2016年12月22日木曜日

祝「聖闘士星矢セインティア翔」アニメ化決定

セインティア翔アニメ化決定おめでとう!

12/19発売のチャンピオンREDにてアニメ化決定の報が出されました。
放映(かな?)楽しみです。

といいますのも、私「聖闘士星矢」が大好きなんです。
こないだも予約はじまった3万ぐらいするフィギュア(とは言っても2体セットですけどね)をさっと予約したぐらい好きです。
世代とは違うのではじめて読んだのは5年ぐらい前。
たまたま息抜きにどう?と勧められて読んだのがきっかけです。
それまでは、名前は聞いたことあるようなぐらいの認識でしたが、シンプルなストーリーながら勢いのある展開が逆に新鮮でハマりました!

で、このセインティア翔という作品は、聖闘士星矢の数ある派生作の一つ。
せっかくアニメも始まることですから、これから星矢を読んでほしい!ということで作品紹介していきたいと思います。

「聖闘士星矢」

まずはこれ、原作たる聖闘士星矢!
80年代後半に車田正美先生が描いたギリシャ神話をモチーフに、神と人との戦いを描いた作品です。
ギリシャ神話というと煌びやかというか華やかというか…そんなイメージであろうかと思いますが、はっきり言ってそんなものはない。
聖闘士がまとう聖衣(クロス)と呼ばれる鎧はキラキラ煌めいてますし、車田先生の描くキャラクターは目が大き目でイケメン系に描かれてたりするので見た感じは煌びやかな風もありますが、中身は泥臭い世界です。
何せ、聖闘士は男しか本来なれないのです。
女子が聖闘士になりたいなら仮面で顔を隠し、女であることを捨てなければいけないのです。
男の世界です。
キャラクターたちは、どこか武士道とか仏教思想とか、登場人物は主人公以外はほぼ外国人なのですがどこかしらみな日本的な思想というか雰囲気がします。
そんなギャップが個人的に好きですね。

彼らは、地上を他の神々の魔の手から守る女神アテナを守護する者たちです。
なんですけれども…いやー最初の物語は言ってしまえば内輪もめ(笑)
女神アテナの力を信じられなくて聖闘士の最高位である黄金聖闘士の男が彼女を殺そうとしたことがそもそもの物語の始まりだったりするのです。
でも、そんな事件があったからこそその後は一致団結できるのかも。
そんなストーリー展開が面白いです。
ストーリーはシンプル、勢い重視。
近年の設定の練られた作品に比べるとやや物足りないかもしれませんが、説明がストーリーを展開するのに必要なだけで構成されているので自分であの描写はこうだったのではないか?ああだったのではないか?と考えるのが逆に楽しいかもしれません。

というか私は、それが楽しいです。
限られた描写から謎を解く。
そんな読み方が楽しい作品だと思っています。

「聖闘士星矢セインティア翔」

ではでは、アニメ化も決定したセインティアのご紹介。
こちら、派生作品の中では新しい作品です。
先ほど、聖闘士は男しかなれないと言いましたが、こちらの主人公は女の子。
あ、決して女体化ではありません(笑)

主人公は聖闘士の中であって、女子しかなれない聖闘少女(セインティア)なのです。
言ってることが違うじゃないか!と言わないでくださいね。
セインティアとは、女神であるアテナの身の回りの世話をするため特別に少女のまま聖闘士になることを許されているのです。
この作品は、このセインティアを中心に原作の裏側を描くストーリーとなっております。
主人公の翔子は、聖闘士のことも、もちろんセインティアのことも知らなかった少女なので、そのあたりの説明もあるので聖闘士星矢を知らなくても読み進められるかと思います。
とはいえ、やっぱり派生ですから星矢を知っていると楽しいですけどね。

それからイラストレーターでもあった久織ちまき先生のイラストは綺麗ですね!
アニメ化で公開された絵は原作アニメ寄りの絵になっている点がちょっと残念。

原作とはうって変わって女の子だらけの作品なのも新鮮です。
ちょっぴり女の子っぽいあれやこれもあったり…
とはいえ、これを書くにあたって少年漫画をいろいろ読んだと言っていたのもあり、少年漫画してるおもしろい作品。
ぜひ、読んでみてください。

他にも派生いろいろ…

数年前、朝に聖闘士星矢Ωなんて作品がやってたのを聞いた方もいるのでは?
実は聖闘士星矢今年は30周年を迎えた年でもあったのですが、派生作品たくさんあるんです。

派生ではなくて原作者が描いてる続編であり過去を描く「聖闘士星矢冥王神話NEXT DIMENSION」
その過去と同じ時代のパラレルワールド「聖闘士星矢冥王神話Lost Canvas」
原作の7年前、黄金聖闘士をメインに描いた「聖闘士星矢EpisodeG」
原作のあと、未来を描いた「聖闘士星矢EpisodeGA」
マンガだけでもこれだけあります。

これだけいろいろ作れるのは、根幹の設定がしっかりしていることと、詳しく説明しなかったからこそある物語の余裕のおかげかなと思います。
それから・・・作者の姿勢ですかね。
原作連載当時、アニメも同時進行ぐらいでやっていたのですが、アニメで出された設定を作者が華麗に無視してるんですよね(笑)
気に入ったものは取り入れる、でも、他は知らない。
好きにやってくれというスタンスだからこそ、いろんな作品が作れるんだと思います。
なので、私も派生作は好きにやってくれたらいいと思ってます。
なにせ、たとえ他の人が好きにやってくれても原作は揺らがない、という信頼があるから。
安心して見てられるんですよね。
長くアニメ見てたり、シリーズもののゲームやってたりすると、そういうのは求めてなかったんだけどな…とか思ってしまう瞬間があって冷めちゃうことが多々あったので、これは本当に安心できます。

ぜひともこの機会に、星矢ワールドを楽しんでみてはいかがでしょうか?
難しいことはありません。
要は小宇宙です。

2016年12月11日日曜日

「君の名は。」を見てきました

今更ながら「君の名は。」を見てきました

今年の話題の映画の一つといえば「君の名は。」だと思います。
普段あまり映画館に行かないので、話題になってるし見に行こうかなと思いつつも足を運ぶことがなく…ようやく見に行ってまいりました。
ラブストーリーっていうのが苦手なところもありましてどうなんだろうと思いつつ…
田舎かつ平日ゆえに人は少なかったものの、ちょっと年のいった感じの夫婦なんかが見に来ていて、アニメ映画に親子連れでもなければ若い人でもないそういう年齢層だけできていることに、話題になるってこういうことなんだなと感じました。

背景の綺麗さ

すごく個人的な話をします。
私は漫画なんか趣味で描いたりするんですが、背景を書くのがすごく嫌いです。
細かい労力を使うわりに、漫画を自分で読んでて思うのですが背景なんてほとんど見てない。

で「君の名は。」なんですけど、とてもきれいです。
監督さんの名前を聞くときだいたい背景がすごいとか言われてたので、これは確かにすごいなと思いました(しかも、これで今回はそこまで力を入れてないらしいからすごい)
そして、その中にちゃんとキャラクターが生きている。
その中になじんでいる。
そこがいいなと思いました。
雄大な自然を描くからこそ、悲劇が浮き彫りになる。
そんな気がします。
背景の綺麗さがあるからこそ、生まれる感情がある感じです。
背景なんて、どこにいるかとかそんな情報さえわかればいいと思っていましたが、こだわることでこんなにもいろんな情報を載せることができるのかと、はっとさせられました。

綺麗だからこその悲劇性

さて、ここからはネタバレが入ります。
数か月前に公開された映画とはいえ一応お気を付けください。

ストーリーの後半。
急に入れ替わりが起こらなくなって、主人公の一人の瀧は自分が見た風景を頼りに三葉に会いに行こうとします。
そこが岐阜県の飛騨地方というところまではわかったのですが、どうしてもその場所がわからない。
もう、帰らないと…そんな時間になって入ったラーメン屋で、自分が見た風景を頼りに描いた三葉の暮らした町の絵を取り出しているとふいにラーメン屋の店員がその場所の名前を教えてくれました。
夫がその町の出身だったのです。
しかし、その町は3年前に失われていました。
彗星から分かれて落ちた核が隕石となってその町を破壊したのです。
その風景はまるで2011年の東日本大震災によって失われた町を思わせる風景。
そして、被害者名簿の中には瀧が三葉として仲良くしていた友人、そして三葉自身の名が刻まれていました。
ついこないだまでいたはずの存在が、失われていた。
ついこないだまであった場所が失われていた。
何度も何度も描かれた風景だからこそ、その悲惨さが浮き彫りになりました。

