2016年10月28日金曜日

続・ゲームファンとアニメファン

ゲームファンとアニメファンの違い

というものを何となく考えていた。
どうして違いが生まれるのか。
で、ふと、思い至ったことがある。
子供の頃、私は兄弟とゲームで遊んでいた。
二人で対戦するようなものから、RPGやアクションなど一人で遊ぶものでも何でも一緒に。
一人で遊ぶタイプのやつは交代したり、いないときにこっそり遊んだり。
同じゲームを遊んでいた。
今でこそ、遊ぶゲームのジャンルや種類は変わってしまったものの、時々同じもので遊んだりもする。
そうすると、互いの違いがよく分かる。
対戦ゲームであれば、使いたいキャラはそれぞれ違う。
RPGやアクションであれば、進め方や引っかかる場所が違う。
兄妹がRPGでキャラクターのセリフをほぼ飛ばしているのを見た時は、何をしてるんだ?ストーリーがわからなくなるだろうと思ってしまったものである。
それに、一緒のゲームをやっていても、二本あれば、私はこっちの方が好き、というのと、あっちはこれがいいっていうので違ったりする。

対してアニメの場合、アニメも同じものを見ていたけれど、違いを感じるのは好きなキャラか、好きなジャンルか…そのぐらいだ。
解釈の違いなんて考えたこともなかった。
兄妹で性別が違ったから、きっと楽しんでいるポイントやキャラクターの味方も違っただろう。
ホビーアニメが好きだけど、私は女なので、ああいうアニメは割と女の子キャラというのはいても弱かったりするもので、それにやきもきしたりもしていたが、兄弟は男だから、アニメのキャラと同じようにうっとおしく思っていたかもしれない。
でも、そんなことを互いに話すことなんてなかった。
子供だったというのもあるだろうが、話題に上がるのはどういう技を使ったとかどこがよかったかとか。
いわば共通の話題にできる場所を話すのである。

そこに違いがあるのではないだろうか。

一つのものをどう見るか

最近のゲームではオープンワールドなんて言って、自由に行動するゲームもあるが、基本的には何か課題があって、その課題をクリアしていくのがゲームだ。
対してアニメはストーリーを追っていく。みんなと同じストーリーを。

ここで、国語の授業を思い出した。
国語では、作者が考えていることとかここはどういう意味かとかそういうことを考えるけれど、テストもあるし、何となく答え、つまり解釈は一つだけ、という気がしていたのではないだろうか。
その考え方が、結局のところそのまま息づいているように思う。
アニメや漫画の場合、国語の授業と同じで解釈の違いを意識することがほぼないからだ。
みんなと同じものを見ている。だから、解釈も同じ。
そんなつもりの思いが心の底にあるんじゃないかと思う。

ゲームは同じものやってても、違う行動するなんて当たり前。
だからそもそも、同じだなんて思ってない。
ストーリーを追うゲームだと解釈は一緒だって思うかもしれないけど、とりあえず私は違うと思ってる。

そもそも、私が漫画とかアニメで二次創作をあまりやらなかったのはそこの点があったから。
何となく、ゲームに比べたら世界観は固定されて不自由で妄想の余地はない。
ゲームってRPGとかってストーリーとストーリーの合間に、自由に移動できる瞬間があるじゃないですか。
あの合間にこそ、個人的なストーリーが生まれてるのだと思っておりましたし、今でもそう思います。
対してアニメや漫画には、その間というものは基本的には存在しない。
だから、つけ入る場所はないと思っていました。
私がそう思うのですから、他の人もそう思っていたって不思議ではありません。

