2017年5月31日水曜日

缶バッジ作りました。

最近は、いろんなグッズがデータさえ用意できれば作れるようになりました。
pixivfactoryなんて製作用のデータを作らなくても、一枚イラストを用意したらいろんなグッズにできちゃう。
なんとも便利な時代になったなぁと思いました。

さて、今回は缶バッジを作ってみました。

ちょっと立体感があるだけでも、見た感じ変わりますね。
ちなみにこちらは、「カメラのキタムラ」で作ってもらいました。
一部の店舗のみですが15分ぐらいで作ってくれます。
pixivfactoryみたいに画像さえ用意してあれば製作用のテンプレートもあるので簡単。
ネット注文できないのが難点ですが…
でも、大量生産するのには向いてないけど、1、2個ぐらい欲しいなってときは当日できちゃうので便利。
カメラ屋さんなので写真用紙に印刷してますから、印刷も結構きれいです。
ショッピングモールなんかにあるとこだと、他の店で買い物してればできちゃうから待ち時間も気にならない。

↑こちらで詳しく紹介されてますので興味のある方はどうぞ。
できる店舗の検索もできます。
ちなみに料金表の値段にプラスプリント代金かかりますのでご注意を。

テンプレートが用意されていると言いましたが、こちらは缶バッジをネット注文できる業者さんの所の54㎜用テンプレートで調整して持っていきました。
そのままだと拡大されて印刷されちゃうので、調整したものを89mm×89mmのキャンバスに張り付けて持っていけばOK。
プリントサイズはましかくで(”フチなし”じゃないと縮小されちゃうので注意)
ちなみに自動補正かかるので画面で色味を確認してくださいね。

こうして、ただ絵を描くだけじゃなくて形になるとより楽しいですね。
自分の絵が、売ってるグッズみたいに加工されるてのは面白い。
何か、形にしようという目的があると筆が進みます。
やっぱり、目的とかこうしたいっていうのがあると、やる気も変わりますね。
絵を描くのが大好きだ!ってタイプならそういう目的はいらないのでしょうけれど、私は絵を描いて何か作りたいタイプなので。

絵を描こうだと何も思いつかないのに、缶バッジにしようと思うと案外描けることに最近気が付きました。
自分がどういうタイプか見極めるのに、いろいろやってみるのもいいかもしれません。
全然思いつかない、絵を描くの本当は好きじゃないんじゃ…と悩むよりいいかなと思います。
実際、学生の頃はそれですっごく悩んだので。
楽しければ、それが正しい。

2017年5月28日日曜日

ARMS のびーる体験会プレイしました。

6月16日発売の「ARMS」昨日今日と体験版が遊べるとのことでさっそく遊んでみました。
普通のコントローラーでも遊べますが、やっぱりここはジョイコンでプレイです。
毎回一時間という短い時間でしたが、テンポよく対戦が決まっていくのでたくさん遊べました!
(ちなみに、今日は21時27時にもプレイできるので気になった方はぜひ)

ちなみに私、格ゲーは割と好きな方なんですが、ただ、どうしてもコマンド入力が苦手で…
ストリートファイター2とか昔遊んだんですが、説明の通り入力してるはずなのに出したい技がいっこうに出せない。
そんなんじゃ全然勝てないから面白くなくなるので、だんだん遊ばなくなっていました。
だからこそ、期待していたのです。

格ゲーというと反射神経の戦いみたいな、すごいスピードを要求されるようなイメージがありますが、このゲームはパンチがゆっくりな感じ。
だから私のような、ガードが上手く決められないから一切ガードしないとかやってた人間でも、ガードが上手くできたり、カウンター決められたり楽しかったです。
考える余裕ができる感じですね。
戦略が考えやすいから、とても楽しかったです。
パンチが伸びるから、基本的に相手との距離があるんだけどだからこそ、相手の動きもよく見える。
考えながらもジョイコン操作で直感的に動ける感じが楽しかったです。
焦るとついつい連打してしまったりしますが(笑)

迷ってましたが、これは買いですね!

