、集めるのが楽しかった。
最近は集めてなかったですが、これは可愛くて欲しいな!と思いました。

やはり、しっかり作り込んでいるところは今も残るんだなと思いました。
食玩のミニチュアサンプルといえば、ここって感じでコーナーも充実してるのを最近ホビーショップで見かけました。
この値段ならこれぐらいだろって作っているのは、案外わかっちゃうものなんでしょうか?

小さいものってかわいいですよね。
ネットで、ミニチュアのスイーツや食べ物を作っている人がとった写真とか好きで眺めています。
あちらは一点ものゆえにすごいクオリティですよね。
本物そっくりのミニチュアの横に、大きさ比較のための10円玉とか置いてあるとサイズにびっくりします。

今日発売見たいです。
ちょっとお店に行ってこようかな~

2017年6月18日日曜日

ARMSプレイ中

さて6月16日、Nintendo Switchで「ARMS」発売されました!
さっそく買ってきましたよ~
ただいま、ランクマッチに参加すべく練習中です。

ちなみに私は格ゲーは好きなんだけどまったく下手くそでガチャガチャやってるだけのプレイヤーでした。
さすがに長くやってると勝てなくなるから、とんと格ゲーからは離れておりました。
まず、コンボとかそういうのが覚えられない。
覚えようと思ってコントローラー動かしても、お手本の通り動かしているつもりなのにまったく技が出ない。
一瞬の判断を要求される、そんなゲームは好きなんだけど、判断できても対処できなければ面白くないんですよね。
そんな、格ゲーが苦手な私にもできるのが「いいね持ち」
Switchのコントローラーは分離できるので、両手に握ってまるでボクシングするみたいな直感的な感覚でプレイできるのと、覚えることは少ないからすぐに楽しめる。

とはいえ、格ゲーなのでホント難しい。
ガチャガチャやってるだけではやられてしまいます。
攻撃を読み、隙を見て攻撃…反復練習が必要ですね。
こういったアクションさせるゲームってRPGのレベルのように見た目にわかりやすい強さがないんですよね。
(もちろんアクションゲームにもレベルがあるものはありますが)
でも、だからこそ、自分自身が強くなっていく感覚がある。
そこが楽しいんですよね。

RPGですが、私がテイルズオブシリーズが好きだったのもそのため。
ドラクエのようなターン制バトルじゃなくて、ボタンに好きな技をふりわけて、見た目は格ゲーっぽいような戦闘でした。
もちろん、RPGなのでレベルがあってレベルをあげれば、ガチャガチャやっていても勝てるようになります。
ただ、やはり格ゲー的なものが好きだった私は、常に適正レベルぐらいを保てるようにやっていました。
ギリギリを演出してたんですよね。
全然勝てないときだけレベル上げって感じでした。
ギリギリで勝てると、よっしゃ!!って達成感があって面白いのです。

最近はスマホゲーをメインに遊んでいました。
キャラものだったので、好きなキャラクターで遊ぶ!ということだけがモチベーションでした。
ただ、お金をかけないとすぐに強くできなかったり、レアなキャラクターが手に入らなかったり…
なんていうか、運営に踊らされてる感を感じてしまってダメだったんですよね。
ゼルダ始めてから一切手をつけてません。
アクション系が好きな私に、ターンバトル的で、さらに自動で進んでいくタイプなんて、向いてないことは明白だったのかもしれません。
スマホゲーは息抜きにもなりませんでした。
最初はそれでも楽しいんですよね。
でも、息抜きなのに、時間に追われ、イベントに追われ、本当に運営の手のひらの上って感じで…
全てがそうとは言いませんが、本当にこのやらされてる感が嫌。
だから、最近のDLCもあんまり好きじゃなかったんですよね。
テイルズシリーズでそういうコンテンツをはじめて知ったせいでしょうか。
あれだと、以前はソフトだけで手に入っていた衣装なんかのコンテンツが、最近は有料になってて。
なんだか、金額分入ってないじゃない!なんで追加で払わないといけないのよ!って感じに思っちゃったんですよ。
運営が、開発がこっちがやりたいことを握っている。
だから、RPGで話しかけられないキャラがいるのも嫌い。入れないドアがあるのも嫌い。
全部に話しかけるわけじゃないし、入るわけじゃないけど、それを決めるのはこっち。
用意できなかったから話しかけられないなんて、お前らの都合だろ?…とか思うタイプ。
めんどくさい奴です(笑)

ランクマッチにたどり着けるよう頑張っていきたいと思います!

