2017年4月28日金曜日

早起きは三文の徳は本当だった

早起きは三文の徳と昔から言う。
ちなみに三文って今の価値にするとだいたい90円ぐらいらしい。
90円ぐらい得するぐらいなら寝てた方がマシ…と思うぐらいには寝不足な人も多いだろうし、私だってそう思う。
実際、休みの日は気が付くとお昼前だったりする。
でも、ぐっすり寝てたはずなのに疲れも取れてない気がするし…

そんな私が、ひょんなことから毎日早起きすることになったのだけど、早起きの90円がとんでもなく価値がある気がしてきました。
早く起きるようになった分、夜も夜更かしできなくて寝るようになって、実質起きている時間は同じぐらいのはず。
なのに、朝早く起きると一日の充実感が違うのだ。
まず、やる気が湧いてくる。
お昼前に目が覚めて昼飯を食べて…なんて時と比べたら自分比だけど全然違う。
お昼に起きると、何となく前日にあれやらなきゃ…とか思っていても、まあ後でいいかと先延ばしにしてしまう。
何となくやってみたかったことだったりすると、一向にやり始める気が起きない。
だけど、朝早く起きてみると(と言っても7時半ぐらいだ)朝少しのんびりした後、さあ、始めるか!という気分になっているのだ。

これは自分でびっくりした。
家の前の花壇が荒れ放題だったので、何か植えようかなとか考えていたものの、さほど切迫しているわけでもないので延々と先延ばししていたのに、朝早く起きたら、お店が開く時間も過ぎたしと出かけてみたのである。
今では、ささやかだが多少みられる花壇になっている。

それに、眠たくて寝ているのだけど、やっぱり起きるのがお昼前というのはなんだか罪悪感みたいなものを感じてしまう。
それを続けていると、だんだん自分はダメなやつだななんて気分になってしまっていたことに気が付く。
早起きしていると無意識にそれが払しょくされる。
多分それがやる気を出すのを促しているのだろう。

90円だって積もり積もればかなりの額になる。
実際のお金にはならないけど、それぐらいの価値になるのかもしれない。

あ、誰か、毎日早起きすると90円ずつ溜まっていくくだらないアプリとか出しませんかね(笑)

美女と野獣見てきました。

実写版「美女と野獣」

吹き替えしかやってなかったので吹き替えで見てきました。
ミュージカル風なのが、やはり海外っぽいですね。
アニメは遠い昔に見たきりなのであまり覚えていなくて、イメージの大半はキングダムハーツとアメドラのワンスアポンアタイムでしたので懐かしいような新鮮なような気持ちでした。
ちょっと野獣の声が高いというか軽いというか?なんて表現したらいいかわからないけど、見た目と合わなくて気になったけど、まあ中見は王子様ですからな…

衣装と空気感

海外のファンタジーを見ていると、実在していそうな空気感がステキだなと思います。
セットやCGであるはずなんだけど、ちゃんと生活している感じ。
こういうのはやっぱりお金をかけただけそれっぽく見えるので、日本の実写ファンタジーはまだまだ追いつかなさそうな気がします…
上でちょっと名前を出した「ワンスアポンアタイム」もドラマなんだけど、CGも衣装も凝っています。
これは外国人だからっていうのもあるのでしょうかね…今だってああいうドレスを着ることは貴族の生活にあるかもしれませんし。
あと、着古した感じがありましたね。
野獣も衣装も、普段着ているのは襟の部分が擦り切れてる。
そういう細かい部分が、世界の雰囲気、空気感を作り上げるんだと思いました。

アニメそのままじゃないデザイン

ベルはアニメだと青いワンピースに白いエプロンとシンプルな恰好ですが、実写になるとイメージはそのままにいろんな装飾の増えたデザインになっています。
一度コスプレ衣装を作ったことがあるので思うのですが、アニメのデザインそのままっていうのはなんだか作り物感があるんですよね。
なんというか…コスプレ衣装ならそれでもいいんですけど、映像で出されるとコスプレ感が半端ないというか。
日本の実写版でなんだか違和感があるのってそういう点だと思うんです。
いくら忠実に衣装を再現したってダメなんですよ。
アニメや漫画は、どうしても絵は記号化されているわけですから。
別にアニメと同じでもいいんだけど、それをするなら背景から何から全部それに合わせて作り込まないと、結局”浮いてる”状態になってしまうんです。
一つ一つを作り込むのも大事だけど、それを一つにまとめることもすごく大事。