個人的なストーリーとみんなのストーリー

マンガやアニメの妄想って、どこかで自分の妄想でも誰かが同意してくれる、そこにあったと認めてもらえるものだと思うところがあるんじゃないでしょうか。
皆が知らないストーリーを私が見つけたのだ、みたいな。
自分の妄想だ、解釈だと言っていても、心の憶測ではそうは思ってないことに気が付かない、気がつけない。
ゲームの場合は、こんなことあってもいいよね、私はこういう世界があったと思うっていう個人的なストーリーだと思ってる。
私の遊んだ世界の中にはそれが存在するし、みんなの世界にもこういうのあってもいいよね?みたいな感じで提示してる。
ストーリーだけ楽しみたいなら、別にゲームじゃなくていい。
自分の手でもぎ取った勝利。
同じストーリーを遊んでいても、その経験は実に個人的なものなのだと、少なくとも私はそう思っている。

もちろん、これは私が兄弟との違いとかを見て考えたものだから、絶対こうだとは言えない。
ただ、きっと、子供の頃になにをどう読んだか、何をどう遊んだかっていうのは、今に続いているものなのだと思う。

2016年10月27日木曜日

ゲームファンとアニメファン

ゲーム好き寄りです。

私はもともとゲーム好きでした。
家にはスーパーファミコンがあり、自然とそれで遊ぶようになっていました。
好きだったのは、ストリートファイターとか侍スピリッツとか手軽にすぐに終わらせられるタイプ。
ただ、下手だったので兄弟には勝てずに悔しい思いをしていたのを思い出します。
もちろん、テレビアニメも見ていました。
好きだったのは爆走兄弟レッツ&ゴー!!とかベイブレードとかホビーアニメ。
あとはみなが見ていたワンピースとかドラえもんとかポケモンとか…普通には見てました。
でも、どちらかというとゲームで遊ぶ方が好きでした。だからこそホビーアニメも好きだった。

共通点は遊べること。

ゲームは遊ぶものですね。操作して課題をクリアしていって。
その中に物語があったりする。
で、ホビーアニメも同じ。
見ている分には遊んでないけど、アニメの中と同じものを使って現実で遊べるんですよ。
もちろん、アニメの中でやってる必殺技とかできないけど(笑)

遊べるっていうのは、どこか現実とつながってる部分がある。
そういうところが好きでした。
だから、ネットでイラストを描いて公開するのももっぱら好きなゲームのイラスト。
アニメも好きなキャラとかはいたけどそれほどじゃないって感じでした。
学校で描きあいをしたりはしたけれど。

最近他のジャンルに来てみて。

で、最近は聖闘士星矢にハマってて、はじめて本格的(?)に漫画ジャンルにきて、なんかゲームの時とは違うぞ…?というのを感じてたりします。
何が違うのだろうかと考えてももやもやしてわからないのだけれど、何かが違う。
ここでは、アニメとひっくるめてアニメファンと言ってしまいますが、なんかこう、みんなそれぞれバラバラみたいな感じ。
自分の好きにやって、同じ解釈の人と集まって…多分そもそも母数が違うからかもしれないのですが、そういう風に見える。

Twitterでゲームファンとアニメファンの出す情報っていうのも違う。
ゲームファンもアニメファンも好きなキャラの事呟いてたりするけど、ゲームだとやっぱり攻略するところとか今ここまで進んだ!とかそういうことが多かったりする。

やっぱりこう、ゲームはどちらかといえば能動的に動かないと進まないものだし、漫画アニメは自分の意志や好みとは関係なく進んでいくものだし、違いがあるのではないかと思う。
ゲームも製作者に導かれてるんだよと言えばそうなのだが、操作しないと進まないのと読み進めるのをやめてしまうのとでは何となく私の中では別物だ。
漫画アニメは読み進めるのをやめても、連載は進む。
でもゲームは、自分の持ってるゲームにおいてはその時間から一向に進まないものだった。
(今は放置しておいてもレベルがあがったりするものもありますね)

ゲームの場合は同じものをやっていても、自分と他人のプレイは違う。
マンガアニメは同じものを読んでいるのだから、一緒…という気持ちになる。
けれどゲームと同じく、読む人によって解釈は変わってしまうものなのだ。
大人になった時に読み返してみて、子供の時にわからなかったことがわかるっていうのは、子供の目線か、大人の目線かの違いもあると思う。
でも、他者の理解が違うことを意識することが少ない気がする。
というより、違いがあることはよくないと思う感じである。
美術の授業で、絵画を鑑賞してみなと同じ答えを探してしまうあの感覚のようなもの。
そんな気がします。