2017年6月15日木曜日

pixivfactoryでマスキングテープ作りました。

pixivfactory」ってご存知ですか?
イラストSNS「pixiv」が提供しているサービスで、イラストからグッズが作れちゃいます。
業者さんにお願いするとき、決まったテンプレートや形式で原稿を作って送って…という作業があるんですが、pixivfactoryではイラストをアップロードすれば作りたいグッズのイメージを簡単に作ることができるし、こんな感じにできるよとプレビューもできるので、作る気はなくても遊んでいるだけで楽しいです。

さて、そのpixivfactoryではなんとマスキングテープが一個から作れるんです。
さすがに一個だけだとお値段結構するんですが…それでも、オリジナルのマスキングテープなんて個人では作れないので作ってみたい!と思って一つ注文してみました。

出来上がったのがこちら。
綺麗に印刷されています。
潰れるかなと思った文字もかなり小さいですが読めるように綺麗に出てます。
画面で確認はできるものの、やっぱり実際に出来上がったものとは印象が違いますね。
イラストも思った以上に小さめになりました。
でも、潰れないで印刷されていて、2か月待ったかいがあったなと。
(マステは発送までだいたい2か月ぐらいかかります)
自分で工作したり手芸したりで作るのも楽しいけど、こうやって売り物みたいなクオリティで作っていただけるとまたテンション上がりますね!

ちなみに、テンプレートいらないといいましたが、配布されているテンプレートに合わせて作るとよりいい感じに作れると思います。
今回は、マスキングテープだとやっぱりループしてる方がいいよね!って思ったので、キャラクターの絵の間が均等になるようにテンプレートで調整しながら作りました。
つなぎ目になる部分がわからないですよね?
背景が複雑だと大変かな…

マスキングテープは2か月くらいかかりますが、他は10日とかのもありますので気になった方はぜひお試しください。
楽しいです!

2017年6月12日月曜日

コスプレすること

アニメやゲームのキャラクターに扮する、コスプレ。
ネットで検索するといろんな写真が出てくる。
日本人はもちろんのこと、外国人の気合の入った写真は見ていて面白い。

今日、こんな記事があがっていた。

イスラム女子の「コスプレ魂」 ヒジャブで「盛り髪」戒律を逆手

イスラム圏の女性は、髪や肌を露出してはいけない。
髪はヒジャブというスカーフで覆い隠している。
それゆえに、コスプレはできなかった。
けれども、それでも彼女たちは大好きなアニメやゲームのキャラクターになりきりたくて、ヒジャブのカラフルなカラーでキャラクターの髪の毛を表現したのだという。

ときどき、イスラム圏の方なのかどうかはわからないけれど、頭にスカーフを巻いた人たちがいるのを街で見かける。
けれども、戒律でそう決まっているのだということを意識したことはなかった。
そういうものだ、とただただ思っていただけだった。
だから、コスプレすることと、戒律を守ることを天秤にかけなければならないということがとても衝撃的だった。
私もコスプレをしたことがある。
その時は、恥ずかしさとやってみたいという気持ちを天秤にかけた。
でも、それは本人の気持ちの問題というか、心持の問題というか、そういう問題であって、恥ずかしさをただただ投げ捨てればよかっただけだった。
けれども、信仰によるものを天秤にかけることは、気持ちの問題だけじゃないと思う。
信じているものを裏切ることは、とても重たいものだから。

そういえば、近年はハロウィンなんかで仮装する人が増えた。
それゆえか、オタクたちが作り上げたコスプレのルールを知らない人も多いのではないだろうか。
知り合いと話していて、ふと気が付いた。
コミケなんかがテレビで映るようになってから、そういうイベントがあることを知ってはいても、ルールは知らない。
知っているだろうか。
コミケのような同人誌即売会でコスプレする場合、自宅から衣装を着てきてはいけないことを。
(イベントによってはそもそもコスプレ不可の場合もありますので、事前にHPの確認等が必要です)
一般人(とオタクはオタク以外の人を表現する)の前でコスプレをしてはいけないのだ。
それは自衛のため。最近は上記のハロウィンなんかもあるし、オタク、コスプレの存在がテレビでも見えるようになってきたからか、受け入れている人も増えたんだろうけど、やっぱり変わった趣味だ、何してるんだ、見たくない、と思う人もいる。
そういった批判をかわすには、わかっている人たちだけのスペースでやるのがいい。
だから、イベント会場の決められた場所だけ、と決められているのだ。
というのを、知り合いは知らなかった。
自宅から着ていったらダメなら何処で着替えるの?と聞かれたのが、なんだか衝撃的だった。
でもそれは、普段どういう風に生活しているか、それが少しでも違うだけで、自分たちの常識は常識ではなくなるということ。