聖地巡礼

今年の流行語大賞に「聖地巡礼」がノミネートされました。
以前は、おたくと呼ばれる人たちが漫画やアニメの舞台やモデルとなった地へ出かけるものでしたが、流行語大賞にノミネートされるということはおたく以外の人たちも聖地巡礼をしたくなったからでしょう。
背景が綺麗に描かれているからこそ、その場所に行ってみたいと思うのでしょう。

そしてもう一つは、描かれた物語が魅力的だった、共感できたからこそだと思います。
主人公である瀧が三葉の暮らしている糸守に行きたくなったことと同じことではないでしょうか。
そこにある何かに共感できる、だからキャラクターと同じ風景が見たい。
三葉がいるから、だけではなかったはずです。
彼女が暮らした世界をもう一度自分の目で確かめたかった、夢ではなかったと確信したかったから、だと思います。

キャラクターはキャラクターのみでは存在できない

背景とは、彼らが暮らす世界です。
田舎に暮らしているからこそ、カフェに憧れ東京に憧れた三葉がいます。
彼らの性格や個性は暮らしている世界が密接に関わってくるものだと思うのです。
それは見ている風景としての背景だけではありませんが、その一つである風景を緻密に描くことでキャラクターのいる世界を生かしているのだと思いました。

2016年12月4日日曜日

インターステラーを見ました。

今更ですがインターステラーを見ました。

インターステラーとは2014年に公開されたSF映画です。
簡単にあらすじを言うと、もうすぐ地球に人が住めなくなってしまう…そんな世界観で、移住できる星を探すべく宇宙へ旅立つ父と取り残された娘のお話。

かなりSF要素が濃く、正直私はSF詳しくないのでこの星の1時間は地上の7年に相当すると言われればそういうもんかと思いつつ見ておりました。
一緒に見てた人はそういう部分が意味わからないと言っておりましたが、わからないものはその瞬間に理解しなくてもいいんじゃないかと思いますね。
それに詳しくなくても、父と娘の親子愛のお話として見られるストーリー進行はよいと思います。
ネットで検索すると詳しい方の解説などがありますので、気になる方はそちらをご覧ください。

個人的に注目した部分

この映画の最大のポイントと私が思っているのはラストにこれまでの謎や伏線が一気に明かされていくところですね。
想像の及ばない世界というのを表現しただけだと思っていた部分さえも、そういうことだったのか!と明かされた瞬間は何というか、カタルシスみたいなものを感じました。
私は、そう来たか!とかそういうの感じるのが好きなのでSFとか関係なくストーリー展開が素晴らしいと思いました。

SFというとても科学的な世界で一つ異質な存在だった、主人公の娘が語る幽霊の存在。
幽霊に導かれることで主人公は宇宙に旅立つことになるのですが、旅立ちの日、なぜかその幽霊はここに残れ!というのです。
宇宙へ旅立つきっかけを与えたはずの幽霊がなぜかここに残れというのは、なんだかとても不思議でした。
けれど、そういうオカルトっぽい部分はストーリーが進行していくと少々姿を消します。
宇宙脱出へのカギは幽霊と呼んでいたものにある。
そう考えた、学者となった娘が自宅へ帰ってくるまでは。
そしてラスト、その存在の正体が明かされます。

なんと、その存在は5次元空間へ落ちた主人公だったのです。
5次元は時間と空間をも支配するのでいろんな時間へ鑑賞できるのです。
存在に気が付いて欲しい父が娘へメッセージを送っていたのです。
だからこそ、別れ際にここに残れ!というメッセージを送ったのです。
異質だった幽霊が、実はオカルトではなくてそれさえもSFの枠にあるものだったとわかった時、そう来たか!と思いました。

そんなインターステラーですが、科学的理論的に進めるだけじゃなくて、愛というものにも触れています。
そもそも、主人公が宇宙へ旅立ったのは滅びゆく地球から娘が生きられる星を探すため。
親子愛の物語としても鑑賞できるようなストーリーとなっています。
また、物語の途中、限られた燃料で向かえる星を選ぶとき、クルーの一人が恋人が旅立った星に行くことを提案します。
愛というものに導かれてここまでやってきた。
ただ、その提案は恋人に会いたいがためだと却下されます。
けれど最後それは正解だったという映像が出てきます。

ただ…まっすぐ向かっていたら不正解だったとも言えます。
宇宙移住にはプランAとBが用意されていました。
Aは移住できる星を見つけ、宇宙ステーションで皆が移住する。
Bはそれができなかった場合、船に乗せた受精卵を使って新たな人類を生み出して種を残すこと。
けれど、実は発案者である学者はAが不可能であることを知っていたのです。
Aを実行させるには重力の問題を解決しなければなりませんでした。
しかし、それを解決するにはブラックホールの中に入り観測をしなければならず、そしてそれは不可能だったのです。
ブラックホールは一度入れば抜けることができないのですからデータを取り出すことができないのです。
クルーの提案を却下した結果、不測の事態が起こり、主人公がブラックホールへ落ちる。
そのことで重力の問題が解決され、人類は宇宙へみな移住できた。
それを考えると確実に正解だとは言えません。

それに、提案を却下したのだって確実に娘を助けたいという父の愛からでしょう。
そのために不確実なものを信じることはできなかったのです。
ラストの映像を見て、ええ?と思ってしまったのは、結局恋人に会いたいというそれが正しかったのかよ、結局恋愛かよと思ってしまったところでしたが、考えるとそうとも言えないなと思いました。

恋愛の愛

個人的な意見ですが、なんか世界を救ったのは恋愛の愛ですというのがなんかしらけるというかなんというか…そんな感じなのでついついラストもええ?と思ってしまったのだと思います。
ストーリーのスパイスとしてならいいですし、例えば王道の勇者が姫様を助けに向かうというのならそういうものだとわかるのだけど、何でもかんでも恋愛の愛で済まされるとなんでやねんという気持ちになります。
多分、子供の頃に呼んだ恋愛物語が、好きな人に告白するために釣り合う人間になるために頑張る主人公…みたいな読み切り漫画ばかりだったせいでしょうか?
そんなに高尚なものですか?と思ってしまうのでしょう。
そんな人間の感想でした。

2016年11月25日金曜日

やる気を出す方法

どうしたらやる気になるのか

というのは、学生の頃から考えていることでした。
課題ややらなければいけないこと…たくさんあるのに、締め切り間際でないとやる気がでない。
そういう方はたくさんいると思います。

私の場合はちょっと違っていて、締め切りに間に合わせるということが目標みたいなものでしたから締め切り間際でないとやる気がでない…ということは、ある時期まではありませんでした。
(テーマに沿って自由に書くレポートとかは何を書けばいいのかわからなくて、内容が決まるのが締め切り間際ということはありましたが)

締め切りに間に合わせるというのは、当たり前のことかもしれません。
でも、全ての締め切りをきっちり守ったことはありますか?
風邪や体調不良といったどうにもならない理由もあれば、遊んでいて忘れていたとかそういう理由も含めて、全ての締め切りをきっちり守るということは、結構難しいことだと思います。
でも、それを評価されることなんてありません。
もちろん、自分だって当たり前だと思っていました。

何故締め切りを守ることを目標としていたのかというと、どうにもこうにも勉強に身が入らないからせめて当たり前のことは当たり前に守ろうと思ったのです。
だから、遅刻したりも台風でバスが動かないとか、電車がこないとかそういう理由でない限りありませんでした。
何せ、10分前どころかとくに用もないのに30分前にはついている計算で通っていましたから。

でも、その当たり前を守ることがなんだか馬鹿らしくなる瞬間がありました。
それはある日。
ゼミの先生が、こんな子いないよねと言っていた話を聞いたときです。
その子は、普段は下宿先から通っているのですが、その日は前日が成人式で地元から直で学校に来るので授業に間に合わないかもしれない。どうにかならないかと相談に来たそうです。
一回も休みたくないから相談しに来た。確かに彼女は一度も遅刻もしたことない。
すごいよね、と同意を求められました。
私は一度も遅刻したことないんだけど、と思いながらすごいですねと同意しておいた。
自分の予定はとくに入れないで、授業には遅刻しない、休まないを徹底していたのに。
そういう何かがないと、覚えてないのだな、印象に残らないのだなと馬鹿らしくなったものです。
(でも、実は同じゼミで話を聞いていた子が、でも○○ちゃんも遅刻したことないよねとは言ってくれました…がどうも、先生は聞いてなかった感がある)

その瞬間から、なんだかやる気もそがれました。
当たり前のことさえも、嫌になりました。
やる気がまったくなくなりました。

評価されるからやる気になるのだろうか

これは一理あると思います。
よく、ネットで調べると外的要因とか内的要因とか言われるもので、評価を貰うことは外的要因です。
そして、続きがありますよね。
やる気を持続させたかったら、外的要因ではなく内的要因を探せと。
つまり、無意識のうちに評価されたいという外的要因でやる気になっていたのです。
もちろん、誰にだって認められたいとかそういう気持ちはあるものです。
でも、私の場合、そこに全部を求めてしまっていました。
だから、評価されていないとわかるとやる気もなくなったのです。

内的要因を探す?