なんだか話がそれてしまったような…
とにかく、下地がかわれば解釈だって変わっていくもの。
違和感はそこに感じているんだろうな、と思います。
しかし、そろそろこちらに染まってきたかも…

歩く速度

移動手段とネタ集め

都会に行くと電車とかバスとか、とにかく移動手段がたくさんあるなと思う。
乗り遅れても次がすぐに来るし。
でも、田舎は一時間に一本なんて当たり前だと思う。
バス停までが遠かったりするし、山の上の方だとバス停すらないことだってある。
だから、基本的に車移動だ。
買い物に行けば買い込むことだってあるし、車で移動することが便利なのである。

けれど一時期、バスで移動していた。
自宅に自由に使える車がなかったのだ(家族で共用していた)
すると気が付いたことがあった。

当たり前のことかもしれないが、車で走っているよりも周りの風景がよく見える。
車で走っていたときは、ビュンビュン過ぎ去っていた景色の中にある小さな草花とかそういったものに目が行くようになった。

ブログのネタ探し

もう一つ目が行くようになった理由がある。
バイト先でブログを書かねばならなかった。
テンプレートはあるものの、他の人と同じ内容ではいけないからネタを探さねばならなくなった。
そういう目的があると、余計にしっかり見ようとするようになるのだと実感した。

だからポケモンGO

突然だが、ポケモンGOというゲームはご存知でしょうか。
ちょっとしたブームになってるし、最近もよくないニュースがあったりしてるから見聞きしている人も多いはず。
ポケモンGOはその名の通り、ポケモンを捕まえるゲームだけど現実世界を歩いてポケモンを探さねばならないらしい。
らしい、というのは私のスマホが古くて対応してないのでやれてないからである。
やりたくてやりたくて、仕方ないので同じ会社のイングレスというのをやってみた。
こちらは、ポータルと呼ばれるモノを3つ探し出して自分のものにして、その3つがつながった面積の広さを二つの陣営に分かれて競うものだ。
ポータルというやつを探しに歩いて出かけると、ここにこんなものがあったのか、とかそんな発見がある。
車で走っていたら通り過ごしてしまうし、多分このゲームをやっていなければ素通りした代物だ。

目的と速度

つまり、目的があれば人は良くネタを探すようになるし、見つけやすいのはゆっくりと自分の速さで移動することなのだと思った。
当たり前といえば当たり前なのかもしれないが、普段車で移動しているし、移動する間に目的なんて持たないから気が付かなかった。

何か一つ目的を持っていたら、世界を見る目がかわる。
ただ何となく過ごすより、いいのかもしれない。

2016年10月21日金曜日

NXの正体がついに明かされたよ

Nintendo Switch

ずっとNXという仮の名前で出ていた任天堂の新機種がついに姿を現しました!
最近はゲームから離れていたけれど、やっぱり新機種はワクワクしますね!
3DSはもちろんWiiUだって買いましたから、来年が楽しみです。

据え置き機でありながら携帯機のように持ち運べ、携帯機のようなのにコントローラーを別にして遊ぶことができて…
いやー私にこの発想はなかったです。
ホント、任天堂の斜め上を行く感じ大好きです。
(関係ないけど、だから聖闘士星矢も好きです。作者が私の想像の上を行く感じで)

いやしかし、私が一番興奮したのはですね…コントローラーをヌンチャクのように持てる!ってところなんですよね。

ヌンチャクってなに?