ディズニー映画の実写がそれなりに受けるのは、やっぱりそういう統一感があるからなんじゃないだろうかと思います。
似せるべきは、雰囲気。

2017年4月16日日曜日

小さな成功の積み重ね ココナラに出品してみて

ワンコインマーケット「ココナラ」

「ココナラ」というサービスをご存知でしょうか。
web上で取引が完了するような、例えば、旅行プランの提案だったり、ロゴマークの製作だったり…それらがワンコインで販売したり、購入したりできる、そういうサービスのサイトです。
イラストのサービスを出品している人も多々いて、私も出品しています。


ちまっとかわいいアイコン描きます SNSでかわいいアイコンが使いたい!そんな方におススメ。

こんな感じ。
とくに宣伝はしなかったので、出品しはじめたころは購入する人がいるんだろうか…と思ったけれど一年で10件ほど依頼があってビックリ。

なんでびっくりしたかというと、出品するときもこんなイラスト需要があるのかしら…とおっかなびっくりだったんですね。
自分の描くイラストに自信がなかった。
二次創作で描いていても、周りを見ればうまい人ばかりだし、やっぱり描いているキャラクターの需要も込みでの評価だから人と比べてついつい下手だな…と思ってしまうのです。

上のイラストを見ていただければわかると思いますが、私の描く絵はデフォルメがききまくった絵なんですよね。
学生の頃、絵を見てコロコロコミック好きそうだよねと言われたこともあります(実際好きだった)
コロコロコミックってネットで意見を拾っていくと、絵だけの評価ですが下手に分類されちゃう絵なんですよね。
上手いとされるような緻密な絵は描けない。それだけで、自己評価だだ下がり。
好きなはずなのに、これが好きなのは見る目がないのか…?とちょっと悩んでしまったり。
そんなこんなで、絵に対するコンプレックスがくすぶっていたのです。

人目に触れること

それでも、あえて出品してみたのは理由があります。
少しでも成功体験というのが欲しかった。
買ってもらって、よかったと評価がもらえたら、もう少し自信がつくかもしれない。
そう思ったのです。

人目に触れることで批評される怖さ、何にも依頼がこないことで逆に自信を失う怖さもありましたが、実のところ、下手だ下手だと思っていたにも関わらずきっと大丈夫という思いもあったんですね。

だって、「かわいいは正義」ですからね。
人から見てどうあるかはわからないけど、個人的にこのデフォルメはかわいいと思っていたのです。
それにデフォルメで線も少なくはっきりしてるので、SNSの小さなアイコンにしても目立つからいいんじゃないかなと。
それでも、はじめて売れた時はうれしいのと同時にびっくりしちゃったんですが。

出品してみてわかったのは、案外怖がることもないんじゃないかということです。
もちろん、人目に触れるからこそ批判されることもあるかと思いますが、それほど怖がることでもなかったのかなと。
とにかく、ダメだしされるのが怖かったのです。
それで、学生の時もデザインの課題で教授に見せなきゃいけないのがどうしてもできなかった。
こんなのはダメだ、そうやって否定されてしまうのが怖かった。
多分、そんな全否定はされなかったんじゃないかと今なら思いますが…
でも、依頼で受けてここがイメージと違いますと言われてもあんまり気にしなくなりましたね。
依頼だからでしょうか。自分の好きに作るのではなく、相手が欲しいものを作るわけですから、相手のイメージと違ったらダメなわけですし。

小さな成功を積み重ねて

でも多分、そうやってダメ出しが受け入れられるようになったのは、いくつも依頼を受けることができたから、だと思います。
はじめは、依頼者のイメージに合わなかったらどうしよう…とかびくびくしていましたし、ダメだしされたら落ち込んだりしました。

依頼をこなし評価がもらえたことで、大丈夫なんだと思えるようになったのです。
自分で、これでいいんだ、この絵でいいんだと思い込むようにしていたときよりはるかに早く。
今思えば当たり前です。
下手だと思っていたのに、それでも自分をだますようにいいと思っても、自分の評価なんて信じられません。
外に出してみて、よかったんだとわかる。
そういう体験ができたことはよかったなと思います。

イラスト投稿SNSなんかもあるんですが、そこで評価される数字と感覚も違いますね。
数字が小さいと人と比較して、需要ないなぁ…なんて思ってしまったりしてしまうのに、ここでは依頼数が他と違って少なくても気にしない。
SNSだと何となくでもお気に入りにいれちゃうじゃないですか。
いいなと思ってもあとから見返さないことに気がついちゃったらなんだかむなしくなる。
でも、ここの数字は実際に依頼してくれた数。
ワンコインでも、お金がかかるのに自分のものがいいと選んでくれた数なんですよね。
だから、受け取り方が変わってくるんです。