これがやりたいとか、好きだとか、極めたいとか…
そういう理由を探さなければやる気は出ないのでしょうか。
そしたら、やりたくないことには一向にやる気なんか出ません。
だらだらやり続けたら、時間の浪費です。
どうしたらいいのでしょう。

実は、長々書いてきましたがやる気を出すのは簡単です。
とりあえずやり始めればいいんです。
やる気があるから始めるのではなく、始めたからやる気も出てくるのです。
何かの本で読みました。

でも、やる気が出ないからだらだらやってしまうんじゃないか、とも思うでしょう。
そういうときって、それを終わらせたところで何になるかわからないときじゃないですか?
こんなのやっても無駄だとかそんな気持ちがあるときです。
もちろんやりたくないことは、こんなのプラスにならないとかそう思ってしまいがちです。
だから、逆にさっさと終わらせて好きなことをしよう!って考えましょう。

評価されないことが怖い、嫌だ、そんなときもあるでしょう。
もう、そういうこと考えるのはやめましょう。
どうせ、何もしなければ評価もされませんから。
マイナスも評価だ、そう思えるぐらいになれたらいいのに、と思いつつ難しいけど、そう考えていけたら…
マイナスばかりじゃ気が滅入るけど…

とりあえず始めたみたらいい。

2016年11月18日金曜日

期待されること やりたいこと

期待にこたえたい、でも…

自分の描く絵に自信がない。
けれど、だからこそ好きだと言ってくれる人の期待には応えたいと思う。
でも、なぜかいつだって自分がそうしたくてやっているんだと言い聞かせても、期待に応えることは自分のやりたいことを抑え付けて、相手が欲しいものを提供することだと感じていた。
彼、彼女らが好きだと言ってくれる絵は自分が好きで描いていたもののはずだったのに、期待に応えようとしてそればかり描いていると、でも、自分が描きたいのはこれだけじゃないのに…という気持ちになってくる。

何故かと考えているうちに、子供の頃のエピソードを思い出す。
絵が好きだという私を美術館に親がつれて行ってくれた。
だけど、小さいころから私が好きな絵というのはアニメや漫画の絵だった。
だからそういうものばかり描いていた。
親はいう。
美術館に飾られた、名画を指さして、漫画みたいなそういうのばかり描いてないで、こういうのを描きなさいと。
もちろん子供なので反発する。
そういう絵なんか描かない!と心に決めた。
多分その記憶が、期待に応えることは自分のやりたいことを抑え付けることなのだという認識になっているのだと思う。

やりたいことをしたい

やりたくてやっていたはずなのに、いつの間にか何もかもがやりたいことではなくなっていく。
期待を裏切らないように、嫌われないように…
そうしているうちに他の人たちの好きになるようにやってるのに、何も言ってくれない、なんで?と怒りが湧いてくる。
でも、そんな怒りもぶつけられずに抑えつけてだんだん何がやりたいのかわからなくなってくる。
感情が動かなくなる。

少しでも外へ

結局期待に応えることばかり考えていたのは、自分がやっていることに自信がないからなのだと思う。
だからついつい、今評価されている人たちの絵が嫌いになる。
こんなものと言いたくなる。
だって、好きだった漫画やアニメのイラストは、評価されるはずがないと心の奥底で思っているからだ。
そうじゃないと言葉でいくら言ってみても自分が信じ切れていないのだ。

でも、いつまでたってもそんな風に言ってたって何も変わらない。
そう思って絵の仕事を取りに行った。
今は出版社とかまわらなくても、簡単な仕事ならネット上で完結できるサイトが用意されている。
安く設定されているサイトならワンコインだからと頼む方のハードルも下がる。
とはいえ、はじめて購入されるまではやっぱり不安だった。
こんな絵誰が買うんだろうって。
でも、買ってもらえた。
数人だけど、買ってもらえたことは自信につながったと思いたい。

少しでも外に出してみたら、思っているより悪くなかったりして。

2016年11月15日火曜日

適度な運動は発想のタネ

運動不足は発想を停滞させる

絵を描いたり、文章を書いたり…そういう趣味をしているとついつい運動不足になりがち。
今じゃ資料集めだって、ネットでパパッと検索しちゃえるし、絵を描くことも執筆活動もPCやスマホ一つあれば可能。
PCでやってると、そこからほとんど動かなくなったりする。
そんな生活を続けていると運動不足になりがちである。

そんな生活続けていると、なんだか頭が働かない…これがうつ症状…?とか疑ってみたくもなる症状があらわれる。
でもうつというほど、精神的に追い詰められてないし、なんていうか頭の中がどんより曇り空、停滞しているだけという感じ。
そんな時に、ふと、運動不足にはラジオ体操がいいとテレビでやっていたので、記憶を頼りに(音をどこで手に入れるかわからなかった)ラジオ体操らしきものをやってみた。
運動不足の身体にはそれだけで効いた。
頭がはっきりしてくる。
脳に血が巡っているのがわかるかのようだった。

運動不足だと思考もネガティブになりがちだと実感した。
ネガティブになっているから、ちょっとした症状も重大なことに考えがちになっていた。
それだけでちょっと前向きになれた。

とはいうものの、続けるのは大変

効果を実感したのに、3日坊主。
一人暮らしならまだしも、家族と暮らしているとラジオ体操してるとか何となく恥ずかしい気もしてしまう。
ときどき、なんかやる気ないなぁと思ったときに、そうだ、運動不足だと思ってはやるぐらいになってしまった。
どうしたら続けられるのだろうか?

続けているものにヒントを探してみた

私は数年前から日記を書いている。
日記と言っても、ノートに思ったことをつらつら書いておくだけのノートで日々のことは記録されていない。
何故かというと、今日はこれがよかったとかそういう自分の感情を書くのが苦手だったからだ。
自分が読むだけなのに、何となく気恥ずかしさを覚えてしまう。
だから、思い付きだけをノートに記すようにした。
中身はほとんど、漫画やアニメの感想とか考察的なものとか、そこから思いついたネタとか…そんなもので、読みやすさも考えてないから思いついた順に、内容が前後しようが何だろうが全部描きだしておく。
それだけは、続けられた。
気楽なものだし、ネタ帳っぽいが読み返すつもりもない。
だからこそ、続けられた。

つまり、気負いしなければ続けられるのではないだろうか?

やりたいことをやろう

運動不足解消のために何をするか。
とくに興味のないことをやっても仕方がない。
運動不足で困ることって案外ないのだ。
病気の改善なんかで、やらねばならないという人は別にして、運動不足だなぁと思っている人はそこまで切羽詰まってないと思う。
切羽詰まっていればやりたくないことだってやるのだろうけど、何となくぐらいの理由ならやりたいことをやった方が続けられる。

とりあえず、どんなスポーツがあるのか調べるところから始めよう。

美術科教育を学んでみて私が思ったこと

絵心教室やってればいいんじゃね⁉

私は、教育学部にある美術科に通う学生だった。
教員になる気はないのになぜかゼミは美術科教育の論文を書くゼミに入っていた。
となると、教員にならなくても美術科教育について学ばねばならない。
指導要領を買ったり(すっごい安い)教育系の論文を読んだり…
そんなころ、3DSで絵心教室をやっていた。
絵がうまくない、うまくないから少しでもうまくなれたら…そんな一心でやっていた。
丁寧に導かれ、レッスンが終わるころにはお手本と似たような絵が描けている…美術を学ぶということは、入学前に入試用にデッサンなどをやるのだけど、だというのにこんなこと知らなかった!ということばかりで新鮮で面白かった。

さて、そこで気が付いた。
美術をやりたいという私は自分でもっと調べて絵心教室で知ったようなことを理解しておけばよかったのだけど、そもそも、こういう技術的な面は学校の美術じゃ教えてくれないじゃんということである。
指導は教員の裁量もあるから教えてもらったという人もいるかもしれないのだけど、少なくとも私は教わった覚えがない。
デッサンを教わったところだって、やってみて自分で気づく…という感じだ。
美術の教師っていったい何を教えているのだろうか?
そう思うと、絵画に関しては絵心教室をやらせておけばいいんじゃないか?という思いがずっとあった。

技術を知ると小手先の技術で表現の幅が狭くなる?