さて、今回これで遊んでみて、SwitchはWiiの進化系であることを強く感じましたね。
Wiiといえば、体感ゲームってぐらいリモコン型のコントローラーを振るCMの印象は強かったと思います。
「ARMS」はWiiがあったからこそ、作られたゲームなんだと思いました。
体感ゲームをここまで仕上げてきたか!って感心しちゃいました。
ちなみに、ARMSに期待してたのは、日ごろの運動不足も解消されるかなってとこもありました(笑)
体感ゲームの子供っぽさって、体感ゲームはただただバットを振ったりしているだけで結構面白かったりするから、遊びとしてあまり練られていない部分があるところかなと思います。
でも、今回は遊びの部分をしっかり練って作り上げられてるんだなというのをひしひし感じました。
やっぱり、任天堂はそういうところが上手いなーと思います。
発売日が楽しみです!

2017年5月26日金曜日

ゲームのプレイタイムとプレイ期間

「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」発売してから一か月たらずでクリアしてしまった。
今回のゼルダの伝説は正確なプレイタイムが表示されないので正しい時間は定かではないが、空いている時間を全部費やしたので100時間くらい遊んでしまった。
発売してから一か月足らずでクリアしたことなんてそうそうなかったし、かつ、プレイタイムが100時間越えなんてめったになかったから驚いた。

私は学生の頃、周りの友人がやめられなくて朝まで遊んだとか、100時間以上遊んだとかそういう言葉にすごいなぁと思っていた。
私は、そこまでハマらなかったなと。
とくに一つのゲームにかける時間なんてクリアまでに時間がかかるRPGで60時間が限度だった。

100時間、そこまでハマるなんてすごいなぁとあのころは思っていたのだけど。
今回すごく早く終わらせてしまったことにちょっぴり後悔している。
子供の頃は、親の目もあるしちまちまプレイしていた。
プレイタイムが60時間でも、クリアまでに2,3か月かかっていた。
そのころの方が、もっと、なんというか一つ一つのゲーム内の体験が濃密だったように思える。
それは子供だったからなのか、わからないけれど。
今、周りでちまちまと遊んでいる人がいると、なんだか羨ましくなる。
やれることはあるけれど、一度クリアしてしまうとモチベーションが下がってしまう。
もっと、ゆっくり遊んだらよかったのになと思った。

ゼノブレイドという作品がある。
これが多分私がはじめて100時間を超えたことを意識した作品だった。
意識せざるをえなかったというか。
普段はあまりどのくらい遊んでいたかなんて気にしないのに、気になったのは、このゲームのプレイタイムが記録されるのが、99時間59分までだったのである。
ネットでその情報を聞いた時、でも、私は多分60時間ぐらいでクリアするんだろうと思っていた。
なのに、気が付いたら、カウントがストップしていた。
正確なプレイタイムはさっぱりわからないけど、とにかく100時間は確実に超えている。
私はこのゲームをクリアするのに、半年かかった。
あの半年と、この一か月プレイタイムにしてみたら多分同じぐらい。
だけど、多分、思い入れはゼノブレイドの方にある。
だって、半年の間、そのゲームのことを考え続けたのだから。
プレイタイムに表れない遊んだ時間が確実に存在していた。

そう思えば、60時間だとしても(まあ、それでも近年のゲームで遊んでいる人間からしてみれば長いと思うのかもしれない)少しづつ少しづつ進めていたあの時間は、ハマっていたと言っていいのだと思った。
記録されないプレイタイムが存在している。
ゼルダの伝説は、それに気が付かせてくれた。

2017年5月23日火曜日

「描きたいものがない」

絵を描こうと白い紙を前にして(もしくは画面にキャンバスを用意して)意気込んでみたものの何を書こうか悩んで時間が過ぎる。
もしくは、何となく描きだしていつも書くものと代わり映えのない何かが出来上がる。
そんなことってないですか。
描きたいものを描けばいい、というけれど、その描きたいものがないんだよと思うわけで。
こういう時どうしたらいいかネットでちょっと検索なんかしたら、落ち込むばかり。