自信がない…と思う人こそ

外に出してみてはいかがでしょうか。
発見があるかもしれません。
誰かに選んでもらえる、それだけで嬉しいものです。

2017年4月13日木曜日

Javascript勉強中

プログラミングへの苦手意識

プログラミングが義務教育に取り入れられると言われてからというもの、テレビではプログラミングできるオモチャが紹介されたり、小中学生向けのプログラミング教室が紹介されたり…
子供の頃からゲームで遊んでいたので興味はあったものの、すごく難しそうなイメージだったので、中学の技術の授業でプログラムを打ち込むと円を描いたりとかするようなものをやったぐらいであとはプログラミングではないけどHTMLを打ち込んだことしかありませんでした。
子供心にプログラミングしたらやっぱりゲーム的なモノを作りたいのに、中学の授業でやったものをイメージしているとこれじゃゲームなんか作れない、やっぱりああいうのはプロじゃないとできないんだというイメージが出来上がっていたのも理由。
ゲーム開発に難しいイメージが付くと、RPGツクールさえも難しいイメージになってしまっていたので、興味はあるもののお金を払って全然できなかったら…と思って手を出せませんでした。

とはいえ…
最近は無料のツールも充実。
HTML5とJavascriptベースの開発ツールもあるのだと知りました。
だから、プログラミングが小学生にもできるんなら、思っているより簡単じゃないか?と今回思いまして。
「確かな力が身に付くJavaScript「超」入門」という本を買ってみました。
もちろん初めからゲームみたいなものは作れませんが…
チャプターが1から7まである中で、ただいま3章の7まで進めました。
3章は基礎的なことを説明しているみたい。
これが理解できれば多少は遊ぶこともできるのでしょうか。

プログラミングってなんだろう…

プログラムを参考書通りに書いていくのですが、見ながらやっていると時々打ち間違えがあります。
なんで動かないんだ?と原因を探っていたら、手元をあまり見ないでやっていたので、つい日本語を入力する癖でwindowをwindouと打ち込んでしまっていたり。
言葉が通じてなかったわけですね。
こういう作業を繰り返していると、なんだかコンピューターと会話している気分です。

ごめん、単語を間違えた。
ごめん、指示が間違ってた。

間違えるたびにそんな気分です。
でも、正しく理解してもらえて指示通りにプログラムが動いたときはやっぱりうれしい。
それは通じ合えたようなそんな感覚なのかもしれません。

そして、うまく指示を使いこなせたら…
今、遊んでいるようなゲームみたいなものだって作り上げられる。
もちろん最近のゲームの開発規模はとても大きいし何年もかけて作られるから、一人で作るのは大変だけど。
面白いですよね。
もちろんプログラムだけでは作れない。
グラフィックだったり音楽だったりといった、見た目や聞こえてくるものが必要です。
それでも、それらを動かし、遊びにするのは、プログラム。
生きた世界を作っているのが、よくわからない言葉や数字だったりしているのって本当に面白い。
それに、グラフィックや音楽だってデジタルの世界に落とし込むにはプログラミングされたツールが必要なわけで。
プログラムが画面の向こうのもう一つの世界を作り上げているんだななんて気分になりました。

とりあえず、いつかゲームを作りたいという目的の一歩を踏み出してみました。
一歩ずつ確実に進めたらいいなと思います。

2017年4月9日日曜日

発見の面白さ ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド

「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」が発売されてから一か月が経ちました。
プレイ中の皆さまいかがお過ごしでしょうか。
私は、とりあえずラスボスを倒してからやり残しをちまちま遊んでおります。
結構いろいろやったつもりなんですが、遊んでいるとこんなことできたのかと新しい発見があって驚かされます。

最近驚いたことは…新しい馬宿を見つけたことです(笑)
普段は素材が拾えないからと、足で縦横無尽に歩き回っていたのです。
でも、馬宿や住宅に貼ってあるレシピを映し絵に納めるべく、取り残しはないだろうけど街道をちゃんと歩いてみるかと馬で街道を走っていたら…聞こえてくる馬宿のBGM。
これが聞こえてきたとき、なんだかもう笑ってしまって。
まだあったのか!!と驚きと同時に嬉しくなってしまいました。
何もない田舎道でふと明かりを見つけたようなそんな気分でした。
レシピも壁に貼ってあって、やった!って感じですね。
まだまだ、知らないことがたくさんあるんだなーとワクワクしてしまいます。

