2017年4月7日金曜日

プログラミングが必修になるというし…Javascriptはじめました

小学校でプログラミング教育が必修化へ

プログラミングというとなんだか難しそうなイメージ…
でも、近いうちに小学校でプログラミング教育が必修化するとか。
私も中学生の頃に、授業でちょっとだけ、丸を書いたりするようなプログラムを書いた覚えがありますが、きっともっと高度なことをやるに違いない。

趣味の二次創作のために、HTMLで簡単なHPを作ったことはあるんですよ。
でもHTMLってプログラミング言語じゃないんですね。
これもよくわからないのに、プログラミングってどんだけ難しいんだ…と尻込みしていて、せっかく買った参考書も放置しておりました。

でもでも、もったいないので初めからやってみることにしました。
ブラウザとメモ帳さえあればできるのでJavascript。
言語の中では簡単らしい…とネットで調べて選びました。
参考書には「超」入門って書いてありますから、いきなり難しいことはやらないでしょう。
そう思って、参考書を開いてみました。

簡単なことが面白い

さてさて、超初心者ですからくだらないことが楽しいのです。
参考書ではまずブラウザの開発者ツールを開き、そこに一行のプログラムを書いてみましょうとなってたのですが、その通りに書いて、参考書に載っている通りにブラウザに表示されると何とも面白い。

そういえば、HTMLとCSSでサイトを作っていたときも、文字ばかりで作られたものが、自分の思った通りの形になっていると嬉しいものでした。
プログラミングの面白さを知るにはまだまだ簡単なことしかしてないのでわからないですが、きっとこういうことが楽しいのかなと思いました。

まだ始めたばかりで、これ一つしかやってませんが、復習を兼ねてメモメモ。

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絵心教室1~2日目

絵心教室を再開したので、レッスンで描いた絵を載せていくことにしました。
やっぱり何か目的があると続けやすいと思うので…

というわけで最初のレッスンのサクランボから

はじめてのレッスン~さくらんぼ


一日目 サクランボ
久しぶりに書いたので勝手がわからず…なんだかぼかしが綺麗じゃない。
とはいえ、はじめてのレッスンは誰が描いてもそれなりに描けるように設定されているらしくなかなかうまくいったんじゃないかなと思わせてくれますね。
でもなんだかサクランボの後ろのほうが絶壁になっているような…
そう思ってもう一回丸みを意識して書いてみました。
一枚目より丁寧に。
つややかな感じが出ているんじゃないかなと自画自賛。
指示になかったのですが、ちょっと茎に使った緑でサクランボの影を足してみました。

レッスン1~チューリップ

2日目 チューリップ
3DSの画面上ではいい感じだと思ったのですが、大きく見てみたらハイライトのぼかしが足りなかった気がします…
下の方の花びらの丸みはうまくいったかな?
ピンズ先生(このゲームで指導してくれる先生キャラクター)が言っておりましたが、納得いかなければもう一度描いてみることも大切だそうです。
何度も描くことで上達していく…当たり前だけど改めて言われるとハッとしますね。

いつもは線画を描いて、その中を塗っていく、そういう描き方、塗り方をしているので、面で描いていくというのは勝手が違います。
丸みを出せないとなんだかのっぺりしてしまいます。
イラストの講座なんか見てますと、頭の丸みを意識して~とか書いてあるんですけど、どうもそれが想像できなくて…
観察が足りないのだと思います。
対象をよーく見て描いていけば、指導が入っているとはいえうまく描けているような気がします。

ちょっと休憩…

レッスンで見せてくれる題材は、フリーペイントでも使えるので復習を兼ねてサクランボを自分で描いてみました。
手順は同じようにやったのですが…やっぱり色が違うのかしら?
もう少し明るい色と影の色が離れているとよかったかもしれない。
あと画面上だと際にいれたつもりの色がちょっと違うところに…拡大して書けばよかったかな。
どうしても最後に行くと雑になっていく癖というか、めんどくさがりの性格が出てきてしまっているので、丁寧に描き進めないとですね。

明るい色から塗る水彩と暗い色から塗る油彩

小学生の頃、学校で使った絵具はなんだったでしょうか?
多分水彩絵の具ですよね(アクリル絵の具だった方もいるかもしれません)
水彩絵の具だと、明るい色から塗ってあとから影を入れるという指導を受けたかと思います。
でも、油絵の場合は違います。
絵心教室の絵具の指導もそれに近くて、暗い色からいれていくんですね。
それじゃ明るい色がつかないじゃんと思うかもしれませんが、油絵具は隠ぺい力があって明るい色を上から塗っても大丈夫なんです。
絵心教室でも、サクランボは影色で全体の形を取りあとから明るい色を入れていく形に、チューリップは中間の色で形を取ってから、影を塗り、後から明るい色を塗っていく形になっています。
絵具の性質が違うので塗り方も変わっていくんです。
で、実をいうと、隠ぺい力があるということは後から修正できるということなんで、実は水彩より油彩の方が簡単なんですね。
水彩絵の具って一度塗ると修正って難しいですよね。
一発勝負。やり直しが大変だから失敗したらそのまま進めるしかない。
それでも、小中学校で水彩を使うのは値段が安いことと、油絵具って揮発性の油を使うので危ないからという理由があるみたいです。