なんてイメージありませんか?
図工や美術は子供たちの自由に任せる、子供たちにのびのびと表現させる。
指導要領も、教える技術というのはどちらかというと彫刻刀の使い方だったり色の塗り方だったり…つまりは道具の使い方がメインだったと思う。
学生たちが考える美術の授業というのも、素材に触れさせて子供たちにその素材から自由に発想してもらってという感じだった。

でも、絵心教室をやった時、私が思ったことはただ一つ。
どうして、こういうことを学校では教えてくれなかったんだろう!

立体感の出し方、色の塗り方…確かに技術を知れば、すぐにでもそれが使いたくなる。
それを使いたいがゆえに表現が狭まってしまうことは考えられる。
でも、多分、後々その技術は何かを表現したいという時、一つの選択肢になるのだ。

某アイドルの農作業を思い出してもらいたい。
彼らはアイドルなのにいろんな知識を持っている。
実際にいろんな経験をして、さらには自分たちで農業の知識を得ているみたいだが、ああしてたくさん知っているからこそ、この状況にはこれ!という案を思いつけるのだと思う。

自由な発想にしたって発想の仕方を教えてはくれない

体で覚えろ…みたいな感じかな?
確かに素材に触れていると、こういう使い方あるかもみたいなものは浮かぶ。
でも、テーマについて考えると全然浮かばないよね。
資料を集めるっていうことを教わったのは大学に入ってからだ。
やってみた今では当たり前のように思えるけど、教わる前はそんなんじゃありきたりな、ありがちなものしか浮かばないんじゃないか…と思っていた。
でも、逆だった。
知れば知るほど、こういうのはどうだろう、それともこれは?という感じに思い浮かぶようになるのだ。
学校の美術の授業って今でも削減されたりしてるのかな?本当に少ないし、その中で描いていこうとすると、知っている知識を総動員してなんとかやりこなす…ということばかりだ。
資料を集める時間とかなかった。
宿題に出されたかもしれないが、他の課題とかやっていたら美術の優先順位は低く適当になる。

よく考えると、美術を教える教師というのは美術が好きな人間だ。
そういう人は、こうすればいいということを知っている。
でも、美術というビジュアル面を強化してきた人たちだから自分たちのやっていることを言語化することに慣れていない気がする。
美術作品の感想や考察はできるけど、発想することを言語化はあまりしないと思う。
というよりも当たり前すぎて、無意識のうちにやっているのかもしれない。
となると、教えられないのだ。
無意識だから。

ゲームに教え導かれる

全てがそうとは言えないが、ゲームって説明書を読まなくても進めるようにチュートリアルだったりそういったものが充実している。
プレイヤーに教えるのが上手い。
そういうことを考えてきたクリエイターが作るのだから、絵心教室もまた教え導くことが上手いのである。

美術教育を学んでいたころ、ゲームというと否定的な意見ももらったことがあるけれど、参考にできる部分っていっぱいあると思う。
ただ一つ言えることは、実際にやってみなきゃわからないんだってこと。

2016年11月11日金曜日

絵がうまくなりたい!の理由

美術を学んでいた学生時代の私の悩みについて…


悩みは、感動した美術作品というものがないことでした。
美術が好きな学生が集まれば、そういう話にだってなるわけだけど、私にはわかりませんでした。
もちろん、美術館に行ってあの絵に感動した!なんて子ばかりではないのですが。
このご時世、アニメや漫画が好きで、そういう絵を描く子たちだって集まってくるわけですから。

それでも、やっぱり彼、彼女らと自分を比べると、なんていうか、美術に向かう情熱?とかそういうものが足りない気がした…というか、明らかに足りないんですよね。
ずっと、だから、自分は本当は絵を描くことなんて好きじゃなかったんじゃないか?とかそんなことばかり悩んでいましたし、実際のところいまだに悩みます。
でも、それでも趣味は絵を描くことだと言ってしまいますし、絵が上手くなりたいとも思うんです。

絵を描き始めた理由

マンガやイラストが上手くなりたいから、その方法を検索してみるとそれらに混じってどうして絵を描き始めたのかを書いてるのを見かけたりします。
この漫画が好きだったからとか、このアニメのキャラの○○な姿が描きたかったからだとか。
でも、私の場合、絵を描くっていうのは保育園、幼稚園の頃に画用紙を与えれらてクレヨンでぐちゃぐちゃ描いてて…の続きみたいなものでした。
子供の頃に好きなキャラクターを描いていた延長線上に今現在の自分がいるわけです。
だから、絵を描き始めた理由も何もありません。

それなのに、ずっとずっと、そこを考え続けていました。
やっぱりそういう理由があった方が、見栄えがいいというか、かっこいいというかそんな気持ちで。
でも、考えれば考えるほど、延長線上にしかないなら、単にやめられなかっただけで好きとか嫌いとかじゃなくて、だから情熱も傾けられない…そんな風にしか思えませんでした。
いつしか、絵を描くことが嫌になっていました。

それでもやめなかった理由

一つは漫画研究会に所属していたことです。
私は一度始めるとなかなか抜け出せないもので、趣味のサークルなのだからそこまで所属意識持たなくてもいいはずなのだけど、最後までやり通さなければ…と思っておりました。
それゆえに、最後の学園祭で出す漫画を描くまではやめられませんでした。

そしてもう一つ…ある漫画にハマってしまったからなんです。
最後の学園祭も近づいていたころ。
ある人にとある漫画を紹介されました。
「聖闘士星矢」
名前は聞いたことあるけれど、見たことがない漫画。
それにハマってしまったのは、ちょうど学祭用の漫画を描き終り、もう絵を描かなくていいんだ!って思ってたときでした。
それなのに、ハマったら絵を描いてるんですよ。おかしいですよね。

聖闘士星矢を見たことがある人は、キャラクターが鎧を着ているのを知っているでしょう。
今まで、鎧を着たキャラクターなんて描いたことなかったのに、ここどうなってるんだ!?とか思いながら必死で描いてる。
もう描きたくない!とか言ってた人間が。

そして思いだす絵を描き続けていた理由

一つはそういう職業に就きたいというのがあったのですが…
実はもう一つあったことに気が付いたのです。

ゲーム好きだったので、ゲームの雑誌も買っていました。
そういう雑誌を買ったことがある人は知っているかと思いますが、読者投稿ページがあるんですよね。
そこに載ってるイラスト、結構うまい人がたくさんいました。
過去形なのはその雑誌休刊になっちゃいまして、多分それが絵を描きたくなくなった理由でもあるんです。
もう、載せてくれるところがない。
今はpixivとかあるじゃない、とか思うかもしれません。
でも、学生時代すでにpixivとかありました。
それでも、雑誌がよかった。
何となく投稿者たちに仲間意識を感じられたことと、この人に選んでもらいたいと思える編集者であったこと。
そして、その投稿誌の自由さが好きだったこと。
任天堂系のゲーム誌でありながら、PSやセガサターンの話題、テレビ番組やCM、古い漫画やアニメ…何でもあり、なんでも受け入れてくれる雑誌でした。
編集をされている方の知識が広いから、どんなネタでもコメントしてもらえるのです。
(まあ、もちろんわからないもの、面白くないものは外されていたと思いますが)
pixivだって自由です。何を載せてもいいわけですから。
でも、その自由さとは違います。
一度編集者というフィルターを通したうえでの自由です。
だから、まずは編集者に面白いと思ってもらえるネタを…と考えます。
不特定多数の人ではなくただ一人の編集者のために絵を描きネタを投稿していたのだと思います。

だからこそ、その場所がなくなってしまったとき、描く気がなくなってしまったのです。
嫌になってしまったのです。

だというのに、やっぱり絵を描き続けていた。
変化が怖いというのもあります。
やっぱり10年、20年続けていたものをなくすのは怖いです。
未だに怖いからこそ、絵がうまくなりたいのだと思います。
うまくなれば、何かが変わる。
続けていたものに変化があれば、周りだって変わる。
そう、信じたいのです。

2016年11月10日木曜日

常に考えていればいいアイデアが浮かぶなんて幻想

学生時代、一応美術を学ぶ学生でした。
教育学部の中にある美術科だったので、他の美術系大学とは違ってはじめから絵画とか彫刻に別れているのではなくて、ある程度全部やったうえで分かれていく形でした。
だから、今までやったことのないデザインなんかも課題を出されてひーひー言いながら考える日々でした。
その時に気が付いたことがあります。

常にそのことだけを考えていても何も浮かばない

アイデアを考えるときって、何となくそれだけを考えに考えていたら何かが降ってくる…そんなイメージをしておりました。
だから、与えられたテーマについて毎日毎日…は大げさですが考え続けておりました。
でも全然いいアイデアなんて思いつきません。
教授が示した、先輩方のよい作例に引っ張られて、いやいやそれじゃダメだろう…と思うばかり。
ついでに私は打たれ弱いもので、やっと考えたものにダメだしされるのが嫌で怖くて教授にこれはどうですか!なんて見せることもできず一人で悶々と考えるだけでした。