ブルースリーが使ってた、鎖でつながった棒状の武器…ではありません。
Wiiのコントローラーってリモコンと呼ばれている、白い棒状のものがみなさんの記憶にあるかと思います。
そのリモコンにコントロールスティックがついたグリップみたいなやつを接続したものをヌンチャクと呼ぶんですね。
据え置き型のゲーム機のコントローラーって両手で一つのコントローラーを持つのが主流というかそういうものだ!って感じでリモコンもヌンチャクも、よくネットでは批判されてたのを見たのですが、私はヌンチャクという形態がかなり気にってました。
何せ、普通のコントローラーと違って両手の位置が自由になるんですよ!
長時間握っているとこれがすごく快適で!
RPGが好きだったので、ホントこれ素晴らしい発明だ!って思ったんです。

しかしまあ、人間というものは長年慣れたものがいいのであって、受け入れられない人も多くて…さらにWiiUではゲームパッドになったものだから標準搭載ではなくなっちゃって…すごく寂しい気持ちでした。
それが、形を変えて復活したほんの一瞬の映像にもうワクワクが止まりません。
楽しみです。
一回やってみたらわかります。絶対に。
合わなければ仕方ないですが…

想像の斜め上をいく弊害

やっぱり独自の形をしてるとWiiUもそうでしたが、サードパーティのソフトが少なくなってしまうことが多々あることでしょうか。
その分任天堂が頑張っていかないといけないんだけど、やっぱり一社だけだと数が限られてきてしまう。
別にFFもDQも、私個人としては出なくても問題はないのですが(だってほぼやったことないです)やっぱりミリオン、ダブルミリオン、それ以上を今の時代でも叩きだせるソフトはそれだけで魅力になるので、そういうソフトが来ることも重要になるかと思います。
そういえばポインター的な使い方はできるのでしょうか…?個人的にカドゥケウスの新作が遊びたいです…
(カドゥケウスは外科手術をしていくゲームです)
バテンの新作もやりたい!…話がそれました。
任天堂だけですと、バリエーション出すの大変ですし魅力的なソフトをサードパーティにも出していただけたらな…と思います。
商売なので、いろいろ難しい面もあるかと思いますが。

とにかく楽しみ

ゲーム機の魅力は、やっぱりソフトにあります。
この独自の形を活かした魅力あるソフトがたくさん出たらいいなと思います。

2016年10月20日木曜日

バレエ漫画にハマってます

絢爛たるグランドセーヌ

「絢爛たるグランドセーヌ」という漫画をご存知でしょうか?
チャンピオンREDという月刊誌で連載されているバレエ漫画です。
チャンピオンREDというエロっぽい漫画も多い雑誌の中で、バレエという煌びやかな世界を描いたスポ根漫画です。

そう、スポ根。
主人公の少女がバレエにひたむきに向き合っていく姿はスポ根のようです。
元々、聖闘士星矢が好きだったのでその派生作が連載されていたこともあって買い始めた号に載っていたのがこのマンガでした。
第一話は、主人公が近所のお姉さんのバレエの発表会に招待され、彼女の姿にバレエに憧れを抱きその門をたたく…というところから始まります。
別にバレエに興味があったわけではありません。
ただ、その一話を読んで、なんだか涙ぐんでしまって、そこからずっと追っています。

涙ぐんだわけ

連載が始まったのは2、3年ぐらい前なので、どうして涙ぐんだのかちゃんと覚えてはいないのだけど、やっぱり読み返すと少し涙ぐんでしまいます。

あこがれを抱いてバレエ教室に通い始めた主人公、奏が憧れたお姉さんの踊りとは全然違う自分の踊りに練習が嫌になる場面。
私はバレエはしませんが、絵を描きます。主人公の気持ちが痛いほどよくわかる。
憧れを思い描きながら、絵を描いていると自分の下手さに嫌になる。
実は、学校も絵を学ぶところだったのですが、自分の下手さ、周りの上手さに読み始めたあのころは絵を描くことが嫌になっている時期でもありました。だから、自分に重なる部分もあったのでしょう。