称賛されるために描いてるんだろ?だから、本当は絵を描くことなんか好きなんかじゃないんだ。

そういうコメントが書かれている。
だから、本当は好きなんかじゃないのかな…なんて悩んでいた時期もあった。
今も描き続けているけれども。

さてさて、どうして描きたいものがなくなるのだろう。
描き始めたころはきっとたくさん書きたいものがあったはずなのに。
いろいろ理由があるのだろうけど、いくつか考えてみた。

まずは、他人の目を気にすること。
ほら、称賛されたいんじゃん…確かにそうかもしれない。
けれど、他人の目を気にするのは何も称賛されたいからだけじゃない。
絵を描くということは、己の内面を露わにするような行為だ。
反映していないと思っていても、少なからずそうなのだ。
他人との交流があれば、人にどのように見られているのか気になる。
やっぱりいい人に見られたいと思ったりする。
それが作品にだって適用されるのだ。
批判されたくない。
だからこそ、人の気に入りそうな題材で描く。
こういう風に描いているとき、気に入ってほしい人が少人数ならまだ大丈夫なのだけど、ネット上のあらゆる人に嫌われたくないとなると難しくなる。
好みなんて千差万別だからだ。
そうなると、何も描けなくなる。
しかも、誰かを基準にしていると、もっと困ることがある。
人の好みというものは変わるのだ。
昨日まで好きだったものが今日はあんまり…なんてことだってある。
その人の中にはそうなるプロセスがあったのだからわかるけれど、常に24時間一緒にいるわけじゃない他人である自分にはなんでそうなるのかわからない。
なんで、なんでと思っている間に、開き直って自分が好きなものを描こうとすると、自分がわからなくて結局何一つ描けなくなる。
だから、描きたいものがなくなる。

もう一つ。
似たようなものだけど、これは描けない、あれも無理、と今の自分のレベルで描けるものしか書かないようにしていたために、難しい題材を思いついても描けないからはじめから思いつかないように無意識にセーブしていることだ。
誰だってはじめは描けない。
でもだからって、半年後、1年後にも描けないのかと言ったら、それはわからないのだ。
練習すれば描けるようになるかもしれない。
でも、練習しないで今の自分に描けるものだけ描き続けていたら、無意識にもそれ以上を描こうなんてしなくなる。
たまに思いついても、無理無理と諦める。
そして、今の自分に描けるものは描きつくして、飽きて、描きたいものがなくなる。

上で上げた二つにある共通点。
それは、禁止していることだろう。
他人に好かれたいがために描くとき、それが自分の好みと一緒ならばいいのだけど、対して好きじゃない場合、そしてそれがあまり受けなかった時、私は思ったのだ。
せっかく好みの絵を描いてあげたのに。
自分が好きなものはセーブして、描いたのに。
頼まれたわけじゃないのに、そんなことを思ってしまう。
何故なら、描きたいものを描くことを禁止していたからだ。
もう一つも描けないものは描かない。それ自体が禁止だ。
だめ、ダメ、駄目、とやっているうちに、いろんな思考が禁止されていく。
だから、「描きたいものがない」状態になる。

そこから抜け出すには、多分、上手い下手も、誰かに好かれることも気にしないで描ける環境が必要なんだと思う。
否定されない、全部受け入れてもらえる。
そこならば、のびのびと描けるはず。

禁止はやめよう。
禁止してきたのなら、逆に考えたらいい。
まだ、やれることがたくさんある。
いろいろやってきたのに、まだできない…なんて悩んでいる人とは違う。
やってこなかったことが多いなら、まだ、できる。

2017年5月22日月曜日

私が絵心教室を続けられない訳

絵画教室とかイラスト講座とか受けたい!なのに…

そういう思いがあれば、絵心教室というソフトはかなり魅力的なはずなのだけど、どうしたわけか途中でやめてしまう。
学生の頃、はじめてこのソフトに触れた時、なんでこういう風に教えてくれなかったんだ!と思ったのに。
私が知りたいものを教えてくれる、ステキなゲームだったのに。

とはいえ、やはり続けられない人は多いらしい。
まあ、高い授業料を払って通信講座を受けても続けられない人がいるのだから、きっとそういうものだと思うことにする。
とはいえ、なんだかもったいない。
逆に、何があれば続けられそうか?を考えてみた。

