一週間ぐらい前、急に腰が痛くなりました。
でも、そこまでひどくないし、以前にも時々痛くなったことがありました。
その時はシップを貼っていれば治ったので、今回もシップを貼って過ごしておりました。
ところが。
何故かふくらはぎがつったように痛くなり。
歩いていれば収まったので、気にしなくてもいいかと思っていたのですが、朝起きると起き上がるのも嫌になるぐらい痛いのが何日も続いてさすがにこれはまずいと病院へ。
レントゲンを撮ってもらったのですが、背骨の隙間が一部分だけ異様に狭くなっている。
軟骨が変形していてそれが神経を圧迫している。
それが坐骨神経痛でした。
どうやら今まで痛かったのもそのせいだったようです。
しかし、痛みがあると何もやる気になりませんね。
やらねばと思いながらも、痛みが収まったらにしようと寝っ転がってしまいます。
痛み止めを貰ったとはいえそんなにすぐに収まる物じゃなかったので、結局何もできずじまい。
激痛、ではないんです。
我慢できなくもない。でも、そんな痛みでも長々続けば嫌になる。
それに、そんな状態なのでイライラしてしまいます。
病は気からなんて言いますけど、体の状態も気持ちに影響を及ぼす。
体と心は密接に関係しあってるんだなぁと改めて実感しました。
人間って簡単に影響されちゃうんですよね。
環境だったり、関係だったり。
日記をつけてると思います。
考えてることってホント一瞬一瞬で違ってくる。
自分で一貫性があると思っていても、案外そうでもない。
だからついつい、新しいものから身を守ったりしてしまうのかもしれませんね。
変化って怖い。
変わっていくことって怖い。
今までのやり方がきかなくなるから。
でも、自分が変わらなければいいって訳でもない。
まわりも変わっていく。
変わっていっているのにいつまでも同じ方法をしているのはよくない。
たとえ成功体験でも。
その時はうまくいったからって、同じ条件がそろうとは限らないから。
痛み止めのおかげかだんだん痛みもひいてきました。
痛みがないと少しずつやる気も戻ってきます。
こういう体験を残しておけば、創作に役立つかも?なんて今は思ってます。
風邪とかインフルエンザとかにかかったことはありますが、こういう痛みははじめてだったので、知識としてはあっても実際どうなのかってわからないものですね。
暇な時間は横になってることが多かったのでいろいろ考えてしまいました。
「勉強」について、なんて考えてしまいました。
勉強というとどういうイメージでしょうか。
私は、机に座って本を開いて…なんてイメージ。
いわゆる学校教育的な勉強のイメージですね。
私、勉強嫌いというかなんかなんなんだろうこれ、何のためにしたんだろうと思っていました。
学生時代、美術系に進んだせいか高校までに習ったもの全然忘れてしまっていて、そういう知識が問われる試験のために勉強しなおしたとき、え?覚えてない?え?これも?なんてガッカリしちゃいました。
一応進学校だったんですよね、高校。
だから受験のために必死に勉強しました。
それなのに、習ったような覚えはあっても肝心の答えがわからない。
知識になってない。
まさに受験のための勉強。
なんか、馬鹿らしくなりました。
大学に入るのに必要だったんだから、そこ突破できたからいいんじゃないかと思う方もいるでしょうけど、受験のための勉強ってそれって重要なの?と思ってしまったんです。
知識は、知って役に立たなきゃ意味がない。
活用できなきゃ意味がない。
そう思ったのです。
だから、勉強は大事だと頭でわかったつもりでいても全然できない。
どうせ、やった傍から忘れてく。
活用できなきゃ意味がないのに。
そう、活用。
私の場合、実際にやってみたりとかして、(だから実技が多かった美術も好きだったんでしょう)そこから調べたりするようなことは好きでした。
今思えば、それも勉強だなと思います。
必要だからと言われて覚えるのはなんだか苦痛だけど、やってみて必要だとわかれば覚えられる。
だから、坐骨神経痛の事とか調べちゃうんでしょうね(笑)
今、痛いから。
これもまた、勉強と言っていいんじゃないでしょうかね。
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