言いたいことは、かつて水彩絵の具で描いていてうまく描けないと嫌になっていた人も、悪いのは案外画材の方だったのかもしれないってことです。
道具って大事ですね。

2017年4月4日火曜日

絵心教室を再開してみる

2012年9月13日発売「新 絵心教室」

絵心教室というソフトをご存じだろうか。
DSや3DSで発売された、その名の通り絵心を育むゲームソフトだ。
手順に従っていくと、絵を描くコツがわかるのだ。
始めはDLソフトだったがのちにパッケージになり、シリーズ化されている。

私は、これが発売されたころ、すごく欲しくて仕方がなかった。
けれど、普通のDSしか持っていなかったからDLができなくて、3DSを買ってやっとDSiウェア版をプレイできた。
一応、受験のために絵画教室に通ったりしていた経験もあるのだけど、これを遊んでみて何とも衝撃的だったのを覚えている。
写真やお手本を見ながら示された手順の通り描いていくと、見本さながらの絵が描ける。
絵を描くとき、どうしてそうするのか、どうしてその色を使うのか、簡単にだが説明してくれる。
それは感情だとか感性だとかそういうところではなく、理論的に。
絵に理論というものがある。
色彩学だとかそういうものがあることは知っていたのだけど、結局最後は感性だと思っていたものだから驚いた。
中学までの美術教育って、とにかく自由が重視されていたように思う。
色彩の事とか習った覚えはあるが、絵に書くときにその知識を生かすことはあまりなかった。
色彩を習う時はそれ単体で、鉛筆の濃淡の出し方も教えるだけ、実際に絵にするのはまた別の話。
つまり、使うかどうかは自由なのだ。
けれども、そういった技術って結局使ってみなければわからないことだらけだ。
絵心教室のように、今はこれを使ってみよう、そうしたらそれっぽく見えるよと示してくれると実感があるのに、切り離された授業では単に知識として残ればいい方で、描くころには忘れてしまう。
だから、衝撃を受けたのだろうし、多分教わったことさえも、なんで教えてくれなかったの!?と思ったのだ。

絵を描くことに対するコンプレックス

大学まで行って美術を学んだ人間に対し、どんなイメージを抱くだろうか。
とにかく美術が好きで、なんかすごい絵を描いて…なんて感じかな。
好きだから学びに行くわけだけど、好きな人間が集まればその中でも熱意の量とかうまい下手は出てくるわけで。
私は自分が本当に美術が好きだったのか、酷く悩んでしまいには美術なんか嫌いだったに違いないと確信までした。
私が好きだったのは美術ではなくて、漫画とかイラストの方だったのだ。
でも、漫画やイラストを描く人で美術に興味がある人も割といるわけで。
だんだんわからなくなってきた。
それに絵が上手い子でイラストも描く人の絵はやっぱりうまい。
自分の下手くそさに嫌になった。
こんなに続けていたのに、と。

とにかく”うまく”描けない。
それがコンプレックスで、本気で描くことなんてできなかった。
本気で描いてそれでも下手くそだったら、もう、どうしようもないから。

途中で嫌になる

絵心教室を続けていると、だんだんと複雑なモチーフが見本になっていく。
そうすると、はじめより描けなくなる。
見本とは程遠い作品になる。
始めは結構描けるじゃんと思っていたのに、現実を突きつけられたような気になる。
そうするとだんだん飽きてきてやめてしまう。
だから、絵心教室も初級コースをなんとか終了したところでやめてしまった。
初心者だったら、複雑なモチーフも意外と描けるじゃんとなるのかもしれないけど、一応描いてきたという自負があるわけで。

再開してみる

けれど、何となく今回再開してみることにした。
何となくだ。
せっかく買ったのにもったいないという気分なのだろうか。

多分途中で飽きた原因はもう一つは誰に見せこともないことだったのだと思う。
仕方がないがゲームでは批評とかはされない。
絵画教室では、描いている途中や描いた後にここをもっとこうした方がいいとか言ってくれるのだけど、このゲームの場合は自分で見つけなければならない。
そういえば学校の美術だって一緒だ。
アドバイスなんてほとんど受けられない。