でも、学生ですので実際はずっとそれだけを考えているわけではありませんね。

他の授業で出された課題もやらなきゃいけないし、やっぱり学生ですからサークルやなんかで遊びたいし。
そういうときはデザインの課題の事なんか忘れています。
考えることなんてしません。
他の授業の課題をやるときはそれしか考えませんし、サークルでいるときは課題なんかすっかり忘れます。
それで、締め切り間際になって、あーまだ終わってない!とか思いながら、ありがちなデザインを提出して何となく終わらせる日々でした。

でも、たまには教授に受けのいいデザインを提出できるときもありました。
なんかふっと違うアイデアを思いつく瞬間があるんですよね。
それっていつかっていうと…

いいアイデアを思いつくのはほかのことを考えていたとき

だったんですよね。
例えば、他の課題をやっているときとか、立ち寄ったお店で何となく新商品を眺めているときとか。
なんだかふと、これってあの課題と組み合わせたらいいんじゃないか?と思いつく瞬間がありました。

なんでかな、というのを考えていたとき、生協の本売り場でふとこんなタイトルが目に入りました。
「思考の整理学」
帯に東大・京大でベストセラーなんて書かれていたら、ついつい手に取ってしまいました。

思い付きを寝かせよう


本の中にこんなことが書かれていました。
アイデアを考えることをお酒造りに例えて、醗酵させて寝かせて、カクテルにすると。
アイデアは寝かせることが大切なのだと。
読んだときはなるほどと思いました。
だから、それを読んでからは思い付きはとりあえずすぐにはネタとして外には出さないようにしています。
それは、デザインの授業の経験からも納得させられることでした。

すぐにパッと思いつくアイデアって、すぐに思いつくようなものだからありがちなんですよね。
自分では斬新なことを考えた!と思っていても、世にあふれていた…なんてことあったりしませんか?
デザインの授業でも、これはいい!と思ってやったものが、他の人も似たようなことしていた…なんてよくありました。
そして教授も言っていました。
すぐに思いつくことはありがちなのだと。

はじめはわからなかったけど、課題をやるたびにそれを実感していきました…いきましたとも。
まがい也にも芸術をやるとこに身を置いていたら、自分は発想がすごいに違いないと勘違いしておりました。
普通です。普通の人間です。

そんな人間でもたまにはホームランを打てる

どうやればいいかっていえば、アイデアをためておく…それだけです。
そのために、いろいろなことに触れなければなりませんが。
いつもと同じことをしているといつもと同じことしか思いつけません。
人間、刺激が大事です。

私の尊敬する漫画家である、車田正美先生も自伝(っぽい漫画)で言っておりました。
本を読むことが大事だと。
なんで本なのかといえば、私の考えですが、一番は経験することだけど、人間経験できることは限られていますし、例えば今の時代の日本に暮らしていたら戦争だとか殺し合いだとかそういうものは遠い世界ですしおこってほしくもありません。
でも、そういう知らない世界を知るって刺激になりますよね。
他人の考えたことを読むことで、自分にはないものを得られる。

それに、知識を蓄えると選択肢が増えます。
選択肢が増えたら、思いもかけない組み合わせをふと思いついちゃうんです。
どうしてかはわからないけど、なんか急にこれとこれは一緒にできるはずだ!って感じに。
でも、知ったことをすぐにネタにしちゃうとダメなんですよね。
人間、表に出すとそれで満足しちゃうことが多いんです。
創作する人がTwitterでなんでもかんでも呟いちゃうといけない…なんていう方がいるのは、当然といえば当然かなと思います。

それもあるから、ネタは寝かせて置けと思います。
ネタは寝かせておきましょう。
そうすると、頭の中で勝手に組み合わせがはじまるときが来るから。

あ、でも時事的なネタはさっさと出しとかないと旬が過ぎちゃいますからね!

2016年10月28日金曜日

続・ゲームファンとアニメファン

ゲームファンとアニメファンの違い

というものを何となく考えていた。
どうして違いが生まれるのか。
で、ふと、思い至ったことがある。
子供の頃、私は兄弟とゲームで遊んでいた。
二人で対戦するようなものから、RPGやアクションなど一人で遊ぶものでも何でも一緒に。
一人で遊ぶタイプのやつは交代したり、いないときにこっそり遊んだり。
同じゲームを遊んでいた。
今でこそ、遊ぶゲームのジャンルや種類は変わってしまったものの、時々同じもので遊んだりもする。
そうすると、互いの違いがよく分かる。
対戦ゲームであれば、使いたいキャラはそれぞれ違う。
RPGやアクションであれば、進め方や引っかかる場所が違う。
兄妹がRPGでキャラクターのセリフをほぼ飛ばしているのを見た時は、何をしてるんだ?ストーリーがわからなくなるだろうと思ってしまったものである。
それに、一緒のゲームをやっていても、二本あれば、私はこっちの方が好き、というのと、あっちはこれがいいっていうので違ったりする。

対してアニメの場合、アニメも同じものを見ていたけれど、違いを感じるのは好きなキャラか、好きなジャンルか…そのぐらいだ。
解釈の違いなんて考えたこともなかった。
兄妹で性別が違ったから、きっと楽しんでいるポイントやキャラクターの味方も違っただろう。
ホビーアニメが好きだけど、私は女なので、ああいうアニメは割と女の子キャラというのはいても弱かったりするもので、それにやきもきしたりもしていたが、兄弟は男だから、アニメのキャラと同じようにうっとおしく思っていたかもしれない。
でも、そんなことを互いに話すことなんてなかった。
子供だったというのもあるだろうが、話題に上がるのはどういう技を使ったとかどこがよかったかとか。
いわば共通の話題にできる場所を話すのである。

そこに違いがあるのではないだろうか。

一つのものをどう見るか

最近のゲームではオープンワールドなんて言って、自由に行動するゲームもあるが、基本的には何か課題があって、その課題をクリアしていくのがゲームだ。
対してアニメはストーリーを追っていく。みんなと同じストーリーを。

ここで、国語の授業を思い出した。
国語では、作者が考えていることとかここはどういう意味かとかそういうことを考えるけれど、テストもあるし、何となく答え、つまり解釈は一つだけ、という気がしていたのではないだろうか。
その考え方が、結局のところそのまま息づいているように思う。
アニメや漫画の場合、国語の授業と同じで解釈の違いを意識することがほぼないからだ。
みんなと同じものを見ている。だから、解釈も同じ。
そんなつもりの思いが心の底にあるんじゃないかと思う。

ゲームは同じものやってても、違う行動するなんて当たり前。
だからそもそも、同じだなんて思ってない。
ストーリーを追うゲームだと解釈は一緒だって思うかもしれないけど、とりあえず私は違うと思ってる。

そもそも、私が漫画とかアニメで二次創作をあまりやらなかったのはそこの点があったから。
何となく、ゲームに比べたら世界観は固定されて不自由で妄想の余地はない。
ゲームってRPGとかってストーリーとストーリーの合間に、自由に移動できる瞬間があるじゃないですか。
あの合間にこそ、個人的なストーリーが生まれてるのだと思っておりましたし、今でもそう思います。
対してアニメや漫画には、その間というものは基本的には存在しない。
だから、つけ入る場所はないと思っていました。
私がそう思うのですから、他の人もそう思っていたって不思議ではありません。

個人的なストーリーとみんなのストーリー

マンガやアニメの妄想って、どこかで自分の妄想でも誰かが同意してくれる、そこにあったと認めてもらえるものだと思うところがあるんじゃないでしょうか。
皆が知らないストーリーを私が見つけたのだ、みたいな。
自分の妄想だ、解釈だと言っていても、心の憶測ではそうは思ってないことに気が付かない、気がつけない。
ゲームの場合は、こんなことあってもいいよね、私はこういう世界があったと思うっていう個人的なストーリーだと思ってる。
私の遊んだ世界の中にはそれが存在するし、みんなの世界にもこういうのあってもいいよね?みたいな感じで提示してる。
ストーリーだけ楽しみたいなら、別にゲームじゃなくていい。
自分の手でもぎ取った勝利。
同じストーリーを遊んでいても、その経験は実に個人的なものなのだと、少なくとも私はそう思っている。

もちろん、これは私が兄弟との違いとかを見て考えたものだから、絶対こうだとは言えない。
ただ、きっと、子供の頃になにをどう読んだか、何をどう遊んだかっていうのは、今に続いているものなのだと思う。

