2017年9月26日火曜日

ブログに書くことがない!を解決する方法

ブログのネタがない!どうしよう

私のような初心者がブログを書き出すと直面するのは、ブログになにを書けばいいんだ?ということ。
これについて書くかと思っても、ブログとしていったい何を書けばいいのか。
趣味とか思ったこととかとりあえず書いてなんとかもうすぐ100記事になりそうだけど、ノリにのった記事はすぐに書けたが書けないときは本当に書けない。
書けなくてまた明日でいいやと、先延ばしにしてしまう。
そうしてると、面白いネタがないなと思って何も書けなくなってしまう。

だけど最近、間違いに気が付いた。
以前の記事を見返していたときだ。
美術系の学部に進んだ私はとにかく文字で何かを書くということが苦手だった。
今の私は2000字書くことに苦労していたときの自分と一緒なんじゃないか?
そう気が付いたのだ。

2000字書けない問題

2000字書くことに苦労していた自分と一万字書けたときの自分。
何が違うのか。
それは、準備を徹底的にしたか、しなかったか。

2000字書くことに苦労していたとき、私は、本を読みながら文章を書いていた。
一回読んだ本を、おぼろげな記憶を頼りに、確かあそこにこんなこと書いてあったようなとペラペラめくって確かめては書いていた。
出来上がった文章は、いろんな本の中身を切り貼りしたようなそんな文章にしかならなかった。
文章を作るのに2、3日はかかっていた。
対して一万字の時は、3日のうち2日を資料を読むことに費やした。
2000字を書くのに、2,3日かかっていたのに、だ。
何故この決断をしたのかというと、以前の記事にも書いたけれど、趣味で書いた映画の考察は2時間ぐらいで2000字書けていたことに気が付いたから。

何が違ったのか。
映画の考察もはじめは2000字のレポートの時と同じように、映画の内容を思い出しながらその内容を書き、感想を添える、そんな風に書いていた。
けれど、自分で書いていてだらだらした文章で面白くないな…と感じた。
先行上映で見たから、あらすじでも需要はあると言えばあるのだろうけど、映画を見た次の日に書いていたから、すでに詳しいあらすじは他の誰かにネットにアップされていた。
それにどうせ2週間もすれば、興味のある人間はみんな見に行く。
そんなものだらだら詳しく書いたって、面白くないじゃないか。何かこう、見に行った時に意味のある考察が書きたい。
そう思ったのだ。
とはいえ、先行上映ゆえにパンフレットもなく、思い出す以外もう一度内容を確認する方法がなかった。
だから、まずは一から順にできる限り思いだして紙に書き出した。
書き出すと面白いことにここはこういう意味だったんじゃないか?とかこことここの描写は対比されているんじゃないか?とか考えが思い浮かんできた。
そういったことも全部メモにとった。
その中から、面白そうな部分をピックアップして文章を組み立てたら、面白いほどスルスルとかけてしまったのだ。

本を一回読んで、理解できる人はできるんだろうけど、私はそうではなかった。
飲み込んだのはいいけど、消化吸収もろくにされないまま出ていってしまうようなそんな感じだったと思う。
だから、一回読んだだけだと、表現を少し変えてみるぐらいしかできなかったのだ。
だけど、映画の記事は違った。
自分の中で咀嚼する。
これは文章を書く事前準備。
そう、事前にしっかり準備しなければいけないところを、毎回準備もおろそかに本番に突っ込んでいたのだ。
だから、書けなかった。

ブログに書くことがない!を解決する方法

それで、タイトルに戻る。
とりあえず書くことは思いついていても、文章に書けない。
だから、書くことがないと思ってしまう。
それを解決するにはどうしたらいいのか。
とにかく、準備すること。
考えることは文章を書く前の準備であって、書きながらすることではなかったのだ。

そしてもう一つ、普段から、なんでもいいから書いておくこと。
人に見せなくていい。
ノートでもスマホのメモでも何でもいいから思い付きをただだらだらと書いていく。
文章にすらなっていなくていい。
とりあえず、目に見える形にする。
そうすると、頭の中ではそれ一つに固執していた考えが飛躍することもある。
つながりを見つけることもできる。
とにかく、頭の中にだけしまっておいてはダメだと思う。
思考は目に見えないから。