彼女は鏡を見ることを嫌がりました。
自分の醜い踊りを見たくなかったのです。
私も、自分の絵をいまいち好きになれませんでした。描いても描いても楽しくない。周りのうまさの中にいたら、下手くそなのがわかってしまう。だから、人に見せて何か意見を貰うことも好きじゃありませんでした。
主人公の少女は、あこがれのお姉さんに鏡をよく見ることの意味を教えてもらいます。
自分ができていない部分を把握すること、お客さんの目を意識すること…
できていないことがわからなければ、改善もできません。
その意味を知ったあと、主人公はバレエの世界にどんどんハマっていくのでした。
その姿が、羨ましくも思えたのでしょう。
だから、涙ぐんでしまったのだと思います。

表現するということ

私はバレエをやりません。
でも、「絢爛たるグランドセーヌ」は何かを表現するという、そういう部分でとても共感できる作品です。
読んでいると、表現するってこういうことなんだとかそういう風に考えればいいのかとか、たくさんの気づきがあるんです。
絵を描いていくうちに、自分でそういうことに気がつければよかったのですが、何せ、小学校で自分から絵を描き始めた時から、絵が上手い子が周りにいて、どうしたらその子たちを追い越せるのかということばかりを考え、ちょっと間違った方向に努力してしまったので(絵がうまく描けないなら、スピードで勝負だ!みたいな)今更ながらに気が付いた…ともいえます。
とはいえ、一応自分で考えた結果だし、はやく描けることは悪いことじゃないので気にはして…してますとも、ええ。
気にしないわけがありません。

でも、だからこそ、この漫画が楽しいわけでもあります。
主人公とともに、気が付いて行けるわけですから。
表現することの楽しさ、苦労、そういう世界で生きていく難しさ…いろんなものが詰まっています。

創作していることに悩んでいたら読んでほしい

私は、そう思います。
もちろん、悩んでなくても!
本日、新刊の7巻も発売です。

2016年10月19日水曜日

植物を育てたら間引くということをようやく理解した

植物を育ててみた

最近というにはもうちょっと前からだけど、東急ハンズとかビレッジバンガードとか、そんなところで植物の栽培キットが売っているのを見かけることがあると思う。
かわいい瓶とか動物の形をした鉢なんかに、付属のタネをまいて育てるやつだ。

私はハーブに興味があった。何せ、食べられるからだ。
かわいい花が咲いて、それを鑑賞できて、食べることもできる。なんて素晴らしい植物だ。
しかも、薬効みたいなものもある。なんて素晴らしい植物だ。
そういう興味もあって、ついつい、売っていたカモミールの小瓶を買ってしまった。

取り扱い説明書には、こう書いてある。
芽がでたら間引きましょう、と。
しかし、実際芽が出て育ってきているのを見ると、もったいない気がして、あまり間引けなかった。
そうしていたらなんと、食べるどころか、花も咲く前に枯れてしまった。
(ちなみに、後で調べてみたら、ハーブを種から育てるのはなかなか難しいらしい…)

間引く意味を考えてみた

そこでふと、なんでせっかく育てた芽を抜かなきゃいけないんだ?ということを考えてみた。
野に咲く一面のカモミールの写真をネットで見たから、あんな感じにわさっとはえてる方がいいと思ったのだけど、それじゃダメだった。

考えてみれば、単純なことだ。広い野原と瓶の中は明らかに違う。
野原でも栄養の取りあいはあるのだろうけれど、瓶の中に比べたらどうってことはない…と思う。
そう、瓶は狭すぎるのだ。
そんな中で、栄養の取り合いをたくさんの芽がしてみるとしよう。
わずかな栄養を取り合って成長しても、成長しただけより栄養が必要で、どんどん足りなくなってくる。
そして、共倒れになる。

中国で一人っ子政策をしていたのと似ている。
その政策は、増えすぎる人口を抑えようということだが人口が増えれば食料などいろんなものが必要になる。でも、それらは決して無限ではない。限られた中で生きていかなければいけない。