発見する楽しさ

ゼルダの楽しさって、多分これだと思うんですよね。
謎解きだって、こうすれば解けるというのを思いつくと興奮しますね。
今回はとくに力業でも解けたりして、こんな解き方間違ってるんだろうなと思いつつも思いついたことに嬉しかったりして。
私は、アニメや漫画なんかでもここの描写はこういうことを言ってるんじゃないか?とか気がついたりするのが楽しいんですが、やっぱりゲームだと自分で操作して見つけ出すので喜びが違いますね。
あと、今回のゼルダは他人のプレイを見るのが面白い。
自分では思いつかなかったアイテムの使い方なんて見ると、面白いのと同時に悔しくなります。
ゲームでは、与えられるアイテムはみな同じですから、そこからその発想はなかった!ということをやられると悔しい。
もっと頭を柔らかくしないとですね。

発見の楽しさとコレクション性

発見する楽しさを補強するシステムが取得していないものは「???」と表示されることであったり、図鑑があったりすることですね。
ゼルダの図鑑は、自分で写真を撮影して載せるので、どんな構図にするかとかも考えるのが楽しいですね。
あと、撮り逃してもあとで購入することができるので気軽にできるのもポイント。

どうしてこれが楽しさを補強するのかと言いますと、まだ、見つけていないものはやっぱり名前とか知りたいじゃないですか。拾えるアイテムも見た目がわかりやすいから見つけたらそっちに走り寄っていってしまいます。
ただ、後半に入ってくると見つけたものばかりになりますから作業も単調になってきてしまう。
そこで必要なのが図鑑ですね。
見つけても映し絵に撮っていなければ探しに行かなければいけませんし、図鑑に表示されることでまだ見つけていないもの撮影していないものがわかりやすいのです。
まだ知らないことがあるとわかりやすいからこそ、探しにいきたくなる。
図鑑に空白があるとなんだか気持ち悪いし。

他のゲームにだってこういうシステムはあるわけですが、図鑑は自分で撮影しないと登録されないとか少々不親切。
そういえば、ポケモンも捕まえないと図鑑の詳しいデータは見れませんね。
ひと手間入ることで、印象が強くなる。
最近のゲームって結構親切なところがありますが、不親切さも必要かもしれません。

発見の楽しさを組み込まれたストーリー

今回のゼルダは、ストーリーの起こる場所も自分で発見していかなければいけません。
映し絵に残された写真を頼りに100年前の記憶を取り戻すメインチャレンジが最たるもの。
写真を頼りに見つけ出すのは楽しかったですね。
この物体が映っているからこの地方、この角度はこのあたりじゃないか…
こうして自分で考えて、そしてそれが正解だった時、嬉しかった。
それから、断片的に語られる物語の中で、キャラクターが何を思い何を感じ、そんなことを想像することも楽しい。
ハイラル城にゼルダの日記があります。
それがまた憎い演出。
映し絵の写真に沿って描かれた日記を読むことで、映し絵の記憶の中の彼女の心情だったりがわかる。
長く遊んでいると、最初の方の何気ないイベントのことは忘れちゃったりするじゃないですか。
でも、自分で探し出したから印象に残っている率も高い気がします。
最初に見つける記憶ってどれが一番多いのかな。
最初に見つける記憶で多分ゼルダの印象も違ってくるんじゃないかな。
遊び方でいろんなことが変わっていく。
それもまた面白い。

いつもだとストーリーを終わらせたら2週目とかやってらんないタイプなんですが、二週目ではないとはいえラスボスを倒した後もつづけていられるのは、導かれていないからかもしれません。
ストーリーがあって道筋が決まっていて…となると、ラストまでたどり着いたらもうだいたい探索も終了しました!って気分になるのですが、ゼルダは探索を終わらせた気がしなかった。
まあ、祠も全然クリアしないままだった、マップの一部が未開放だったというわかりやすい探索が終わっていない証拠があったこともありますが。
でも、だいたいのゲームはストーリーに沿って遊べばマップも全部開放されてるはずですし、隠しダンジョン以外は行ったことがあるはず。
用意されたものは用意された意味があるものだし、だからこそ全部まわっていくもの。
祠は短いコンパクトなダンジョンとはいえ、あれだけ用意していたら製作者だったら全部まわってほしいと思うことだってあるはずです。
でも、行かなくてもいいよ、行かなくてもクリアできるよってなってるからこそ、途中でもクリアできちゃう。
でも、だからこそ、発見できた時が楽しい。
だって、導かれたわけじゃないんですもん。
自分で見つけたんだって思えることはやっぱり楽しい。

こうなると、夏、冬のDLCもワクワクしますね。
どんな遊びを用意してくれるのかな!