2016年10月27日木曜日

ゲームファンとアニメファン

ゲーム好き寄りです。

私はもともとゲーム好きでした。
家にはスーパーファミコンがあり、自然とそれで遊ぶようになっていました。
好きだったのは、ストリートファイターとか侍スピリッツとか手軽にすぐに終わらせられるタイプ。
ただ、下手だったので兄弟には勝てずに悔しい思いをしていたのを思い出します。
もちろん、テレビアニメも見ていました。
好きだったのは爆走兄弟レッツ&ゴー!!とかベイブレードとかホビーアニメ。
あとはみなが見ていたワンピースとかドラえもんとかポケモンとか…普通には見てました。
でも、どちらかというとゲームで遊ぶ方が好きでした。だからこそホビーアニメも好きだった。

共通点は遊べること。

ゲームは遊ぶものですね。操作して課題をクリアしていって。
その中に物語があったりする。
で、ホビーアニメも同じ。
見ている分には遊んでないけど、アニメの中と同じものを使って現実で遊べるんですよ。
もちろん、アニメの中でやってる必殺技とかできないけど(笑)

遊べるっていうのは、どこか現実とつながってる部分がある。
そういうところが好きでした。
だから、ネットでイラストを描いて公開するのももっぱら好きなゲームのイラスト。
アニメも好きなキャラとかはいたけどそれほどじゃないって感じでした。
学校で描きあいをしたりはしたけれど。

最近他のジャンルに来てみて。

で、最近は聖闘士星矢にハマってて、はじめて本格的(?)に漫画ジャンルにきて、なんかゲームの時とは違うぞ…?というのを感じてたりします。
何が違うのだろうかと考えてももやもやしてわからないのだけれど、何かが違う。
ここでは、アニメとひっくるめてアニメファンと言ってしまいますが、なんかこう、みんなそれぞれバラバラみたいな感じ。
自分の好きにやって、同じ解釈の人と集まって…多分そもそも母数が違うからかもしれないのですが、そういう風に見える。

Twitterでゲームファンとアニメファンの出す情報っていうのも違う。
ゲームファンもアニメファンも好きなキャラの事呟いてたりするけど、ゲームだとやっぱり攻略するところとか今ここまで進んだ!とかそういうことが多かったりする。

やっぱりこう、ゲームはどちらかといえば能動的に動かないと進まないものだし、漫画アニメは自分の意志や好みとは関係なく進んでいくものだし、違いがあるのではないかと思う。
ゲームも製作者に導かれてるんだよと言えばそうなのだが、操作しないと進まないのと読み進めるのをやめてしまうのとでは何となく私の中では別物だ。
漫画アニメは読み進めるのをやめても、連載は進む。
でもゲームは、自分の持ってるゲームにおいてはその時間から一向に進まないものだった。
(今は放置しておいてもレベルがあがったりするものもありますね)

ゲームの場合は同じものをやっていても、自分と他人のプレイは違う。
マンガアニメは同じものを読んでいるのだから、一緒…という気持ちになる。
けれどゲームと同じく、読む人によって解釈は変わってしまうものなのだ。
大人になった時に読み返してみて、子供の時にわからなかったことがわかるっていうのは、子供の目線か、大人の目線かの違いもあると思う。
でも、他者の理解が違うことを意識することが少ない気がする。
というより、違いがあることはよくないと思う感じである。
美術の授業で、絵画を鑑賞してみなと同じ答えを探してしまうあの感覚のようなもの。
そんな気がします。

なんだか話がそれてしまったような…
とにかく、下地がかわれば解釈だって変わっていくもの。
違和感はそこに感じているんだろうな、と思います。
しかし、そろそろこちらに染まってきたかも…

歩く速度

移動手段とネタ集め

都会に行くと電車とかバスとか、とにかく移動手段がたくさんあるなと思う。
乗り遅れても次がすぐに来るし。
でも、田舎は一時間に一本なんて当たり前だと思う。
バス停までが遠かったりするし、山の上の方だとバス停すらないことだってある。
だから、基本的に車移動だ。
買い物に行けば買い込むことだってあるし、車で移動することが便利なのである。

けれど一時期、バスで移動していた。
自宅に自由に使える車がなかったのだ(家族で共用していた)
すると気が付いたことがあった。

当たり前のことかもしれないが、車で走っているよりも周りの風景がよく見える。
車で走っていたときは、ビュンビュン過ぎ去っていた景色の中にある小さな草花とかそういったものに目が行くようになった。

ブログのネタ探し

もう一つ目が行くようになった理由がある。
バイト先でブログを書かねばならなかった。
テンプレートはあるものの、他の人と同じ内容ではいけないからネタを探さねばならなくなった。
そういう目的があると、余計にしっかり見ようとするようになるのだと実感した。

だからポケモンGO

突然だが、ポケモンGOというゲームはご存知でしょうか。
ちょっとしたブームになってるし、最近もよくないニュースがあったりしてるから見聞きしている人も多いはず。
ポケモンGOはその名の通り、ポケモンを捕まえるゲームだけど現実世界を歩いてポケモンを探さねばならないらしい。
らしい、というのは私のスマホが古くて対応してないのでやれてないからである。
やりたくてやりたくて、仕方ないので同じ会社のイングレスというのをやってみた。
こちらは、ポータルと呼ばれるモノを3つ探し出して自分のものにして、その3つがつながった面積の広さを二つの陣営に分かれて競うものだ。
ポータルというやつを探しに歩いて出かけると、ここにこんなものがあったのか、とかそんな発見がある。
車で走っていたら通り過ごしてしまうし、多分このゲームをやっていなければ素通りした代物だ。

目的と速度

つまり、目的があれば人は良くネタを探すようになるし、見つけやすいのはゆっくりと自分の速さで移動することなのだと思った。
当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、普段車で移動しているし、移動する間に目的なんて持たないから気が付かなかった。

何か一つ目的を持っていたら、世界を見る目がかわる。
ただ何となく過ごすより、いいのかもしれない。

2016年10月21日金曜日

NXの正体がついに明かされたよ

Nintendo Switch

ずっとNXという仮の名前で出ていた任天堂の新機種がついに姿を現しました!
最近はゲームから離れていたけれど、やっぱり新機種はワクワクしますね!
3DSはもちろんWiiUだって買いましたから、来年が楽しみです。

据え置き機でありながら携帯機のように持ち運べ、携帯機のようなのにコントローラーを別にして遊ぶことができて…
いやー私にこの発想はなかったです。
ホント、任天堂の斜め上を行く感じ大好きです。
(関係ないけど、だから聖闘士星矢も好きです。作者が私の想像の上を行く感じで)

いやしかし、私が一番興奮したのはですね…コントローラーをヌンチャクのように持てる!ってところなんですよね。

ヌンチャクってなに?

ブルースリーが使ってた、鎖でつながった棒状の武器…ではありません。
Wiiのコントローラーってリモコンと呼ばれている、白い棒状のものがみなさんの記憶にあるかと思います。
そのリモコンにコントロールスティックがついたグリップみたいなやつを接続したものをヌンチャクと呼ぶんですね。
据え置き型のゲーム機のコントローラーって両手で一つのコントローラーを持つのが主流というかそういうものだ!って感じでリモコンもヌンチャクも、よくネットでは批判されてたのを見たのですが、私はヌンチャクという形態がかなり気にってました。
何せ、普通のコントローラーと違って両手の位置が自由になるんですよ!
長時間握っているとこれがすごく快適で!
RPGが好きだったので、ホントこれ素晴らしい発明だ!って思ったんです。

しかしまあ、人間というものは長年慣れたものがいいのであって、受け入れられない人も多くて…さらにWiiUではゲームパッドになったものだから標準搭載ではなくなっちゃって…すごく寂しい気持ちでした。
それが、形を変えて復活したほんの一瞬の映像にもうワクワクが止まりません。
楽しみです。
一回やってみたらわかります。絶対に。
合わなければ仕方ないですが…

想像の斜め上をいく弊害

やっぱり独自の形をしてるとWiiUもそうでしたが、サードパーティのソフトが少なくなってしまうことが多々あることでしょうか。
その分任天堂が頑張っていかないといけないんだけど、やっぱり一社だけだと数が限られてきてしまう。
別にFFもDQも、私個人としては出なくても問題はないのですが(だってほぼやったことないです)やっぱりミリオン、ダブルミリオン、それ以上を今の時代でも叩きだせるソフトはそれだけで魅力になるので、そういうソフトが来ることも重要になるかと思います。
そういえばポインター的な使い方はできるのでしょうか…?個人的にカドゥケウスの新作が遊びたいです…
(カドゥケウスは外科手術をしていくゲームです)
バテンの新作もやりたい!…話がそれました。
任天堂だけですと、バリエーション出すの大変ですし魅力的なソフトをサードパーティにも出していただけたらな…と思います。
商売なので、いろいろ難しい面もあるかと思いますが。