はじめてコスプレして、友人にコスプレイベントにつれて行ってもらったときのことは鮮明に覚えている。
ポーズをとって人に撮影してもらうことなんて全然ないから、なんだか気恥ずかしかったっけ。
それでも、いろんな恰好をした人たちが、思い思いに撮影している、そんな空間に初めて触れて、新しい世界が見えて面白かった。
私は、その世界にはじめて入った身。
そこにいる彼、彼女らを不快にしないために、そこのルールを守らなければならない。
お互いに気持ちよく楽しむためにも。

2017年6月11日日曜日

命の軽さとゲームに関係はあるか

こんなニュース記事があった。

小学生の間で流行っている危険な“度胸だめし”。やめさせるにはどうすればいい?

子供たちが、車やバイクが走っている道路にわざと飛び出す、そんな危険な度胸試しをしているらしい。
その理由の一つが、これを書いた記者はゲームにあると書いていた。
高いところから落ちても死なない、死んでも復活できる…だからこそ、今の子供たちは命を軽く見ている。
正直なところ、まだそんなことを言う人がいるのかと思った。
私が子供の頃から、そんなことは言われていた。
子供はゲームという架空の世界と現実に区別がつかないから、簡単に死んで生き返るゲームばかりやっていたら、命を軽く思ってしまう。

確かに、ゲームの中の命は軽い。
でも、そうでなければ、何度もやり直したりしない。
最近私がやっていた、ゼルダの伝説もそうだ。
何度も死んで、やりなおし。
すぐに再開できるから、何度も挑戦してみる。
そうでなくて、死んだらもう遊べません!なんてゲームじゃ、まずほとんどの人がやらないだろう。
命の軽さは、失敗しても再挑戦しやすくするためのものなのだ。
それゆえに、ゲームの主人公たちの命は軽い。

ファイアーエムブレムというゲームがある。
最近のものは違うんだけど、昔は死んだ仲間は二度と使えないシステムだった。
そういうゲームだと、かなり慎重になる。
リセットすれば確かに生き返るのだけど、リセットしたら、はじめからやり直しになってしまう。
先述のゼルダの伝説の場合は、死んでやり直すときは直近のセーブした場所からすぐにやり直せる。
自動でセーブが行われているので、ほとんど死んだポイントに近い場所から再開できるのだ。
でも、ファイアーエムブレムの場合は違う。
ファイアーエムブレムは章仕立てになったゲームでそれぞれの章で用意されたマップ上の敵を倒していきながら城を制圧するゲームなのだが、リセットしたら再開される場所は章のはじまりから。
マップの途中でセーブが残せないのだ。
どんなにうまくいって、制圧直前でも、リセットしてやり直ししたら初めから。
やり直しがめんどくさいのだ。
めんどくさいからこそ、慎重になる。

ゼルダの伝説がどうしてそういうすぐに再開できるシステムになっているのかといえば、隅々まで探索してほしいからなのである。
ちょっと考えてほしい。
駅からある場所に向かうのに、道に迷ったり、方向を間違えたりしたら、毎回駅に戻されてそこからやり直し。
たとえ、目的地が目前にあったとしてもだ。
そういう場合、寄り道なんかもちろんしないし、決まったルートを通るんじゃないだろうか。
そうならないために、何処を通ってもいいし、再開が楽なシステムになっているのだ。