技術はトライ&エラーで覚える やり直しがきくからこそ自由になれるデジタルイラスト

日本の学校教育について時々言われること

それは、「失敗が許されない」ということだ。
どんな風に教えてみても、根底にそれがあるから結局最短距離で正答を求めるようになる。

個人的なことだけど、家の親はいつまでたっても小学生の頃のテストの間違いを笑い話のつもりで話す。こっちが嫌がっているにも関わらず。
レイチェル・カーソンの沈黙の春を題材にしたテストの時だった。
どうして彼女がその道に進もうと思ったのかを文章から読み取って答えるというものだった。
文章には、豪雨を窓から眺めていたら森の木が一本雷に撃たれて、それを見てハッとした…ようなそんな文章が書かれていたから私もそういう風に書いた。
正しい答えはさっぱり覚えていないのだけど、それは不正解。
それをことあるごとに馬鹿にしたように笑うのだから、失敗はバカにされるものという思考が根底にあるのだろう。
ちなみに、同じ回答をした子供はほかにも数人いた。一クラス20人ぐらいの学校だったので、かなりの割合じゃないか。

そしてそれは美術も変わらない。
教師は自由だというのかもしれない。
でも、違う。
発想はいくらでも自由でも、扱う画材が一度間違ったらやり直しが困難なものばかりだ。
水彩絵の具で塗ったものを後から直すのはなかなか難しいし、版画なんてもってのほか。
時間があれば直せるかもしれないが、今や美術の時間は削減されとにかく時間がない。
それでどうして自由なのだろう。

デジタルなお絵かきソフトの可能性

そこで思いつくのは、お絵描きソフトの存在だ。
デジタルであればやり直しも簡単だ。ボタン一つでもとに戻せる。
やり直しがきく、というだけでだいぶ向き合う心持も変わってくる。
そうすると、こうしてみたらどうなるかな?とかいろいろ発想も出てくる。
失敗したらやり直せばいい。
その事実一つあるだけでいいのだ。

ただ、タブレットを全員に持たせることにいろいろ議論があるように、お絵かきソフトを全員に持たせることはそれ以上に大変だろう。
以前、京都でDSの絵心教室を導入した学校があったようだが、京都といえば任天堂があるから協力を得られる。
そういう土壌がなければ、なかなか難しい。
また、コンピューター上で絵を描こうとするとアナログと勝手が違うから慣れが必要になる。
最近はタッチパネルが増えたから差は少なくなったものの、やっぱり慣れるには少し時間が必要だ。

それから、アナログで描くのとデジタルのお絵描きソフトでは書き味が違ってくる。

一枚目がclip studio paint(以下クリスタ)で描いたもの。
二枚目が絵心教室で描いたもの。
比べるために同じ手順で描いた。
絵心教室はアナログの書き味を再現しようとしているから、筆跡がかなり残る。
それに対してクリスタで描いたものは、ヌルっとした感じだ。
アナログで描けばまた違うものになるだろう。
デジタルのお絵かきソフトには、水彩風ブラシとか油彩風ブラシとかついているが、風であって完全に再現されたものではない。
お絵描きソフトはお絵描きソフトという画材の一つなのだ。
もしも、学校で扱うことがあるのならそこを留意しておかなければならないと思う。
あれば、の話だけど。

電子機器が絵を描くことを身近にする

全ての子供がそうであるかはわからないが、昔に比べたら絵を描いて誰かに見せる行為が容易になったように思う。
それはデジタルで描いたものだけじゃない。
スマホのカメラで、紙とペンで描いたイラストを撮影してSNSに載せる。
雑誌に投稿して載せてもらうとか、自分でHTMLを打ち込んでサイトを作って…なんて時代に比べたらはるかに容易い。
それにゲームに限っても、DSの動くメモ帳でパラパラ漫画を描いて見せたり、ミーバースにイラストを載せてみたり…いろいろできる。

スマホのお絵描きアプリも充実している。
タッチパネルは直感的だし、マウスと違って感覚のずれも少ない。
マウスで描いていたときと比べたらはるかにアナログの感覚に近く、そしてそれは簡単になったということだ。