とにかく楽しみ

ゲーム機の魅力は、やっぱりソフトにあります。
この独自の形を活かした魅力あるソフトがたくさん出たらいいなと思います。

2016年10月20日木曜日

バレエ漫画にハマってます

絢爛たるグランドセーヌ

「絢爛たるグランドセーヌ」という漫画をご存知でしょうか?
チャンピオンREDという月刊誌で連載されているバレエ漫画です。
チャンピオンREDというエロっぽい漫画も多い雑誌の中で、バレエという煌びやかな世界を描いたスポ根漫画です。

そう、スポ根。
主人公の少女がバレエにひたむきに向き合っていく姿はスポ根のようです。
元々、聖闘士星矢が好きだったのでその派生作が連載されていたこともあって買い始めた号に載っていたのがこのマンガでした。
第一話は、主人公が近所のお姉さんのバレエの発表会に招待され、彼女の姿にバレエに憧れを抱きその門をたたく…というところから始まります。
別にバレエに興味があったわけではありません。
ただ、その一話を読んで、なんだか涙ぐんでしまって、そこからずっと追っています。

涙ぐんだわけ

連載が始まったのは2、3年ぐらい前なので、どうして涙ぐんだのかちゃんと覚えてはいないのだけど、やっぱり読み返すと少し涙ぐんでしまいます。

あこがれを抱いてバレエ教室に通い始めた主人公、奏が憧れたお姉さんの踊りとは全然違う自分の踊りに練習が嫌になる場面。
私はバレエはしませんが、絵を描きます。主人公の気持ちが痛いほどよくわかる。
憧れを思い描きながら、絵を描いていると自分の下手さに嫌になる。
実は、学校も絵を学ぶところだったのですが、自分の下手さ、周りの上手さに読み始めたあのころは絵を描くことが嫌になっている時期でもありました。だから、自分に重なる部分もあったのでしょう。

彼女は鏡を見ることを嫌がりました。
自分の醜い踊りを見たくなかったのです。
私も、自分の絵をいまいち好きになれませんでした。描いても描いても楽しくない。周りのうまさの中にいたら、下手くそなのがわかってしまう。だから、人に見せて何か意見を貰うことも好きじゃありませんでした。
主人公の少女は、あこがれのお姉さんに鏡をよく見ることの意味を教えてもらいます。
自分ができていない部分を把握すること、お客さんの目を意識すること…
できていないことがわからなければ、改善もできません。
その意味を知ったあと、主人公はバレエの世界にどんどんハマっていくのでした。
その姿が、羨ましくも思えたのでしょう。
だから、涙ぐんでしまったのだと思います。

表現するということ

私はバレエをやりません。
でも、「絢爛たるグランドセーヌ」は何かを表現するという、そういう部分でとても共感できる作品です。
読んでいると、表現するってこういうことなんだとかそういう風に考えればいいのかとか、たくさんの気づきがあるんです。
絵を描いていくうちに、自分でそういうことに気がつければよかったのですが、何せ、小学校で自分から絵を描き始めた時から、絵が上手い子が周りにいて、どうしたらその子たちを追い越せるのかということばかりを考え、ちょっと間違った方向に努力してしまったので(絵がうまく描けないなら、スピードで勝負だ!みたいな)今更ながらに気が付いた…ともいえます。
とはいえ、一応自分で考えた結果だし、はやく描けることは悪いことじゃないので気にはして…してますとも、ええ。
気にしないわけがありません。

でも、だからこそ、この漫画が楽しいわけでもあります。
主人公とともに、気が付いて行けるわけですから。
表現することの楽しさ、苦労、そういう世界で生きていく難しさ…いろんなものが詰まっています。

創作していることに悩んでいたら読んでほしい

私は、そう思います。
もちろん、悩んでなくても!
本日、新刊の7巻も発売です。

2016年10月19日水曜日

植物を育てたら間引くということをようやく理解した

植物を育ててみた

最近というにはもうちょっと前からだけど、東急ハンズとかビレッジバンガードとか、そんなところで植物の栽培キットが売っているのを見かけることがあると思う。
かわいい瓶とか動物の形をした鉢なんかに、付属のタネをまいて育てるやつだ。

私はハーブに興味があった。何せ、食べられるからだ。
かわいい花が咲いて、それを鑑賞できて、食べることもできる。なんて素晴らしい植物だ。
しかも、薬効みたいなものもある。なんて素晴らしい植物だ。
そういう興味もあって、ついつい、売っていたカモミールの小瓶を買ってしまった。

取り扱い説明書には、こう書いてある。
芽がでたら間引きましょう、と。
しかし、実際芽が出て育ってきているのを見ると、もったいない気がして、あまり間引けなかった。
そうしていたらなんと、食べるどころか、花も咲く前に枯れてしまった。
(ちなみに、後で調べてみたら、ハーブを種から育てるのはなかなか難しいらしい…)

間引く意味を考えてみた

そこでふと、なんでせっかく育てた芽を抜かなきゃいけないんだ?ということを考えてみた。
野に咲く一面のカモミールの写真をネットで見たから、あんな感じにわさっとはえてる方がいいと思ったのだけど、それじゃダメだった。

考えてみれば、単純なことだ。広い野原と瓶の中は明らかに違う。
野原でも栄養の取りあいはあるのだろうけれど、瓶の中に比べたらどうってことはない…と思う。
そう、瓶は狭すぎるのだ。
そんな中で、栄養の取り合いをたくさんの芽がしてみるとしよう。
わずかな栄養を取り合って成長しても、成長しただけより栄養が必要で、どんどん足りなくなってくる。
そして、共倒れになる。

中国で一人っ子政策をしていたのと似ている。
その政策は、増えすぎる人口を抑えようということだが人口が増えれば食料などいろんなものが必要になる。でも、それらは決して無限ではない。限られた中で生きていかなければいけない。

限られた場所で植物を生きていけるようにするためには、その場から減らしていくことを考えなければならなかったのだ。
もったいないなんて言っていたら、みんなダメにしてしまった。
そっちの方がもったいなかったのである。

この経験の使い道を考えてみる

植物を育ててみて、そんなことを考えた…というのをそのまま使うことも、できないでもないと思う。
あとはファンタジーとかSFとか?
最近海外ドラマのCMで、人口増加をどうにかするためにどうのこうの…という話の新番組を紹介しているのを見たので、ここから話を膨らませても面白いかもしれない。

とりあえず、ネタになりそうなものはストックしておくに限る。
あとで、思いがけない使い道が思いつくから。

2016年10月18日火曜日

面白きこともなき世を面白く

「面白きこともなき世を面白く」とは遠い昔に生きたお侍さんの言葉だとか。
面白いと思えることがない世の中を面白くしよう、みたいな言葉だ。

実際、この時代を生きていると感じる。

テレビはニュースだけが流され、新聞も同じようになったこの世界。
けれども、動画配信サイトだとか書籍配信サイトだとか、そこでお金を得ずに個人が思い思いの情報を配信することは自由で簡単になった。どんな情報を流しても、犯罪につながらなければ問題はないのである。
けれども、その中で面白い、自分に合ったものを探すことは、かなり大変だ。皆がみな、何かを伝えたいのだけれど、それが他人にとって面白いかどうかはわからない。玉石混合、そして、誰かにとっての玉が自分にとっても玉かどうかはわからないということだ。
その有象無象の中から、楽しいものを見つけられたときの感動はひとしおである。

仕事がなくなり、今まで敷かれていたレールがなくなり、学校を卒業した後は荒野に投げ出される
かのようになったこの世界で、ただ待っているだけでは誰も楽しみを与えてはくれない。
そんな中で機械は、クリエイティブな部分だけ労働としないで人間に残したのである。彼らがやろうと思えば、いくらでも素晴らしい作品を生み出すことができるのは数十年前にすでに証明されていた。それでも人にそれらを残したのは、まあ、クリエイティブな仕事というものは、狙ってブームを作ろうと思えば作れても、それでもどれぐらい当たるかとかそういうことを予測がしづらいみたいで、それを商売にするのもめんどくさいらしい。それなら、お金が得られないのに勝手にやってくれる人間たちに任せた方が効率的だと考えたのである。

人々は労働がなくなったので、賃金を得ることもほぼなくなった。けれども、何か形として報酬を得たくなった。だから、クリエイティブなことをはじめた、と言ってもいい。
お気に入りに入れられた数とか、そういうのが、私たちの新しい報酬になったと言ってもいい…新しいかどうかはわからない。ずっと昔から、そういう評価制度はあったので。こういう時代になったから、全ての人々にとっての報酬になった、ということは間違いないが。