この文章が、何かの役に立てたのなら幸いです。

2017年9月25日月曜日

Javascriptで15パズル

15パズル。
15枚の1から15の数字が書かれたパネルを上から数字順に並び変えるパズル。
図書館で借りた本にコードが載ってたのでその通り打ち込んでみた。
こんな感じ(イラストは自作)
写してるだけなのに、すっごい時間かかった。
上手く動かなくて、でも、何が間違っているのかわからない。
これだけの動きを、あんなに長く記述せねばならんのか。
やってみないとわからないものだなぁ。

全くのど素人のため、そこに書かれている意味が分からない。
ゲーム作るのに、すでにいろいろ用意されたものもあるけれど、でもある程度はわかっていた方がいいのかなと、やり始めてみたものの難しい。
いやはや、プログラマーって凄いなぁ。

さてさて、でも作りたいゲームってこういうのではない。
こういうのではないんだが具体的な形もまだない。
まずはゴールを考えないとなぁと改めて思いました。
結構動いただけで満足しちゃったところがある(笑)
アニメを作りたいなと思ったときも、まずはトレスしてみようかなってやってみたら冒頭数秒をトレスして動かしてみただけで結構満足しちゃった(笑)
試してみたいだけだからそれだけで満足しちゃうんだよね。いかんいかん。
面白いゲーム作りたいな。

そこにいないもの

写真とか映像というのは不思議なものだなと、時々思う。
すでに亡くなった芸能人が、ドラマの中で生きている。
動きが付くとより不思議に思える。
ドラマやなんかの物語のあるものだと、作中の生死とは別に、役者の人生があるわけだけど、それでもなんだか不思議な感覚を覚える。

先日、古い写真を見せてもらった。
まさに、戦中って感じの出征前に集合写真を撮ったかのような写真。
詳しくは聞いていないから見た絵から想像するしかないのだが、戦争がなくてももう戦後70年以上たってるし、そこに写っている人で生きているのは数えるほどだろう。
それに、70年も経っているのだから姿かたちはすでにそこに写っているものとは変わっている。
二度と撮れない写真。
写真は一瞬を切り抜くのだと改めて思う。

さて、何で上に猫の写真を載せているのかというと、この猫もう亡くなってしまっているのだ。
めんどくさがりなものだから、写真はSDにしまったまま整理をしない。
こうして、何か載せる写真ないかなと探しているとふと目についた。
ふわふわした感触、なんとなく思いだせる。
ああ、こんな猫いたっけな、なんて思いだすのだ。
もうその姿を見ることは叶わないはずのいないものが、この写真の中にはいる。

最近は写真が手軽になった。
スマホでパシャリと撮ればいい。
容量もいっぱいだから、気にせず撮影できる。
だから、気がついたら何千枚と保存されている。
手軽だから気楽だ。
でも、その写真は見返すのだろうか。
指でざーっとスクロールして、目当ての写真だけ見つけたら、あとは知らない。
手軽になって気楽になって、思い出は重たくなくなった。
データのまま、消え去っていく。

データは表からは全く見えない。
開いてはじめて見えてくるものだ。
スマホの薄っぺらい外観の中に、何千と写真が入っているなんて気づかない。
ありすぎて、そう、思いがけない瞬間は消え去る。
欲しいものにしか目がいかない。
欲しいもの目当てのもの、それ以外のものを視界から綺麗に外す。
そこにあるのに、そこにいないものになる。

手軽になって気楽になった。
でも、その一枚一枚はもう二度と撮れない。
簡単に消えていくものになっていっていいのだろうか。

2017年9月24日日曜日

カメラの機能を使い尽くせ

カメラ屋さんにいると、カメラについて聞かれることがたまにある。
一眼レフとか持ってる人は、カメラについてわかって使っているのだろうけれど、子供や孫の写真が撮りたいだけのお年寄りなんかは、案外機能を知らずに使っているんだなと最近気が付いた。

例えば夜景。
カメラにせっかく綺麗に撮れるモードがついてるのに、知らない。
オート以外で撮影しないみたい。
こちらCanonのカメラについてる手持ち夜景モードで撮影しました。
結構綺麗に撮れたと思ってます。
せっかく高いカメラを持っているのに、オート撮影だけじゃもったいない気がします。
いろいろ試して、カメラの癖を知るのも面白いなと最近思っています。