大学生の頃、ゲームと美術教育なんて題材で論文を書いて発表したのだけど、教育学部にあったからなのか何なのか、ゲームに対してどこか否定的な人な学生もいた。
まあ、美術よりゲームにハマったらどうするのとか、ゲームをやってない子が仲間はずれにされるとかそういうことだったのだけど。
でも、そのゲームの中で子供たちが絵を描いて、何かを作っているのだとしたら?
遊びの中で楽しんで何かを描き、何かを作り、そして誰かに見せているのだというのなら、その方がいい。

授業だと身構えてしまうけど、遊びの中なら失敗してもまた挑戦する気になれる。
ハマっているというのは、そういうものだ。
そうやって、技術を覚えていく。
それって、きっと成長するということだ。
失敗する自由がなければ、成長する実感はない。
実感があるから、楽しい。

2017年4月7日金曜日

プログラミングが必修になるというし…Javascriptはじめました

小学校でプログラミング教育が必修化へ

プログラミングというとなんだか難しそうなイメージ…
でも、近いうちに小学校でプログラミング教育が必修化するとか。
私も中学生の頃に、授業でちょっとだけ、丸を書いたりするようなプログラムを書いた覚えがありますが、きっともっと高度なことをやるに違いない。

趣味の二次創作のために、HTMLで簡単なHPを作ったことはあるんですよ。
でもHTMLってプログラミング言語じゃないんですね。
これもよくわからないのに、プログラミングってどんだけ難しいんだ…と尻込みしていて、せっかく買った参考書も放置しておりました。

でもでも、もったいないので初めからやってみることにしました。
ブラウザとメモ帳さえあればできるのでJavascript。
言語の中では簡単らしい…とネットで調べて選びました。
参考書には「超」入門って書いてありますから、いきなり難しいことはやらないでしょう。
そう思って、参考書を開いてみました。

簡単なことが面白い

さてさて、超初心者ですからくだらないことが楽しいのです。
参考書ではまずブラウザの開発者ツールを開き、そこに一行のプログラムを書いてみましょうとなってたのですが、その通りに書いて、参考書に載っている通りにブラウザに表示されると何とも面白い。

そういえば、HTMLとCSSでサイトを作っていたときも、文字ばかりで作られたものが、自分の思った通りの形になっていると嬉しいものでした。
プログラミングの面白さを知るにはまだまだ簡単なことしかしてないのでわからないですが、きっとこういうことが楽しいのかなと思いました。

まだ始めたばかりで、これ一つしかやってませんが、復習を兼ねてメモメモ。

console.log('ここに表示したい文字を入れる');

絵心教室1~2日目

絵心教室を再開したので、レッスンで描いた絵を載せていくことにしました。
やっぱり何か目的があると続けやすいと思うので…

というわけで最初のレッスンのサクランボから

はじめてのレッスン~さくらんぼ


一日目 サクランボ
久しぶりに書いたので勝手がわからず…なんだかぼかしが綺麗じゃない。
とはいえ、はじめてのレッスンは誰が描いてもそれなりに描けるように設定されているらしくなかなかうまくいったんじゃないかなと思わせてくれますね。
でもなんだかサクランボの後ろのほうが絶壁になっているような…
そう思ってもう一回丸みを意識して書いてみました。
一枚目より丁寧に。
つややかな感じが出ているんじゃないかなと自画自賛。
指示になかったのですが、ちょっと茎に使った緑でサクランボの影を足してみました。

レッスン1~チューリップ

2日目 チューリップ
3DSの画面上ではいい感じだと思ったのですが、大きく見てみたらハイライトのぼかしが足りなかった気がします…
下の方の花びらの丸みはうまくいったかな?
ピンズ先生(このゲームで指導してくれる先生キャラクター)が言っておりましたが、納得いかなければもう一度描いてみることも大切だそうです。
何度も描くことで上達していく…当たり前だけど改めて言われるとハッとしますね。

いつもは線画を描いて、その中を塗っていく、そういう描き方、塗り方をしているので、面で描いていくというのは勝手が違います。
丸みを出せないとなんだかのっぺりしてしまいます。
イラストの講座なんか見てますと、頭の丸みを意識して~とか書いてあるんですけど、どうもそれが想像できなくて…
観察が足りないのだと思います。
対象をよーく見て描いていけば、指導が入っているとはいえうまく描けているような気がします。