そんなゼルダの伝説だけど、ストーリー上で死んだかつての仲間たちは生き返らない。
魂となって確かに存在はしているけれども。
最初にであう、ハイラル(ゼルダの伝説の舞台)の王もいなくなった後はエンディングまで出てこない。
すでに死んでいて、魂のまま、主人公のリンクを見守っていたからだ。
主人公の死はいくらでもなかったことにできるのに、彼らの死は決してなくならない。
ハイラルの王が日記を残してるのだけど、それを読むとなんだか切なくなる。
リセットしたってやり直しがきかない死。
ファイアーエムブレムも存在する。
ストーリー上の死は覆らない。
自分の手で救える命と、そうでない命。
ゲーム上にはそれが存在している。
私は思うのだけど、ゲームというのは達成感を与えてくれるものだ。
自己効力感、自分ならできる!と思わせてくれるものだ。
それでも、どうしても覆らないものがある。
その死は重い。他が軽いからこそ、重くなる。

最初の記事に戻ろう。
子供たちが命が軽いと思うのならば、それは、現在の日本が死にがたい世界だからではないのだろうか。
死は遠ざけられ、または、美化される。
映画やドラマで描かれる死は、ドラマゆえにドラマチックだ。
もちろん、そうでないものもあるけれども。
医療が発達し、治安もよく、みんな長生きする。
死は身近にない。
命が軽いということは、死の重たさ、悲惨さを知らないということではないだろうか。

記事の記者が、ゲームに原因を求めるのと同じように、私のこれも感覚的に思っているだけに過ぎないのだけれど、そう考える。

2017年6月10日土曜日

絵が描きたくない!の理由

学生の頃の話。
教育学部の中にある美術科に通っていた私は、3年になるぐらいになるともう絵なんか描きたくない!という気持ちになっていた。
それは、周囲の学生たちの絵の上手さと自分の下手さを比べて、一向にうまくならないことを呪ったからか。
思い通りにならない自分の技術力にいらだったからか。
正直、嫌になった理由は考えなかった。
考えたって仕方がなかったからだ。嫌になろうとも、課題は出さなきゃいけないし。
ずっと絵を描いてきたので、嫌いになったことを認めたくなかったところもある。
本当は好きじゃなかったんだとか思いつつも、それを理解はしたくなかったのだ。

しかも、嫌になったくせに絵は描き続けていた。
漫画研究会に入っていて、そこでは年二回学園祭の時に部員の漫画をまとめた冊子を出していた。
部活というと、絶対全員参加!とかそんなイメージを持つかもしれないけど、ここでは自由参加。
だからこそ、入部したときは出せるものには全部出すと決めていたのだ。
頑固なもので、嫌になってもはじめに決めたそれを諦めるつもりはなかった。
そして多分、その頑固さが嫌になった理由の一つなのだと今は思う。

絵はこう描かねばいけない。こだわりといえば聞こえがいいかもしれないが、ただただ頑固にそうやって決めつけていた。
その思い込みが、自分を苦しめていた。
頭では違和感を感じながらも、決めつけたその描き方以外できない。
自分がやりたいことを、全部自分で否定し続けていたのだ。
やりたいことが何もできなくなったとき、その時きっと嫌になったのだと思う。
周囲の人間の上手さより、きっと私はその自由な発想にイラついていた。
自分で制限したくせに、なんでお前たちはそんな勝手なことをしてるんだといらだっていた。
そうなんだと思う。

子供たちは、中学生になるころに絵を描くのが嫌になるらしい。
思い通りに描けない。想像と現実とのギャップ。
教育を学んでいるとそんな言葉がならんでいたのを覚えている。
それもあるんだろうけど、私はもう一つ思う。
人が求めている(と思っている)絵と、自分が描きたいもののギャップだ。
中学生の美術部の展覧会の受付をしたことがある。
ボーカロイド、ガンダム、野球漫画のキャラクター…
そんな絵が並んでいる。
あのころは、大人はわからないと思って描いているのかしら?とか思っていた。
美術展にそういうモチーフを描くことはタブーのように思っていたからだ。
今思うのは、子供たちはそういう絵を描きたいんだということ。
でも、美術で求められるのは写実的な絵。
描きたいものは、描かせてもらえない。
何となく、子供の頃でも漫画やアニメの絵を描くのはタブーに思えた。
でも、学校の先生はどうしてかなんて教えてくれない。
とにかくダメなものはダメ。
こうやって、描きたいものを否定されたら、嫌になるのは当たり前な気がする。