これは水中モードで撮影しました。
水中じゃないじゃん!?って思うかと思いますが、思った通りの絵が撮れるならなんだってOKなのです。
水中は青い光が強くなるので、赤みをプラスすることで自然な色合いに補正してくれてるんですが、それを使って夕焼けの色をより強く映してみました。
夕焼けがより鮮やかに見えるので結構好きです。

食べ物は極彩色フィルターをかけて撮影するのが楽しいです。
色が鮮やかになるので、よりおいしそうに見えます。

やっぱりいろいろ試してみるのが楽しいですよね。
せっかく買ったカメラ。
使いこなしたい。

2017年9月21日木曜日

丁寧に描く

私は丁寧に描くということが苦手。
時間をかけて描くということがどうしてもできなかった。
よく、絵は手を入れ続ければよくなっていくなんて言うのだけど、それもよくわからなかった。

というのも、いったいどこの時点で完成と言ったらいいのかわからなかったから。
デッサンを練習していても、先生がここまでと言ったところが完成形だった。
誰かがこれでいいと言ったものが、私にとっての完成形だったのだ。
まあ、つまり誰かの評価に依存していた。
だから、課題だからと自分なりに時間をかけて描いたものと、気晴らしに適当に描いたものを並べて、気晴らしに描いた方がいいと言われたりすると、やっぱり丁寧に描く必要ないじゃんと思ってしまう。
(今思えば、気晴らしに描いた方がいい感じに力が抜けていてよかったのではないかと思う)

何故、そう思うようになったのか。
私が思い当たる原因は二つある。

一つは子供の頃のことだ。
子供の頃、周りには絵を描く友人が何人もいた。
他人がいれば子供だって比較する。
友人の中にとても絵の上手い子がいた。
なんでだろうと思っていたら、その子は、最近はあまり見かけないけど雑誌の裏に載っていた通信講座で絵を習っていたのを知る。
私もやりたいと言ったけど、子供だから親の許可がなければできない。
やらせては貰えなかった私が考え出したのは、上手さでは敵わないからスピードで戦おうという戦法だった。
私の通っていた小学校の休み時間は2種類あった。
10分と20分。20分だと子供たちはみんな外へ遊びに出る。
だから教室で待つ10分の間に一つ描けるようにと必死に描いたのだ。
多分このころ、上手さは敵わないから速さでというのが身についてしまったのだと思う。
じっくり丁寧に描くことは、負けることなのだ。

もう一つは、速く描くことに関連しているが、私がデフォルメが好きな事がある意味原因だったのだと思う。
好きではあったものの、しっかり時間をかけて描いたつもりのイラストよりもササっと描けてしまうデフォルメの方が評価が高いと時間かけても意味ないじゃんと思ってしまう。
やっぱり、これぐらい時間をかけたんだという過程をついつい評価してほしいと思ってしまう。
でも、そこは評価の対象じゃないのに気が付くのがだいぶ遅かったので、ふてくされていた。

とにかく、勝ち負けにこだわっていた気がする。
絵で勝つにはどうしたらいいんだろう。
一番になりたかった。なんでかは忘れたけれども。
けれども、上手くない絵を速く描けても敵いはしない。
それどころか、ある時絵の上手い子が、やっぱり貴方は速く描けるねと先生に言われていたのを聞いた。
むかついた。
早くうまくならないとと、もう、その時点で焦り始めていた。
でも、そんなにすぐにうまくなる方法はなく。

とにかく、速く描けることだけにプライドを持っていた。
そこだけは、その上手い子に認めてもらっていたから。

だから、どんなに下手だろうと”速く描けること”は捨てられなかった。
時間をかけたくなかった。
でも、それじゃうまくはならない。
上手くならないと、面白くない。
面白くないから、気が付くと雑になる。
悪循環だった。

そんな私が丁寧に描こうと最近思い立った。
理由は、上手くなろうとかそういうことじゃない。
フルデジタルで描いたものがあまりにも雑すぎたからだ。
私はアナログで線画まで描いて、デジタルでトーンなんかを入れるという方法で漫画を描いていたのだけど、それだととくにページが多いとスキャンが大変だった。
だから、フルデジタルにすれば速くできるはず!…と思ったのだけど。
やはり慣れていないから、いつもよりもめちゃくちゃ時間がかかってしまった。
イベントに出すので締め切りがある。
それに間に合わせなければと、これでいいやなんて雑になっていた。
出来上がったものを見ると、何とも言えなかった。
なんだか気が抜けて、全然何も手につかなくなったぐらいだ。