ちょっと休憩…

レッスンで見せてくれる題材は、フリーペイントでも使えるので復習を兼ねてサクランボを自分で描いてみました。
手順は同じようにやったのですが…やっぱり色が違うのかしら?
もう少し明るい色と影の色が離れているとよかったかもしれない。
あと画面上だと際にいれたつもりの色がちょっと違うところに…拡大して書けばよかったかな。
どうしても最後に行くと雑になっていく癖というか、めんどくさがりの性格が出てきてしまっているので、丁寧に描き進めないとですね。

明るい色から塗る水彩と暗い色から塗る油彩

小学生の頃、学校で使った絵具はなんだったでしょうか?
多分水彩絵の具ですよね(アクリル絵の具だった方もいるかもしれません)
水彩絵の具だと、明るい色から塗ってあとから影を入れるという指導を受けたかと思います。
でも、油絵の場合は違います。
絵心教室の絵具の指導もそれに近くて、暗い色からいれていくんですね。
それじゃ明るい色がつかないじゃんと思うかもしれませんが、油絵具は隠ぺい力があって明るい色を上から塗っても大丈夫なんです。
絵心教室でも、サクランボは影色で全体の形を取りあとから明るい色を入れていく形に、チューリップは中間の色で形を取ってから、影を塗り、後から明るい色を塗っていく形になっています。
絵具の性質が違うので塗り方も変わっていくんです。
で、実をいうと、隠ぺい力があるということは後から修正できるということなんで、実は水彩より油彩の方が簡単なんですね。
水彩絵の具って一度塗ると修正って難しいですよね。
一発勝負。やり直しが大変だから失敗したらそのまま進めるしかない。
それでも、小中学校で水彩を使うのは値段が安いことと、油絵具って揮発性の油を使うので危ないからという理由があるみたいです。

言いたいことは、かつて水彩絵の具で描いていてうまく描けないと嫌になっていた人も、悪いのは案外画材の方だったのかもしれないってことです。
道具って大事ですね。

2017年4月4日火曜日

絵心教室を再開してみる

2012年9月13日発売「新 絵心教室」

絵心教室というソフトをご存じだろうか。
DSや3DSで発売された、その名の通り絵心を育むゲームソフトだ。
手順に従っていくと、絵を描くコツがわかるのだ。
始めはDLソフトだったがのちにパッケージになり、シリーズ化されている。

私は、これが発売されたころ、すごく欲しくて仕方がなかった。
けれど、普通のDSしか持っていなかったからDLができなくて、3DSを買ってやっとDSiウェア版をプレイできた。
一応、受験のために絵画教室に通ったりしていた経験もあるのだけど、これを遊んでみて何とも衝撃的だったのを覚えている。
写真やお手本を見ながら示された手順の通り描いていくと、見本さながらの絵が描ける。
絵を描くとき、どうしてそうするのか、どうしてその色を使うのか、簡単にだが説明してくれる。
それは感情だとか感性だとかそういうところではなく、理論的に。
絵に理論というものがある。
色彩学だとかそういうものがあることは知っていたのだけど、結局最後は感性だと思っていたものだから驚いた。
中学までの美術教育って、とにかく自由が重視されていたように思う。
色彩の事とか習った覚えはあるが、絵に書くときにその知識を生かすことはあまりなかった。
色彩を習う時はそれ単体で、鉛筆の濃淡の出し方も教えるだけ、実際に絵にするのはまた別の話。
つまり、使うかどうかは自由なのだ。
けれども、そういった技術って結局使ってみなければわからないことだらけだ。
絵心教室のように、今はこれを使ってみよう、そうしたらそれっぽく見えるよと示してくれると実感があるのに、切り離された授業では単に知識として残ればいい方で、描くころには忘れてしまう。
だから、衝撃を受けたのだろうし、多分教わったことさえも、なんで教えてくれなかったの!?と思ったのだ。

絵を描くことに対するコンプレックス

大学まで行って美術を学んだ人間に対し、どんなイメージを抱くだろうか。
とにかく美術が好きで、なんかすごい絵を描いて…なんて感じかな。
好きだから学びに行くわけだけど、好きな人間が集まればその中でも熱意の量とかうまい下手は出てくるわけで。
私は自分が本当に美術が好きだったのか、酷く悩んでしまいには美術なんか嫌いだったに違いないと確信までした。
私が好きだったのは美術ではなくて、漫画とかイラストの方だったのだ。
でも、漫画やイラストを描く人で美術に興味がある人も割といるわけで。
だんだんわからなくなってきた。
それに絵が上手い子でイラストも描く人の絵はやっぱりうまい。
自分の下手くそさに嫌になった。
こんなに続けていたのに、と。