他人であろうと、自分であろうと、否定し続けたら嫌になる。
描きたくなくなったのはそのせいだ。
もっと、自由なんだ。
そう、思いたい。

2017年6月9日金曜日

プラバン工作

最近、プラバン工作にハマっております。
一時期流行りましたよね。流行には後れてのるスタイル。
子供の頃に、オーブントースターで焼いて縮んでいくのを眺めていたのを覚えています。
なんだかあれって、見てると早く取り出さないとやばいんじゃ?とか思ってしまって、早く取り出しすぎて波打ってどうしょもないものになってしまいますよね。
私だけでしょうか。

最近は、じっと動かなくなるまで待ってるのでうまくいっておりますが…
というわけで、最近作ったものです。
ネットで検索してて、子ペンギンモチーフがかわいいなと思って自分でも作ってみました。
他にもちょっと見えてるのは、個人的にシルエットが好きな首長竜。
そういえば、最近テレビを見てたら、首長竜は恐竜とは違うのだと知りました。
ビックリ…
色鉛筆で色が塗れるって面白いですね。
こういうの最初に思いついた人は、どうして思いついたのでしょう?

紙やコンピュータ上のキャンバスに描くイラストの場合は、色を塗れば完成ですが、プラバンに描くと焼く作業がプラスされますよね。
この、焼いて縮めるという作業がやっかいで、思った通りに縮んでくれない。
ただ、その思い通りにならない点が面白い。
もちろん、絵を描くのにだって思い通りにならない点はあるんだけど、なんていうか、その思い通りにならない点ってほとんど自分の腕のなさ、技術の足りなさなんですよね…
うまく描けない、思った形にならない。
でも、プラバンの場合は、思った形にならないのはプラバンのせいにできます(笑)
もちろん、収縮率を調べて~とやっていけば綺麗に作れるんですが、まあ、そこまで厳密にやらなくてもいいかなとも思えるし。
調べてたって、ちょっとした違い、例えば温度だったり、画材だったりで違ってきちゃうから、失敗しても当たり前みたいな気分で臨めるので、気楽です。

技術がないのに、はじめてなのに、うまくやらなくちゃ、下手くそじゃダメだと思ってると、どんなことも挑戦できないし、一回失敗しただけでなんだか自分がダメみたいに思えてきちゃう。
だから、できることしかしない。
でも、それだと成長できないんですよね。
はじめは失敗して当たり前。
慣れてきたからって失敗しない訳じゃない。
私がイラストで息詰まるのは、なまじ描いてきた期間だけは長いせいか、こんなに描いてきたのに下手くそじゃダメだ、笑われるという気持ちが根底にあるからなのかもしれないと思いました。
失敗を恐れると、守りに入ってしまって、新しいことも受け入れられなくなってしまいます。
そうすると、辛いんですよね。
自分が変われないのに、周りはどんどん変わっていって取り残されてしまう。
変わってしまうのが怖いところもあります。
新しいものを取り入れることは、今まで自分が積み上げてきたものの否定な気がしてしまうから。

でも、人間の気分なんて1,2日で変わってしまうもの。
最近はサボっちゃってますが、ずっとノートに日記的なものを描いてたんです。
読み返すと、昨日はこう考えてたのに、今日はこれなのかとびっくりしたりします。
一貫性のない人は嫌だったけど、自分も案外コロコロ変わっていっちゃってることに気が付く。
だから、いろんなことに目がいく。
いろんなところに目がいくのに、それを抑え付けてこれしかやっちゃダメという状態になってたら、興味がわかなくなってきちゃう。
少しづつ、興味を取り戻そうといろいろやってみております。
いろいろやってみると、見えてくるものも多分ある。

2017年6月2日金曜日

トレース練習の効能

描けない…と思って二の足を踏んでいるならトレースがおススメ

と、まだ2,3枚しかやってないけど思います。
何故かというと…

まだ自分で描いたわけじゃないのに描ける気がしてきた。
からです。

以前は、全く描けない。描ける気がしない…と思っていたにも関わらず。
漫画描くときも仕方なしに書いていたにも関わらず。
なんだか、いい感じじゃない?と思ったものが描けると、トレースでもなんだか達成感があります。
いや、びっくりしました。