ちなみに、最初に紹介した言葉には続きがあるようだ。
「面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり」
軽く調べたら、高杉晋作という人の言葉だったようだ。幕末という時代を生きた人。遠すぎてよくわからないけれど、その言葉には共感できる。
面白いと思えることがない世の中を面白くしよう。面白いか面白くないかは心の持ちようだ。
そういう意味だそうだ。
つまらない、つまらないと言っているよりは、何か楽しいことを見つけようと思う方が、きっと見つからなくても楽しい。そんな気がする。

学ぶ

仕事をすべて機械がやることに最後まで抵抗したのは教育者たちだった。
機械に教育することはできないというのが彼らの主張だった。
けれども、今すべてを機械がやるようになって、そんなことやったことがないからわからないだけだったのだと気が付く。

むしろ、どこで暮らしてもどんな学校に行ってもみな同じ教育が受けられるのだ。教師の質が問題ではなくなったのはいいことではないだろうか。教師とてかつては人だった。歳を重ねれば頑固になる部分だってあるだろうし、若さゆえの経験の無さだってある。けれども、教えられる子供たちにしてみたらそんなことは関係ない。子供にとってその1年は、たった一度きりである。それなのに教師の質に左右されていたようじゃむしろ可哀想な気もする。

それに、大人たちも仕事をする必要がなくなったので、自宅で子供たちに教えるようになった。勉強はもちろんのこと、自分たちの趣味や家のこと、子供の頃遊んだ遊びなど、いろんなことだ。調査によればかつての時代よりも親子の会話が増えたとかそんな結果が出たようだ。まあ、仕事をする時間が無くなって、子供が寝てしまってから帰宅するとかそういうこともなくなったのだから当然と言えば当然なのだが。

子供たちは、自分の知らないことを知っている大人たちを尊敬するようになった。教師が機械になったことは人間にとってプラスだったと個人的に思う。機械はなんだって知っている、それは当たり前。逆に大人たちが知らないことがあっても、それは人間だから当たり前。それでも、子供という自分たちより物知りな大人たちなのだから尊敬されるのだ。尊敬されるのは心地よい。少子化の問題が解決に向かっているのは、経済が安定しただけではない。

とりあえず、今はとても楽しい。

2016年10月16日日曜日

自己実現

先日、人の欲求について少し触れた。
衣食住が保証され、社会に所属することを許された人々が、次に求めるのは自己実現だとか認めてもらうことだとかであるということだ。

だから、人々の趣味というものは誰かに評価されたい、評価されて有名になりたいというものが多いように感じる。
仕事する必要がなくなり、自己実現できる場が趣味の世界にしかなくなったのだ。
しかし、趣味の世界というものはくくりが大きく、そして、世界は広い。
会社に所属していたら、そのくくりは思うほど大きくはないのだと、昔の会社のHPを見つけて思った。どんなに大きく立って、中身はいくつもの部署に分かれているのだから、その中で評価されたり何かを実現することは、大きく出なければ案外可能なのだと思う、多分。

けれども、今の私たちにとって趣味の世界は広すぎる。とくに、気軽に始められるものはほかの人だって気軽に始めるのだから、それだけ多くの人がやっている。その中で評価されることはなかなか難しい。
もちろんみんな、妥協点を見つけた。自分のレベルとか自分のやりたいこととかでくくりをどんどん小さくしていく。そうしてみんな、かつての頃のように評価されやすい場を作りだす。そうしていなければ、欲求不満で精神的に潰れていくから。
昔のように、何か一つ生活の軸つまり仕事があって、そして趣味を持っていたのならそんなことはなかったのだと思う。仕事で嫌なことがあれば趣味で発散する、趣味でうまくいかなくても仕事があるから心に余裕ができる。そういう、相互関係が成り立っていた。

だから、最近はみんなさらに考え始めた。そもそも、趣味が一つだなんて誰が決めた?趣味はたくさんあればいい。評価されるために何かを極めなければいけないと思って、みな一つに絞っていたけれど、それじゃ逃げ場がない、そういうことに気が付いたのだ。
かつての仕事のやり方がいつの間にやら、遺伝子にまでしみついていたらしい。
歴史の教科書で読んだ話だが、かつての世界では多くの人は仕事は一つしか持たなかったらしい。別のことをするのは副業とか言うのらしいが、規則で禁止されてたりとかしたらしい。職業選択の自由は何処に行っていたのかしら。さらには、仕事人間なる、仕事のために生き、趣味さえ持たない人がいたらしい。その人たちは、何かミスをしたりして逃げたくなったときどこへ逃げたのだろう?

私はとりあえず、絵を描くことにした。紙とペンさえあれば、描けるもの。
他の趣味は…あとで考えよう。

2016年10月15日土曜日

趣味を持つ

趣味は千差万別

私は昔、ゲーム売り場に行ってゲームのパンフレットを集めることを趣味にしていた。
持っていないゲーム機のモノも何でもかんでもすべてである。
未だに戸棚にたくさんのチラシやパンフがしまわれている。
なんでそんなことをしていたのかというと、最近は資金難かなんなのか、だいたい紙一枚かいろんなゲームをまとめて一冊の冊子にしたものか、はたまた、何も用意されてないか、そんなことばかりだが、以前は作品によっては結構凝った作りをしたものがあったりしたので、見ていて面白かったからである。
とくに、PS2なんかはゲームのスリーブ型になっているタイプがあって、野球ゲームなんかは当時の12球団全部が用意されていて面白かった。

あとは、雑誌投稿もしていた。
とあるゲーム雑誌の投稿ページが好きでイラストなんかを投稿していた。どういうネタが載るのか?どういうイラストなら載せてもらえるのか?を考えながら描いてポストに投函して、月刊誌だったから次の月を楽しみにする…最近はpixivなんかがあるので、せっかく描いたのにすぐに見てもらえないどころか、ボツのまま見てももらえないなんてどうなの?と思う方もいるかもしれないが、雑誌に載ることを目標に描くのはなかなか楽しかったし、常連さんの話題を見るのも面白かったし、何となく顔をあわせたことも話したこともないけど、投稿者たちには親近感みたいなものを感じていた。

最近は、時々だけど手芸なんかもする。多分ものを作ることが好きなのだ。だから手芸に限らず、棚が欲しければ自分で板を買ってきて作ってみたりするし、トレース台が欲しかったらちょっと工作してみたりなんてこともした。

私がやるだけでも、まあまあ種類がある。
でも、世の中にはもっといろんな趣味がある。
「趣味」と検索すればいろんな趣味が紹介されていて、見ているだけでも楽しい。

趣味を持つこと

ネタを集めるうえでも、趣味を持つことは重要だと思う。
私は以前ゲーム業界に興味があったので、クリエーターのインタビューをのぞいてみたりしていた。
そこで、ゲームクリエイターになるにはどうしたら?と聞かれると、だいたいゲーム以外の経験をいっぱいしてください…という趣旨の発言が出てくる。
子供の頃は、これがよくわからなかった。
ゲームを作りたいなら、ゲームに詳しくなければいけないのでは?と思ったのだ。
ところが、ネットでゲーム業界への就職情報なんてのものぞいてみると、ゲームばかりしていた人は落ちるとかそんなことまでまことしやかに書かれていたのを見た。

でも、それは正しかったのだとしみじみ思う。
人は、経験したり知識を得たり…つまり、知っていることから発想する。
ゼロから生み出した知識は、多分存在しない。
何処から出てきた!?と思うような発想も、私たちには思いもつかないような知識の組み合わせによって生み出されたものだったのではないか、と思う。
だから、ゲームばかりやっていてはだめという発言になるのである。
ゲームばかりやっていたら、ゲームの知識しか得られないので、真似したつもりはなくても真似みたいなゲームしか作れなくなっていくのではないだろうか。

趣味をいくつも持つということは、それだけネタの選択肢が増えるということなのだ。

とはいうものの…

新しいことをはじめるのは、ちょっぴり不安である。
準備もいるし、お金がかかることもある。
だから、ついつい億劫になってしまう。

でも、興味があるものなら意外とそういった不安を飛ばして始められるものでもある。
今じゃ工作だとかそういう感じのものはちょっとお試し…なんて感じで100円ショップで揃えられたりもするし。
いきなり難しいことをするよりは、つまみ食いしつつ、その中でより興味を持ったものを続けていく方がいいのかも。

一つのことを続けるのも、ネタにできる経験をためられる…と思う。

2016年10月12日水曜日

仕事は娯楽になった世界


仕事は娯楽


2112年、仕事はついに娯楽となった。人々は働く必要がなくなったからである。
全ての仕事は機械にとって代わられた。市民はただ、機械が生み出す利益を分配されて生活している。
ゆえに人々は、365日をいかに過ごすか考えなければならなくなった。一週間の大半を占めていた労働時間がなくなったのだから、悩むばかりである。そして怠惰に日々は過ぎていってしまう…

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...