評価が欲しい。

これに尽きるのではないかと、私は思っている。
このゲームには、たいていのゲームにある行動に対する結果への評価がない。
たいていのゲームは、例えば敵を倒すという行動をした場合、レベルや技術が低ければ敵に敗北する=失敗という評価がつくし、勝てば成功、うまく戦えばよりいい評価がもらえるようなゲームだってある。
それに対して、絵心教室は出来上がった作品に対してゲームの側が評価をしない。
これは初心者や一度嫌になって辞めた人に対しての作りであると思う。
初心者でもそれなりに描ける題材を用意しているのは、自分でもここまで描けるんだという達成感を味わってもらうため。
見本には及ばないけどなかなかうまく描けたぞ!と思っているのに、ここはもっとこうした方がいいなんて言われたら、うまく描けたと思ったのに…とちょっと嫌になる。
もう一つは、手順を示していても、自由に描けることが評価することへの障害となる。
先生はこう言ってるけど、僕はこうしたい、なんて思って生徒がやったことを絵画教室の先生だったらうまく評価できるんだろうけど、ゲームというのはプログラムでできているのだから、相当、人がどういう手順を踏むか?何をしようとするか?を考え組み込まない限り、お手本と似たような絵が描けなければ、プログラム上失敗と評価する以外ないのである。

でも…

評価が欲しいのだけど、酷評されるのは怖い。
怖いというか、下手だ下手だと思っているからだろうか、もう全否定されるビジョンしか浮かばないのだ。
多分まだ、批評されることに慣れてなくて、アドバイスぐらいのものが欲しい。
そう思っているのだと思う。

このゲームをやって、そして、どうして学校ではこういうことを教えてくれなかったのだろうと思う人は、多分、もっと技術的なことを教えてほしい人たちだったと思う。
遠い昔の記憶でしかないが、図工や美術の授業って、自由に描きなさいと言われるのが大半だった気がする。
そして、アドバイスもない。
ただただ、学期終わりに理由がわからない通信簿の評価を受け取る以外ないのだ。
アドバイスが欲しければ聞けばいいと思うかもしれないけど、何を聞いたらいいのかさえわからない。

対策

できることは、そういうものが欲しいのなら、とにかくネットにあげることだ。
仲間で集まれるのなら、実際に集まって見せ合うのだっていい。
とにかく、見てもらって、コメントを貰えることが一番だ。
改善点を自分で見つけられればいいけど、案外難しい。
客観的視点を持つことは、難しい。

まあ、でも酷いことを言われることがあるかもしれない。
それが怖くてできない人だっているだろう。というか、それが私だし。
怖さを払拭できる場があればいいのだけども…

2017年5月19日金曜日

「聖闘士星矢」がハリウッドで実写化!?

ニュースを眺めていたらこんな文字が…

「聖闘士星矢」がハリウッドで実写映画化!原作・車田正美「かつてないプロジェクト」

遠い昔にSMAPがミュージカルをやっていたのは、数年前SMAP自身が番組で言ってたりしてたわけですが(検索すると当時の写真もあったり)
あと実写化とは直接関係ないですが、2010年版の「タイタンの戦い」に出てくる神々がもとの作品ではそんな恰好してないのに鎧をまとっているのは監督が聖闘士星矢のファンだったからということで車田正美先生がポスター描いてたりなんて話もありました。
実写化となるとあんな感じになるのでしょうか?
とはいえ、よく読んでみると作るは東映と中国の会社の合同で監督さんはポーランドの方だとか。
海外で人気だとはよく聞くんですが、だったら外人から見た星矢ってどんな感じなんだろうとは思うので、これが一つの答えになるのかもしれません。