だから、今度はちゃんと描こうと思った。
デジタルで下書きを描くと、何故か途中でこんなもんでいいだろとなるからアナログで。
アナログでも、いつも以上に丁寧に。

そしたら不思議だ。
自分のデフォルメじゃない絵はあまり好きじゃなかった。
そのはずだったのに、何度も直して、よしいいだろうと自分で納得した絵は嫌いじゃなかった。
好きとか嫌いとかじゃなくて、楽しかった。
描いては直して、描いては直して。
今までだったら、めんどくさくてやめていたのに。
楽しかった。

雑に描くことは、結局のところ絵に対しても雑になる行為だったのかもしれない。
丁寧に丁寧に、向き合っていこう。

2017年9月16日土曜日

ゼノブレイド2遊びませんか

最近はスマホゲーにおされて縮小気味のCSゲーム…
そんな中、今年の3月に発売されたSwitchはいまだに手に入れられない人もいるんだとか。
私は3月に購入しましたが、まさか半年たっても普通に購入できないなんて思ってもみませんでした。
3DSの時は発売一か月ぐらいは手に入れるのが大変だったけどその後はお店に行けば普通に売ってたのに…
とはいえ、縮小気味だったCSゲームが盛り上がるのは嬉しい。

スマホゲーもやってはみたものの、どうも私にはあわなくて…暇つぶしにやるものだと聞いたのに、全然暇つぶしじゃ勝てない、進められない。
うーむ…皆さんどんなプレイをしているのでしょう?
ゆるーく縛りプレイが好きなものだから、基本無料だと絶対課金しない!って思っちゃうんですよね。
でも、スマホゲーってCSゲーと違って大半が誰かと競わせるような、もしくは協力させるようなそういう作りになってるものだから、ついつい他人が気になって、どうせ課金してないから弱いんだよ…という気分になってしまいました。
ね、向いてない。
私は、一本買って他人を気にせずゆっくり遊びたいタイプ。
仕事の合間の暇つぶしは妄想でもしてればいいんですもん(笑)

さて、ゼノブレイドですよ。ゼノブレイド。
12月1日に2の発売も発表されたわけなんですけど、私このゲーム大好きで。
と言いますのも、多分これがなかったらSwitchも買ってなかっただろうなという一本なのです。

ゼノブレイドが発売された2010年。
私はゲームに飽きていたんだと思います。
年に数本しか買わないので、ついつい同じシリーズのものを買ってしまっていました。
何故かといえば、みなさんもドラクエだからとかFFだからで買ったりするでしょ?
それってみんなが話題にしてるからとか、前作が面白かったからとか、つまりおもしろさがある程度保証されてるからですよね。
でも、ドラクエとか見たいに数年に一本ならいいんですがそのシリーズは毎年出てましてさすがに飽きてきていました。
でも、新しいゲームを探す気力もなかった。
一つだけやってたら、それがゲームのすべてになっていて、だから、ゲーム自体に飽きてしまってたんです。
そのときふと見たPVとすでにプレイしていた人の評判を見て購入したのがゼノブレイドでした。
飽きていたんだけど、でも、好きだったから面白さを思い出したかった。
そして、思いださせてくれた。
私にとって、ゼノブレイドとはそういうゲームでした。

何せ冒険してる感がすごかった。
だんだん広くなっていったフィールド。
広さで魅せるのが終わったら、今度は多彩な風景を見せるフィールド。
何処までも歩いて行ける。
今まで私がやったゲームではたいてい見えない壁がつきまとっていました。
それがない。
崖があればその先には行けなかったのに、ゼノブレイドでは飛び降りれた。
縦横無尽に駆け回る。
ただそれだけで面白かったのです。
知らない世界が見える。
それも、導かれたわけではなく自分の意志で見つけた幸せ。
とても楽しかったのです。

美術を志していながら、有名な絵画になんてあんまり感動しなかった私は、そのころ迷っていました。
なんで美術館いってもふーん…なんて思ってるのに美術やってるんだって。
でも、ゲームには感動しました。
Wiiのゲームだったので、当時の同世代機であるPS3やXbox360のグラフィックには到底かなわなかったはずなのに、その世界の美しさに感動していました。
フィールドの見せ方のセンスがすごかった。
それはきっとゼノブレイド2にも受け継がれている。
だから、楽しみなのです。

2は、1とは直接のつながりがありません。
だから、2からやっても大丈夫なはず。
ぜひ、12月1日、一緒に冒険の旅に出ませんか?