とにかく”うまく”描けない。
それがコンプレックスで、本気で描くことなんてできなかった。
本気で描いてそれでも下手くそだったら、もう、どうしようもないから。

途中で嫌になる

絵心教室を続けていると、だんだんと複雑なモチーフが見本になっていく。
そうすると、はじめより描けなくなる。
見本とは程遠い作品になる。
始めは結構描けるじゃんと思っていたのに、現実を突きつけられたような気になる。
そうするとだんだん飽きてきてやめてしまう。
だから、絵心教室も初級コースをなんとか終了したところでやめてしまった。
初心者だったら、複雑なモチーフも意外と描けるじゃんとなるのかもしれないけど、一応描いてきたという自負があるわけで。

再開してみる

けれど、何となく今回再開してみることにした。
何となくだ。
せっかく買ったのにもったいないという気分なのだろうか。

多分途中で飽きた原因はもう一つは誰に見せこともないことだったのだと思う。
仕方がないがゲームでは批評とかはされない。
絵画教室では、描いている途中や描いた後にここをもっとこうした方がいいとか言ってくれるのだけど、このゲームの場合は自分で見つけなければならない。
そういえば学校の美術だって一緒だ。
アドバイスなんてほとんど受けられない。

アドバイスとかじゃなくたって、作品を人に見せること、そしてコメントを貰うことはモチベーションにつながる。
絵とはきっとずっと昔から、言葉がまだなかった頃から他人に伝える手段だったのだ。
それなのに、自分だけで完結するなんて無理だった。

そりゃ最初は描くこと自体が面白いのは否定しない。
自分だってそうだから。
でも、だからってずっとそれが面白くて続けられるかといったら別の話だ。
だから、描くこと自体が楽しくなくなって、自分は本当は好きじゃなかったんじゃないかなんて悩む必要はない。
むしろ、それでも描き続けようとするのなら、やっぱり好きなんだと思う。
世間の言う、好きの、興味のイメージに自分を当てはめる必要なんて、何もない。
そう思ったら、心が少し軽くなった。

2017年4月2日日曜日

美術は何にも教えてくれない

洋画を見ていて、登場人物に美術大学を出たという人が出てきた。
彼女は、母親を亡くしたその子供の絵の宿題を見ていて木はこう描くといいのよと教えていた。
子供がどこで教わったのと聞いたら、○○大学の美術科でと答える。
これを聞いて私はびっくりした。技術を教えてくれるのかと。
学校でやる美術系ってとにかく実技実技実技、だけど、聞かれなければ技術を教えはしない。そういうのを教えるのは学校といっても専門学校の方だ。
そんな印象だったのだ。

学校で教えることに関しては、先生にゆだねられている面がある。
私が教わった小中で、正直なところ技術を教わった覚えはあまりない。
ないことはないが、道具の使い方についてである。
それもまた技術だが、絵を描く技術ではない…というか知りたい技術ではなかった。

絵心教室というDSのソフトがある。
タッチペンを使って、絵の描き方を教えてくれるソフトだ。
これをやった時、なんでこれを教えてくれなかったんだ!と思った。
物の見方、色の使い方、どうしてそうするのか、教えてくれたのだ。
指示に従って、試行錯誤しながら描いていくのが面白かった。

ふと中学生の頃にも、指示に従って描いていく授業があったのを思い出した。
名前は忘れてしまったが、植物は成長していく方へ描くとかなんとかいう方式でどんな子供でも絵が描けるというものらしい。
私はそれがすごく嫌だった。
成長していく方へ描く、理論的っぽいようなそうでないような、とにかくどうしてそう描くのか意味が分からなかった。
絵心教室との違いは明白だ。納得できる理論がない。
そして、もう一つ。
実は絵心教室は指示に従わなくてもいい。
プログラムから外れた方向へはフォローしてくれないが、でも描くことはできる。
でも学校だと、見られているから外れるのは難しい。
外れるつもりはなくても、外れることができるというのは何とも自由な気持ちになる。

美術系を志したり、今美術をしているという人はきっと学校の美術科で教わったこともたくさんあるというのだろう。
それは否定しない。
だってそれはきっと事実なのだから。
彼らの先生は教えてくれた。彼らが必要だったことを。
義務教育なのに、教師の質に左右されるってなんだか恐ろしい。

美術は感覚でできてしまう面もあるから、きっと言語化が苦手なのかもしれない。
でも、言葉にできなければ、伝えるのは大変だ。
絵心教室はそれができていた。
感覚だけじゃ、教えられない。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...