そういえば、原作者が「かつてないプロジェクト」と言ってますが、車田正美先生はだいたいCG映画にしても朝っぱらにやってた続編アニメにもだいたいこういう感じのコメントを出しているので、本当に期待しているかどうかは一読者には謎です。
ただ、気に入ると自分の作品に取り込んだりするし、エピソードGという他の作家さんが描いた派生作品があったんですが、その作者にはぜひもう一度とまた今エピソードGAという漫画を描いてもらったりしているんで、好みははっきりしていますし、インタビューなんか見てますと、提案する側が原作寄りの提案をすると、もっと自由にやっていいよって言ってるらしいので、まあ、何というか守りたいイメージははっきりしつつも、そこさえ逸脱していなければ、ぶっ壊しにかかっても構わんぐらいの人なんだなという印象はあります。
私としても、これは個人的な意見ですが、原作の設定を大事にしすぎて守りに入ってる作品より、聖闘士星矢としてのラインを守りつつぶっ壊しにかかってる作品の方が読んでて面白いんですよね。
ぶっ壊しにかかってるというとなんかあれなんだけど、作家性を色濃く反映しているというかなんというか。

エピソードGをはじめて読んだとき、すごく衝撃的だったんですよね。
絵にすごい癖があるし、車田正美先生の描くものとはだいぶタイプが違う作家さんなのに、一巻を読んでみて、これ、聖闘士星矢だよと思った瞬間がすごい衝撃でした。
NDという原作者自ら描いてる続編があるんですけど、あれなんか読んでると、こりゃ車田先生にしか描けんわと思うから余計に思うんです。
何もかも違う気がするのに聖闘士星矢。
ビックリしました。
だから、逆に先生が求めているのはこういうことなのかなとも思ったのです。
同じものは生きてきたバックボーンが違う以上描けない。
その代わりに、君が作品から読み取った君の聖闘士星矢を描けばいい。
そういう風に思ってるんじゃないかなと勝手に考えています。
その方が多分先生も面白い。
だって、自分の考えをトレースされても、それじゃ自分の想像の範囲内の作品しか見れないんですよね。
そこで、トレースしてきたのに微妙な違いがあると、そうじゃないんだけどなぁと思ってしまう。
自分とは違う何かを見せてほしい。
刺激してほしい。
もちろん、譲れない部分もある。そこは、ダメだっていう。
こうも、まあ、いろんな展開があるのは、作者が寛大というか好きにしてくれ、でもここは譲れないとはっきりしてるからなのかなと思いました。

さて、実写化どうなるのでしょうか?
多分早くても数年先にはなるでしょうから、それまで楽しみにしています。

2017年5月12日金曜日

絵を描く手間

イラストを描くのが好きだ!と言う人でも、背景は苦手…という人は多いんじゃないかなーと思う今日この頃。
私も苦手です。
描かなくていいなら描きたくない。
だって、パースとかわからないし、細かいし!
人を描くのだってルールとかコツとかあるんだけど、多分何となく描ける部分が多い。
(それをそのまま続けててもうまくはなれないんだけど)
でも、いざ背景を描くとなると何となく描いたらなんか違う。
いっそない方がマシってぐらいになんか違う。
そんな気分になることありませんか?

そんな私の子供の頃にキッドピクスというソフトがありました。
子供向けの絵が描けるソフトなんですけど、いろいろ面白いスタンプが用意されていました。
それらを組み合わせるとなんかいい感じに絵になったんですよね。
だから、子供の時思いました。
コンピューターがあれば、すごい絵が簡単に描けるに違いない、と。
でもでも、今でもイラストは手書きとかわらないような方法で描かれている。
確かに便利な機能があって、手書きより簡単になった部分は多いけど。

最近フォトバッシュというのがあることを書店で参考書を見かけて知りました。
写真を組み合わせて背景を描く手法だそうです。
海外では結構主流の技術らしい。
すごいなと思ったのですが、ふと昔、高校生だった頃のことを思い出したのです。
地区の美術部の展覧会がありました。
そこに写真みたいな精巧さで描かれた絵が飾ってありました。
おおすごいなと思ってみてました。
さて、この展覧会では審査が行われます。
そこで何やらざわざわと大人たちがしていました。
あとから顧問の先生に聞いたのですが、写真見たいな絵は、まさに写真を下にして描いていた。それはどうなんだ?と議論になっていたようです。
写真を拡大コピーして組み合わせて張り付けて描いていたようです。
それを聞いたら、ずるいと思いました。
だって、写真を参考にするにしたってそれを見ながらキャンバスに一から描いていくのが正しい。張り付けて楽するなんて卑怯だ。
そう思ったのです。