2017年9月14日木曜日

ゼノブレイド2発売日決定しました!


今朝のニンテンドーダイレクトにて、ゼノブレイド2が12月1日に発売されることが発表されました!
いやー早い。さっそくコレクターズエディション予約してきました。
今年の一月に今年中に発売される旨は発表されておりましたが、まさか本当に出るとは…
こういうRPGって開発に時間がかかって延期されることも多いのでビックリ。
FF15とか10年ぐらいかかってるし…

やっぱり任天堂傘下になったことが大きいのかなと思います。
詳しいことは、社長が訊くという故岩田聡前社長のインタビュー記事を読むと面白いですよ。

社長が訊く「ゼノブレイド」

出来れば、今作も聞いて欲しかった…いろんなゲームのインタビューがあるんですが、面白いです。お時間あれば他も読んでみてほしいです。

このインタビュー記事は趣味でモノ作る人も読んでほしいなーと思っております。
わかってる人にはそんなこと知ってるわって感じかもしれないけど、趣味でやってるといつまでも手を入れていきたくなるじゃないですか。
手を入れることでよくなっていくから。
でも、それだといつまでたっても完成しなかったりするんですよね。
どこかで、区切りをつけなきゃいけない。
でも、どこで?
私はいつもそれがわからなかったのです。
いったいどこで終わればいいんだろう。
デッサンやってても、ここで終わってもいいし、まだ続けてもいいし…なんて思いながら描いてました。
どこまでできるのかわからない。
そんな時、まずは一つ作ってみる。できるところまで作り込んだ一つを。
そうすると、それが指標になるんですね。
完成形が見えたからこそ、さらに先に進める。

よく、モノ作りは完成させなきゃだめだって言うじゃないですか。
完成させないと正しく評価できないんですよね。
だって、完成してなかったらいいものになるかもしれないし、ここから悪くなっていっちゃうのかもしれない。
わからないのです。
ゲーム、特にCSゲーだと全て完成するまでに数年かかります。
だからこそ、一つ遊べるマップを作っていく必要があった。
どこまでできるかみんなで共有もできるし、ここまで作れたからこそさらに上に行ける。
そういうものなのだと思いました。

私はせっかちではやく人に見せたいと気が逸るタイプなので、ついつい雑になってしまうところもあります。
これでどうだ!と思えるぐらいかけなきゃダメですね。
本気になって取り組んだからこそ、次に進める。
そうなんだと思いました。

さて、ゼノブレイド2はどんな世界を見せてくれるのでしょう。
楽しみです!

2017年9月13日水曜日

本気になったら死ぬ病気

「まだ、本気出してない」「もっとやれる」
そういうだけで、一向に本気は出さない。
きっと本気になったら死ぬんだろう。
だから、本気にならない。

かくいう私は本気にならないでいる。
本気になって絵を描いたら、きっと自分の下手な絵は本気になっても変わらないとわかってしまうから。
上限はここじゃないと信じたいばかりに、本気になることをしない。
だって、本気で描いたのに思った評価を得られなかった。
本気で描いたのに、いつだって自分の上に誰かがいる。
その状況から逃げたくて、本気じゃない、本当はもっとやれる。
そう、言い訳をしている。

そうしているうちに、本気じゃない状態が上限になる。
もう、とっくの昔にそうなってる。
好きなはずなのに本気が出せず、本気になれないから興味が薄れる。
本気と書いていて、ゲシュタルト崩壊しそうだ。
ネットで本気の出し方を検索している。
そんなことしてる時点でダメな気もする。
とあるネットの記事で、本気を出すのも才能だなんて書かれていた。
じゃあもう、どうしたらいいんだろう。