限られた場所で植物を生きていけるようにするためには、その場から減らしていくことを考えなければならなかったのだ。
もったいないなんて言っていたら、みんなダメにしてしまった。
そっちの方がもったいなかったのである。

この経験の使い道を考えてみる

植物を育ててみて、そんなことを考えた…というのをそのまま使うことも、できないでもないと思う。
あとはファンタジーとかSFとか?
最近海外ドラマのCMで、人口増加をどうにかするためにどうのこうの…という話の新番組を紹介しているのを見たので、ここから話を膨らませても面白いかもしれない。

とりあえず、ネタになりそうなものはストックしておくに限る。
あとで、思いがけない使い道が思いつくから。

2016年10月18日火曜日

面白きこともなき世を面白く

「面白きこともなき世を面白く」とは遠い昔に生きたお侍さんの言葉だとか。
面白いと思えることがない世の中を面白くしよう、みたいな言葉だ。

実際、この時代を生きていると感じる。

テレビはニュースだけが流され、新聞も同じようになったこの世界。
けれども、動画配信サイトだとか書籍配信サイトだとか、そこでお金を得ずに個人が思い思いの情報を配信することは自由で簡単になった。どんな情報を流しても、犯罪につながらなければ問題はないのである。
けれども、その中で面白い、自分に合ったものを探すことは、かなり大変だ。皆がみな、何かを伝えたいのだけれど、それが他人にとって面白いかどうかはわからない。玉石混合、そして、誰かにとっての玉が自分にとっても玉かどうかはわからないということだ。
その有象無象の中から、楽しいものを見つけられたときの感動はひとしおである。

仕事がなくなり、今まで敷かれていたレールがなくなり、学校を卒業した後は荒野に投げ出される
かのようになったこの世界で、ただ待っているだけでは誰も楽しみを与えてはくれない。
そんな中で機械は、クリエイティブな部分だけ労働としないで人間に残したのである。彼らがやろうと思えば、いくらでも素晴らしい作品を生み出すことができるのは数十年前にすでに証明されていた。それでも人にそれらを残したのは、まあ、クリエイティブな仕事というものは、狙ってブームを作ろうと思えば作れても、それでもどれぐらい当たるかとかそういうことを予測がしづらいみたいで、それを商売にするのもめんどくさいらしい。それなら、お金が得られないのに勝手にやってくれる人間たちに任せた方が効率的だと考えたのである。

人々は労働がなくなったので、賃金を得ることもほぼなくなった。けれども、何か形として報酬を得たくなった。だから、クリエイティブなことをはじめた、と言ってもいい。
お気に入りに入れられた数とか、そういうのが、私たちの新しい報酬になったと言ってもいい…新しいかどうかはわからない。ずっと昔から、そういう評価制度はあったので。こういう時代になったから、全ての人々にとっての報酬になった、ということは間違いないが。

ちなみに、最初に紹介した言葉には続きがあるようだ。
「面白きこともなき世を面白く すみなすものは心なりけり」
軽く調べたら、高杉晋作という人の言葉だったようだ。幕末という時代を生きた人。遠すぎてよくわからないけれど、その言葉には共感できる。
面白いと思えることがない世の中を面白くしよう。面白いか面白くないかは心の持ちようだ。
そういう意味だそうだ。
つまらない、つまらないと言っているよりは、何か楽しいことを見つけようと思う方が、きっと見つからなくても楽しい。そんな気がする。

学ぶ

仕事をすべて機械がやることに最後まで抵抗したのは教育者たちだった。
機械に教育することはできないというのが彼らの主張だった。
けれども、今すべてを機械がやるようになって、そんなことやったことがないからわからないだけだったのだと気が付く。

むしろ、どこで暮らしてもどんな学校に行ってもみな同じ教育が受けられるのだ。教師の質が問題ではなくなったのはいいことではないだろうか。教師とてかつては人だった。歳を重ねれば頑固になる部分だってあるだろうし、若さゆえの経験の無さだってある。けれども、教えられる子供たちにしてみたらそんなことは関係ない。子供にとってその1年は、たった一度きりである。それなのに教師の質に左右されていたようじゃむしろ可哀想な気もする。