でも、楽できるのに苦労をする。手間をかける。その意味はなんなんだろうと今は思いますね。
写真を下にした子は、キャンバスにああでもないこうでもないと下書きする時間をなくして、作品を丁寧に仕上げられる時間をえられたわけで。
だからこそ、ステキな作品になっていたともいえます。
私は、背景を描かずに済ましたくて素材を使ったり、写真を加工したり…
あのころの自分が見たら何してるんだ!ちゃんと描け!と言われるようなことばかりしてます(笑)
でも、結局完成品のクオリティが大事なんですよね。
実力が伴ってないのにすぐに期待する奴だったので、自分の描いたつたない絵がなんとか入賞しないかな~なんて飾られている作品のクオリティと比べて低いのに思ってみたりしていて、そんなんだから写真を下にした絵もずるいなんて思っちゃったりして。
今思えば、入賞しないにしてももっとしっかり描くべきでした。
ちゃんと絵に向き合っていなかった。そっちの方が問題だった。
向き合えなかったのは、自分の思い込みもあるのだけど、その話はまたするとして。

できる楽はしたらいい。
手間を省いたっていい。
楽して手を抜いて雑になるのはダメだけど、作品のクオリティをあげられるなら一から全部自分の手で作らなくていい。
だって、結局作品がすべてなんですもん。

2017年5月6日土曜日

ご当地グルメ「富士宮やきそば」

先日ネットでちょっと調べ物をしていたら、どうしてその記事にたどり着いたのかわからないのだけど、「丸亀製麺」は丸亀市となんの関係もないことを知りました。
それで、香川県民からは嫌われているとかなんとか…
ネット上の情報がすべてではないですけど、さすがうどん県。
うどんに対する熱量が違うなぁと思いました。

でも、ふと考えてみると自分にも似たようなことを思ったことがありました。
私の地元は富士宮市。
それを知っている人にも関わらず、なぜかその人に市外のスーパーに売っていた「富士宮焼きそば」をふるまわれたことがあります。
「富士宮焼きそば」ってこういうのだよね、と。
B級グルメ「富士宮焼きそば」は聞いたことがある人もいるかと思います。
昔、電車に乗っていたら旅行客だろう方が「麺がゴムみたいだった」なんて言っていたように、麺に特徴があります。
市外のスーパーに売っていたのは、どこかの会社が作った、その麺の作り方をまねたもの。
やっぱり食べなれていたものとは違う。
これを地元の焼きそばと言われるのは、なんだか腹立たしい。
多分きっと香川の人たちが思うのもそういうことなんだろうなと。

そういえば、もう一つ昔ネットで見た記事がありました。
地元の人が食べない地元飯的な記事に、「富士宮焼きそば」も入っていました。
多分、B級グルメとして売り出すにあたって定義された「富士宮焼きそば」は食べていないんじゃないかなと思います。
ただ、富士宮で焼きそばの麺を買おうと思ったら、その麺しか売ってません。
売っているのかもしれませんが、目立つところに陳列されているのはゴムみたいな麺だけ。
だから、昔から焼きそばの選択肢はそれしかなかったのです。
麺が柔らかい焼きそばを食べないことはないです。
カップ焼きそばの麺は柔らかいですし。
ただ私は、カップ焼きそばの麺は柔らかいものなのだと思っておりました(笑)
「富士宮焼きそば」と言われるようになるまで、焼きそばというものは世間一般そういうものなのだと思っていました。

さてさて、なんで焼きそばの話になったのかというと、今日の昼飯が焼きそばだったのでした(笑)
肉カスと呼ばれる、ラードを絞った搾りかすを油で揚げたものが私は好きで、ときどき食べています。
お外で食べるとイカが入ってて、ちょっと嬉しい。