本気になったつもりで描くしかないのか。
つもりを続けてたらいつか本当に本気になれるのか。
どうなのか、わからない。
やるしかない。
やるしかないのか。

好きだったら本気になれる。
そういうのなら、好きじゃないのか?
好きなんだ。
好きなのに、本気になれないから辛いんだ。
そうでなきゃ、とっくに諦めてる。
諦められないんだ。

本気になったら死ぬ病気なんて、幻想、なんだ。

2017年9月9日土曜日

「存在意義」というネタ

ニュースアプリを見ていたら、コメント欄で「レゾンデートル」なる単語を見つけた。
なんだそりゃ?と思ってググったら、存在意義という意味のフランス語だとか。
なんですぐに横文字を使いたくなるのか…と思いつつも、存在意義という意味に惹かれた。

何度か書いているが、私は「死にネタ」が好きだ。
とはいえ、別に悲惨な、グロテスクな、そんな死に様を見たいわけではなかった。
海外のホラー映画のような痛い死に方は、見ていられなくて目をそらしてしまう。
何が好きなのかといえば、人が死ぬということの前後でおこる、人間模様が好きなのだ。
何気ない日常から突然永遠に失われてしまう、それを引き起こす死という現象。
それに相対したとき、どういう行動を起こすのか。
それが見たいのだ。

ある意味でそれは、「存在意義」について描くということなのではないかと思ったのだ。
失ったからこそわかる「存在意義」というものを、他人の目を通して書いていく。
「死にネタ」ってそういうものなんじゃないかと思う。
もちろん、全てではないけれど。

こういうネタについて考えるのは、どうも最近描きたいものが見えてこなかったから。
描きたい場面、描きたいキャラ、そういうのはあっても、どうにもまとまらない。
話が散らかってしまう。
そうしたとき、テーマとなるネタがあると締まる。
必要な描写とそうでない描写を取捨選択できる。
テーマや伝えたいことが必要なのは、その取捨選択をするためなのだ。

「死にネタ」が好きでも、さすがにすべて死にネタにして描きたいわけじゃない。
平凡な日常のことだって描きたい。
けれど、その日常を描くのに伝えたいことがない。
そうすると、いったい何を描いているのかわからなくて迷走する。
そういう時、もっと、広い意味で描きたいこと、伝えたいことがあった方がいいと思ったのだ。
そうしたとき「存在意義」という単語は、一つの答えになった気がする。

ヒントっていろんなところに落ちてるんだと感じた。
やっぱりいろんなモノを見ている方がいい。

2017年9月7日木曜日

嫌になる、ということ

学生の頃、絵を描くのが嫌になった。
だから、論文を書けば卒業できる研究室を選んだ。
でも、なんで嫌になったんだろう。

いつまでたってもうまくならないから?
どこまで行っても、上には上がいる。
心のどこかで一番になりたいと思っていた。
中学生の時からすでにそう思っていた。
でも、どこへ行っても一番になれない。
頑張る気をなくしていた。

それでも描き続けた。
上手くなる努力はできなかったけど。
資料もみないし、教本だってちんぷんかんぷんだし。
それでも、描き続けた。
頑固だから。
一度始めたことをやめるつもりはなかった。

嫌になったのは、面白くなかったからなんだと思う。
はじめは面白くて描いていたのに、絵を描いていれば美術や図工の授業なんて関係なく、子供同士で比べはじめて評価してしまう。
頑張って描いたはずなのに、いつだって求められるのはうまい子の絵だ。
子供にだってわかるのだ。
それでも、こんな自分でも求めてくれる人がいるはずだ。
そう思って雑誌に投稿した。載るまで頑張って、それからも投稿し続けた。
交流サイトのお絵描き掲示板というのにも投稿し続けた。
そこが、絵を描く身としての居場所になっていた。
なっていたのに。

雑誌は休刊。
サイトは閉鎖。
運が悪いことに立て続けだった。
居場所を失ってしまっていた。
描き続けることさえも嫌になったのは、思えばあのころだった。
面白いことが、なくなってしまった。

毎月、載せてもらえるようにどんなネタがいいだろう、どんなイラストがいいだろうと考えて描いたイラスト。
毎週、交流したくて描いたイラスト。
大事にしまってある。
楽しかった思い出だ。
嫌になってしまったのは多分居心地が悪くなってしまったから。
自分の居場所でなくなってしまったから。
それでも他に居場所を見つけられないから、描き続けた。
面白くなくても。