それに、大人たちも仕事をする必要がなくなったので、自宅で子供たちに教えるようになった。勉強はもちろんのこと、自分たちの趣味や家のこと、子供の頃遊んだ遊びなど、いろんなことだ。調査によればかつての時代よりも親子の会話が増えたとかそんな結果が出たようだ。まあ、仕事をする時間が無くなって、子供が寝てしまってから帰宅するとかそういうこともなくなったのだから当然と言えば当然なのだが。

子供たちは、自分の知らないことを知っている大人たちを尊敬するようになった。教師が機械になったことは人間にとってプラスだったと個人的に思う。機械はなんだって知っている、それは当たり前。逆に大人たちが知らないことがあっても、それは人間だから当たり前。それでも、子供という自分たちより物知りな大人たちなのだから尊敬されるのだ。尊敬されるのは心地よい。少子化の問題が解決に向かっているのは、経済が安定しただけではない。

とりあえず、今はとても楽しい。

2016年10月16日日曜日

自己実現

先日、人の欲求について少し触れた。
衣食住が保証され、社会に所属することを許された人々が、次に求めるのは自己実現だとか認めてもらうことだとかであるということだ。

だから、人々の趣味というものは誰かに評価されたい、評価されて有名になりたいというものが多いように感じる。
仕事する必要がなくなり、自己実現できる場が趣味の世界にしかなくなったのだ。
しかし、趣味の世界というものはくくりが大きく、そして、世界は広い。
会社に所属していたら、そのくくりは思うほど大きくはないのだと、昔の会社のHPを見つけて思った。どんなに大きく立って、中身はいくつもの部署に分かれているのだから、その中で評価されたり何かを実現することは、大きく出なければ案外可能なのだと思う、多分。

けれども、今の私たちにとって趣味の世界は広すぎる。とくに、気軽に始められるものはほかの人だって気軽に始めるのだから、それだけ多くの人がやっている。その中で評価されることはなかなか難しい。
もちろんみんな、妥協点を見つけた。自分のレベルとか自分のやりたいこととかでくくりをどんどん小さくしていく。そうしてみんな、かつての頃のように評価されやすい場を作りだす。そうしていなければ、欲求不満で精神的に潰れていくから。
昔のように、何か一つ生活の軸つまり仕事があって、そして趣味を持っていたのならそんなことはなかったのだと思う。仕事で嫌なことがあれば趣味で発散する、趣味でうまくいかなくても仕事があるから心に余裕ができる。そういう、相互関係が成り立っていた。

だから、最近はみんなさらに考え始めた。そもそも、趣味が一つだなんて誰が決めた?趣味はたくさんあればいい。評価されるために何かを極めなければいけないと思って、みな一つに絞っていたけれど、それじゃ逃げ場がない、そういうことに気が付いたのだ。
かつての仕事のやり方がいつの間にやら、遺伝子にまでしみついていたらしい。
歴史の教科書で読んだ話だが、かつての世界では多くの人は仕事は一つしか持たなかったらしい。別のことをするのは副業とか言うのらしいが、規則で禁止されてたりとかしたらしい。職業選択の自由は何処に行っていたのかしら。さらには、仕事人間なる、仕事のために生き、趣味さえ持たない人がいたらしい。その人たちは、何かミスをしたりして逃げたくなったときどこへ逃げたのだろう?