地元のお店だと、ホルモン焼きそばなんてのも売ってます。これが美味しい。
GWも終わりですが、機会があればお立ち寄りしていただけると嬉しいです。
うどんの話に戻るけど、おいしいうどんが食べたければ香川までこい!っていう感じのコメントをたくさん見ました。
富士宮焼きそばも、外で食べてもいいんですけど、多分やっぱり自然な味?というか、昔ながらの味は地元にあるんだろうなと思いますね。

ゲームでしか描けない物語「バテンカイトス」

「バテンカイトス」というゲームをご存知でしょうか。
2003年にGCで発売されたRPGです。
GCで発売されたので、やったことがない人の方が多いんじゃないかな…
PS2だと読み込みが遅いから発売できなかったんですよね。
おかげでマイナー作品…いやでもこれがあったからこそ、モノリスソフトが任天堂に来て、ゼノブレイドができたわけなんですけど。
PS2で出ていたらいろんな作品の中に埋もれて、気が付かなかったかもしれないし。
新規作って子供だった私には数あるソフトから選んだのに面白くなかったら?と思うと買えなかったけど、テイルズオブデスティニー2についていたアンケートハガキを送ったところ、夏ごろにナムコから体験版が送られてきて、そのカードゲームっぽい戦闘システムが面白くてこれは買いだ!と購入した思い出のゲームでもあります。
Switchで配信されないかなーと密かに思っております。
というか、3を開発してたりしてませんか!?

さて、このバテンカイトス。
このゲームはストーリーはゲームならではという感じに作られています。
小説や映画、アニメとは違う、自分で操作してこそというストーリー展開。
どういうことか、説明していこうと思います。
ネタバレを含むので一応注意。

プレイヤーとキャラクターの関係

ゲーム上で操作するキャラクターはたいていの場合、プレイヤーの分身ですよね。
キャラクター付けが濃いものに関しても、感情移入できるかどうかは別としてゲーム上でプレイヤー自身の代わりにゲームの世界に触れる存在です。

ところがこのゲームにおいては明確にプレイヤーの存在が設定されています。
プレイヤーは主人公であるカラスという青年を操作しているのですが、カラスは決してプレイヤーの分身ではありません。
このゲームの世界には精霊という存在がいます。
プレイヤーはこの精霊という登場人物の一人になるのです。
プレイヤーは、精霊憑きというこの世界でも珍しい精霊の声が聞こえるカラスについている精霊という設定になっています。

ゲームを進めていくとき、カラスは何度も精霊に助言を求めてきます。
他のゲームで「はい」「いいえ」と選択肢を選ぶ場面が出てきたとき、それを選ぶのはプレイヤ―ですがゲーム内では主人公たちが選択したという体で話は進んでいきますよね。
でも、このゲームの場合は精霊である自分自身が選んだことになるのです。
面白いのが、ストーリー上で選択肢を選ぶ場面があるとカラスは必ず画面のこちら側を見るように正面を向きます。
画面の向こう側からこちら側へ問いかけるように。
まさに、このゲームのプレイヤーとキャラクターの関係は、ゲームを遊んでいる姿そのものなのです。

この設定の作り方こそ、ゲームにしか描けない物語なんだなと思いました。
こちらの操作に対して反応が返ってくるゲームだからこそ、描ける物語です。
漫画やアニメの場合は、こちらに関係なく話は進んでいきますから。

また、キャラクターの設定もうまい。
カラスは斜に構えたキャラクターなので、人助けも周りに言われたから嫌々やるような、自分の目的一番なタイプ。
だから、はじめはプレイヤーの選択とカラスの考えてることって一緒じゃない。
物語中盤、決定的に違っていたことに気が付く場面がでてきます。
なんと、彼に裏切られ、ゲームの世界から追い出されてしまいます。
画面が真っ暗になってしまうので、え?これどうすんの?終わり?と思ったのを覚えています。
その後、他のキャラクターが呼び戻してくれ、いろいろあってもういちど彼と旅をすることになるわけですが…
だけど、だんだん遊んでいくうちに感情移入して、カラスの選んだこと=プレイヤーの選択になっていく(ただし、全員がそうとらえられるかどうかは定かではありませんが)
ストーリー後半になっていくと、それまで何でもかんでもこちらに聞いてきたカラスがだんだん自分でこうしたいとこっちに聞かないで決めていくようになるんですよね。
でも、世界を救いたいというようなそういう思いで動き出したので、私としては彼の選択に違和感がなくむしろ一緒に戦っている仲間としてその選択を尊重したい、そう思えるようになっていました。