ただ、ただ単に線をおってトレースするだけでは、本当に描けた気分になるだけです。
だから、描きながらよく観察しましょう。
光の具合とか、壁の岩の流れとか、パースのつき方とか。
どうしてこう見えているのか、よーく観察したら多分今後に役立つはず。
直線的な感じだとパースの流れも何となくわかりやすいですよね。
床やベッドの線が消失点に向かっている感じとか何となく、わかります。
あとは、実戦。
自分で描いてみることをしないとですね。

練習のためにいろいろ写真を集めていると、アイデアも浮かびますね。
いろいろ見たり知ったりしないとアイデアって浮かばないんだなと改めて思いました。
やっぱりよくわかってないと背景は描けません。
今までは、きっと人物をうまくなることばかりに集中しちゃってたのでキャラクターしか見てなかったんだと思います。
背景があることはわかっていても、それ込みでキャラクターを見てなかった感じでしょうか。
見えていても、見てはいないってそういうことかなと思います。
みんながみんな、見ているだけでしっかり観察できているのなら技術さえ鍛えればみんなすごい絵が描けちゃうということですもんね(笑)
あとは焦らないこと。
今日明日で描けなかった人間が急に描けるようにはならないですよね。
じっくり待つ、自分のことも待てるように焦らないように。
頑張っていこうと思います。

2017年6月1日木曜日

背景練習 陰影の重要性

「背景が描けない!」

苦手意識が強すぎて、思いつきもしない。
だから、まずは描けそうな気分になるべくトレースをしてみた。
フリーの写真素材からピンときたものをDLしてトレースしてみて、ふと気が付く。

最初はざっと描こうとして、まあ、雑に描いていたのだけどなんだか雰囲気がある。
なんでだろうと思ってじっと見ていて気が付いた。
トレースするために透明度を上げていたのだけど、それでも写真自体の陰影の具合がうっすら残っている。
それゆえに雑に描いても何となく雰囲気のある感じに見えたのだ。

 線画だけだとただの雑な背景だけど…
写真をもとに陰影もつけてみたら、だいぶそれっぽく見える不思議。
今まで影を描くことの意味は何となく分かっていたつもりだったけど、今回はっきりと分かった。
陰影があることで存在感が増す。
背景を描くとき、ディテールとかパースとかそういった部分ばかりを気にしていた。
漫画だとここまで影を描き込むことはない。
それゆえ、線ばかり気にしていたのだ。
もちろん漫画を描くときにこんなに暗くしてると読みづらくなってしまうから使えないが、トーンを貼ったり、ベタを塗ったりする場合の参考には多分なる。

よく考えると(最近はデジタル化も進んだせいか、トーン多用で影が細かくつけられているものも増えたが)漫画って一番濃い影ぐらいしかついてなかった。
何故かといえば、線で囲まれているからだ。
線というのはある意味一番暗い影のような役割を果たす。
それゆえに、あまり影をつけると画面が真っ黒になってしまう。
だから、漫画を参考にしていると影の存在を少し忘れてしまうのだと思う。

それから、昔の絵、浮世絵とか日本画と呼ばれるものを見てみても、影って描かれていない。
それがなぜなのか、勉強したことがないのでわからないけれど、西洋画には影があるのに日本画にはないことはわかる。
東洋では存在を描きだすのに重要なのは輪郭線で、陰ではなかったのだろうか。
ふと、思いだしたことがある。
私は海外に行ったことがないけれど、学生時代、彫刻の教授がスペインに行った話を聞いた。
スペインの日差しは、日本と比べると強く、色彩が濃いのだと言っていた。
日差しが強いと影も色濃く出てくるんじゃないだろうか。
そういう見え方が、陰影を描きだすことをさせたのではないだろうか。

学生の頃、デッサンの授業を受けているといつも困った。
影が薄い。そして、光が壁やら床やらで反射するのでいくつも影ができていていったいどれをはっきり描くべきなんだとめちゃくちゃ悩んだ。
だから、デッサンは嫌いだった。
室内の人口の光のせいかとも思ったが、電気は消されていた。

それから、海外のドラマなんか見てると、ネットでもよく言われているのを目にするが、画面が暗い。
影がよくできる。
日本のドラマはそれに対して明るい。
照明の違い、光の当て方の違い、それもあるんだろうけど、日本人ってすべてが均等に見えてる方がいいのかなとも思う。
洛中洛外図なんか見ると、全てが均等に描かれている。
一番注目してほしい場所はよくわからない。

影を描く。
それは、西洋的な文化なのかなとふと思った。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...