私はとりあえず、絵を描くことにした。紙とペンさえあれば、描けるもの。
他の趣味は…あとで考えよう。

2016年10月15日土曜日

趣味を持つ

趣味は千差万別

私は昔、ゲーム売り場に行ってゲームのパンフレットを集めることを趣味にしていた。
持っていないゲーム機のモノも何でもかんでもすべてである。
未だに戸棚にたくさんのチラシやパンフがしまわれている。
なんでそんなことをしていたのかというと、最近は資金難かなんなのか、だいたい紙一枚かいろんなゲームをまとめて一冊の冊子にしたものか、はたまた、何も用意されてないか、そんなことばかりだが、以前は作品によっては結構凝った作りをしたものがあったりしたので、見ていて面白かったからである。
とくに、PS2なんかはゲームのスリーブ型になっているタイプがあって、野球ゲームなんかは当時の12球団全部が用意されていて面白かった。

あとは、雑誌投稿もしていた。
とあるゲーム雑誌の投稿ページが好きでイラストなんかを投稿していた。どういうネタが載るのか?どういうイラストなら載せてもらえるのか?を考えながら描いてポストに投函して、月刊誌だったから次の月を楽しみにする…最近はpixivなんかがあるので、せっかく描いたのにすぐに見てもらえないどころか、ボツのまま見てももらえないなんてどうなの?と思う方もいるかもしれないが、雑誌に載ることを目標に描くのはなかなか楽しかったし、常連さんの話題を見るのも面白かったし、何となく顔をあわせたことも話したこともないけど、投稿者たちには親近感みたいなものを感じていた。

最近は、時々だけど手芸なんかもする。多分ものを作ることが好きなのだ。だから手芸に限らず、棚が欲しければ自分で板を買ってきて作ってみたりするし、トレース台が欲しかったらちょっと工作してみたりなんてこともした。

私がやるだけでも、まあまあ種類がある。
でも、世の中にはもっといろんな趣味がある。
「趣味」と検索すればいろんな趣味が紹介されていて、見ているだけでも楽しい。

趣味を持つこと

ネタを集めるうえでも、趣味を持つことは重要だと思う。
私は以前ゲーム業界に興味があったので、クリエーターのインタビューをのぞいてみたりしていた。
そこで、ゲームクリエイターになるにはどうしたら?と聞かれると、だいたいゲーム以外の経験をいっぱいしてください…という趣旨の発言が出てくる。
子供の頃は、これがよくわからなかった。
ゲームを作りたいなら、ゲームに詳しくなければいけないのでは?と思ったのだ。
ところが、ネットでゲーム業界への就職情報なんてのものぞいてみると、ゲームばかりしていた人は落ちるとかそんなことまでまことしやかに書かれていたのを見た。

でも、それは正しかったのだとしみじみ思う。
人は、経験したり知識を得たり…つまり、知っていることから発想する。
ゼロから生み出した知識は、多分存在しない。
何処から出てきた!?と思うような発想も、私たちには思いもつかないような知識の組み合わせによって生み出されたものだったのではないか、と思う。
だから、ゲームばかりやっていてはだめという発言になるのである。
ゲームばかりやっていたら、ゲームの知識しか得られないので、真似したつもりはなくても真似みたいなゲームしか作れなくなっていくのではないだろうか。

趣味をいくつも持つということは、それだけネタの選択肢が増えるということなのだ。

とはいうものの…

新しいことをはじめるのは、ちょっぴり不安である。
準備もいるし、お金がかかることもある。
だから、ついつい億劫になってしまう。

でも、興味があるものなら意外とそういった不安を飛ばして始められるものでもある。
今じゃ工作だとかそういう感じのものはちょっとお試し…なんて感じで100円ショップで揃えられたりもするし。
いきなり難しいことをするよりは、つまみ食いしつつ、その中でより興味を持ったものを続けていく方がいいのかも。

一つのことを続けるのも、ネタにできる経験をためられる…と思う。

2016年10月12日水曜日

仕事は娯楽になった世界


仕事は娯楽


2112年、仕事はついに娯楽となった。人々は働く必要がなくなったからである。
全ての仕事は機械にとって代わられた。市民はただ、機械が生み出す利益を分配されて生活している。
ゆえに人々は、365日をいかに過ごすか考えなければならなくなった。一週間の大半を占めていた労働時間がなくなったのだから、悩むばかりである。そして怠惰に日々は過ぎていってしまう…

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...