もう一度、好きになれるんだろうか。
もう一度、居場所になれるんだろうか。
嫌になっても、考え続けてる。

2017年9月1日金曜日

坐骨神経痛になりました(笑)

一週間ぐらい前、急に腰が痛くなりました。
でも、そこまでひどくないし、以前にも時々痛くなったことがありました。
その時はシップを貼っていれば治ったので、今回もシップを貼って過ごしておりました。
ところが。
何故かふくらはぎがつったように痛くなり。
歩いていれば収まったので、気にしなくてもいいかと思っていたのですが、朝起きると起き上がるのも嫌になるぐらい痛いのが何日も続いてさすがにこれはまずいと病院へ。
レントゲンを撮ってもらったのですが、背骨の隙間が一部分だけ異様に狭くなっている。
軟骨が変形していてそれが神経を圧迫している。
それが坐骨神経痛でした。
どうやら今まで痛かったのもそのせいだったようです。

しかし、痛みがあると何もやる気になりませんね。
やらねばと思いながらも、痛みが収まったらにしようと寝っ転がってしまいます。
痛み止めを貰ったとはいえそんなにすぐに収まる物じゃなかったので、結局何もできずじまい。
激痛、ではないんです。
我慢できなくもない。でも、そんな痛みでも長々続けば嫌になる。
それに、そんな状態なのでイライラしてしまいます。
病は気からなんて言いますけど、体の状態も気持ちに影響を及ぼす。
体と心は密接に関係しあってるんだなぁと改めて実感しました。

人間って簡単に影響されちゃうんですよね。
環境だったり、関係だったり。
日記をつけてると思います。
考えてることってホント一瞬一瞬で違ってくる。
自分で一貫性があると思っていても、案外そうでもない。
だからついつい、新しいものから身を守ったりしてしまうのかもしれませんね。
変化って怖い。
変わっていくことって怖い。
今までのやり方がきかなくなるから。
でも、自分が変わらなければいいって訳でもない。
まわりも変わっていく。
変わっていっているのにいつまでも同じ方法をしているのはよくない。
たとえ成功体験でも。
その時はうまくいったからって、同じ条件がそろうとは限らないから。

痛み止めのおかげかだんだん痛みもひいてきました。
痛みがないと少しずつやる気も戻ってきます。
こういう体験を残しておけば、創作に役立つかも?なんて今は思ってます。
風邪とかインフルエンザとかにかかったことはありますが、こういう痛みははじめてだったので、知識としてはあっても実際どうなのかってわからないものですね。

暇な時間は横になってることが多かったのでいろいろ考えてしまいました。
「勉強」について、なんて考えてしまいました。
勉強というとどういうイメージでしょうか。
私は、机に座って本を開いて…なんてイメージ。
いわゆる学校教育的な勉強のイメージですね。
私、勉強嫌いというかなんかなんなんだろうこれ、何のためにしたんだろうと思っていました。
学生時代、美術系に進んだせいか高校までに習ったもの全然忘れてしまっていて、そういう知識が問われる試験のために勉強しなおしたとき、え?覚えてない?え?これも?なんてガッカリしちゃいました。
一応進学校だったんですよね、高校。
だから受験のために必死に勉強しました。
それなのに、習ったような覚えはあっても肝心の答えがわからない。
知識になってない。
まさに受験のための勉強。
なんか、馬鹿らしくなりました。
大学に入るのに必要だったんだから、そこ突破できたからいいんじゃないかと思う方もいるでしょうけど、受験のための勉強ってそれって重要なの?と思ってしまったんです。
知識は、知って役に立たなきゃ意味がない。
活用できなきゃ意味がない。
そう思ったのです。
だから、勉強は大事だと頭でわかったつもりでいても全然できない。
どうせ、やった傍から忘れてく。
活用できなきゃ意味がないのに。

そう、活用。
私の場合、実際にやってみたりとかして、(だから実技が多かった美術も好きだったんでしょう)そこから調べたりするようなことは好きでした。
今思えば、それも勉強だなと思います。
必要だからと言われて覚えるのはなんだか苦痛だけど、やってみて必要だとわかれば覚えられる。

だから、坐骨神経痛の事とか調べちゃうんでしょうね(笑)
今、痛いから。
これもまた、勉強と言っていいんじゃないでしょうかね。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...