でも、ラストであれ?と思うわけですよね。
感情移入して、精霊とカラスという別々の存在だった関係がいつの間にか、他のゲームと同じくプレイヤー=主人公になっていたのに、やっぱり違うことに気が付く。
選択肢が減っていたとはいえ、一応こちらに大事なことは聞いてきていたのに、ラストでは逆に自分の選択に同意を求めてくる。
エンディングでは、こっちの世界はもう大丈夫だから、お前の世界で頑張れ、つまり現実で頑張れと手をふって別れる。
漫画やアニメでも、楽しんだ作品はもっとその世界を知りたい、見てみたいと思うものだと思います。
ゲームでも、終わった後もその世界でこのキャラクターはこういう風に生きていてと想像するのが楽しい。
でも、このゲームでは登場人物の一人だった精霊=プレイヤーはその世界にはとどまれずに追い出されてしまうのです。
さわやかーに終わるんだけど、なんだか、寂しさがつのったのを覚えています。
漫画やアニメでも、キャラクターがまるでこちらに問いかけているかのように終わらせる作品もありますが、このゲームの場合はっきりプレイヤーに向かってしゃべってるんですよね。
なんだか、舞台の挨拶のように横並びにキャラクターたちがならんで、エールを送るかのように一言一言。
現実逃避的に遊んでいたものだから、せっかくのエールがなんだか痛かったのです。
もっとそこにいて良いと言って欲しかった。
そんな思い出の作品です。

プレイヤーという存在をはっきりと定義した、そして定義できるゲームという媒体だったからこそ、紡げた物語だったなと今でも思います。
双方向性のあるものだからこそのストーリー。
ゲームにしか描けない物語がそこにありました。

2017年5月4日木曜日

ポーズ集の思い出

イラストの練習にと、写真のポーズ集を買うことがたまにあります。
なかなか難しくて活用できてないですが…
いきなり二人とかで買うからいけないのでしょうか。
でも、やっぱりいろいろ描けた方が楽しいと思って、遠い昔に買ったポーズ集を引っ張りだしてきました。

さて…引っ張り出してきたポーズ集なんですが。
「3つのアングルから見る ヌードポーズブック」というものです。
イラスト練習のためだ!とは思うものの、やっぱりヌードって気恥ずかしくて。
何度も本屋で手にとっては戻すを繰り返してようやく買った本です。
レジに出すときも違う本を上に重ねてお会計してもらいました。
まったく表紙からヌードのお写真が使われているので、なんとも気恥ずかしくなりました。
ところが…

何ととあるページが破られておりました

ようやく手にできてほっとして、そこまで来るとなんだかワクワクした気持ちで帰りの電車を待っていたのですが、ふと袋からのぞく本の上側に違和感を感じました。
なんだかわずかながら空間があるのです。
あれ?と思って周りに人がいないことを確認して開いてみると、ページが破りとられた跡が。
もう、ビックリ。
慌てて本屋に引き返しました。
気恥ずかしさを投げ捨ててようやく買ったというのに…
もう、そこまで来ると恥ずかしさもどこかに行っているのでレジに置いて破られてることを伝え、交換していただけることになりました。
在庫がないから後日取りに行くことになりましたが。
まったく、そういう万引きをする人がいるとは思いませんでした。

後日取りに行って、破りとられていたページを見て何となく察しました。
ああ、エロいものが描きたかったんだな…と。
女性が腰を持ち上げつつうつ伏せに寝そべってるお写真が、どうやら破りとられていたみたい。
他のポーズと組み合わせたら、まあ、そういうポーズになりそうなお写真。
欲しいなら、ちゃんと買ってくれ。

アニメーターさんが1000体デッサンをかけ!と申していたので挑戦しようかと思い、ポーズ集を引っ張り出してきてふと思いだしたのでした。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...