アドバイスとかじゃなくたって、作品を人に見せること、そしてコメントを貰うことはモチベーションにつながる。
絵とはきっとずっと昔から、言葉がまだなかった頃から他人に伝える手段だったのだ。
それなのに、自分だけで完結するなんて無理だった。

そりゃ最初は描くこと自体が面白いのは否定しない。
自分だってそうだから。
でも、だからってずっとそれが面白くて続けられるかといったら別の話だ。
だから、描くこと自体が楽しくなくなって、自分は本当は好きじゃなかったんじゃないかなんて悩む必要はない。
むしろ、それでも描き続けようとするのなら、やっぱり好きなんだと思う。
世間の言う、好きの、興味のイメージに自分を当てはめる必要なんて、何もない。
そう思ったら、心が少し軽くなった。

2017年4月2日日曜日

美術は何にも教えてくれない

洋画を見ていて、登場人物に美術大学を出たという人が出てきた。
彼女は、母親を亡くしたその子供の絵の宿題を見ていて木はこう描くといいのよと教えていた。
子供がどこで教わったのと聞いたら、○○大学の美術科でと答える。
これを聞いて私はびっくりした。技術を教えてくれるのかと。
学校でやる美術系ってとにかく実技実技実技、だけど、聞かれなければ技術を教えはしない。そういうのを教えるのは学校といっても専門学校の方だ。
そんな印象だったのだ。

学校で教えることに関しては、先生にゆだねられている面がある。
私が教わった小中で、正直なところ技術を教わった覚えはあまりない。
ないことはないが、道具の使い方についてである。
それもまた技術だが、絵を描く技術ではない…というか知りたい技術ではなかった。

絵心教室というDSのソフトがある。
タッチペンを使って、絵の描き方を教えてくれるソフトだ。
これをやった時、なんでこれを教えてくれなかったんだ!と思った。
物の見方、色の使い方、どうしてそうするのか、教えてくれたのだ。
指示に従って、試行錯誤しながら描いていくのが面白かった。

ふと中学生の頃にも、指示に従って描いていく授業があったのを思い出した。
名前は忘れてしまったが、植物は成長していく方へ描くとかなんとかいう方式でどんな子供でも絵が描けるというものらしい。
私はそれがすごく嫌だった。
成長していく方へ描く、理論的っぽいようなそうでないような、とにかくどうしてそう描くのか意味が分からなかった。
絵心教室との違いは明白だ。納得できる理論がない。
そして、もう一つ。
実は絵心教室は指示に従わなくてもいい。
プログラムから外れた方向へはフォローしてくれないが、でも描くことはできる。
でも学校だと、見られているから外れるのは難しい。
外れるつもりはなくても、外れることができるというのは何とも自由な気持ちになる。

美術系を志したり、今美術をしているという人はきっと学校の美術科で教わったこともたくさんあるというのだろう。
それは否定しない。
だってそれはきっと事実なのだから。
彼らの先生は教えてくれた。彼らが必要だったことを。
義務教育なのに、教師の質に左右されるってなんだか恐ろしい。

美術は感覚でできてしまう面もあるから、きっと言語化が苦手なのかもしれない。
でも、言葉にできなければ、伝えるのは大変だ。
絵心教室はそれができていた。
感覚だけじゃ、教えられない。

2017年3月27日月曜日

グラフィックの綺麗さと私のイラストの好み

ゲームを遊び感想をネットで検索すると、時折このゲーム機は低性能だからグラフィックが汚いとかそんな感想というか批判というかそんな意見を目にする。
ゲーム機の性能は私が子供の頃よりずっとあがってきていて、子供の頃に目にしたゲームと比べれば今のゲームのグラフィックの進化は驚くほどである。

確かに、他人のプレイを見ていてPS4のゲームというのはグラフィックがすごい。
FFとかバイオハザードとかリアルなグラフィックはすごいなと思う。
しかし、思う反面、私にとってFFとかバイオハザードが魅力的でないせいか、グラフィックが綺麗だからといって遊ぶ気にはならない。
個人の意見だが、私がグラフィックで感動したものを思い返せば、決して解像度が高いとか、精彩に描かれているとかそんなものではない。
私が綺麗だと思ったゲームをいくつか挙げてみよう。

N64「スーパーマリオ64」

このゲームのすべてを綺麗だと思ったわけではない。
ピーチ城内の隠しステージ的な部分がとてもきれいだと思ったのだ。
それは、城の中の一室のような場所なのだがすべてが水に満たされた場所だった。
そこは青くもなんともないのに、マリオが宙を浮き、泡が立ち、水中にいたモンスターがそこにいる、ただそれだけで水中に見えたのだ。
スターをとってしまえばあとはもう何もないのだけど、ただただその水中感が好きだった。

GC「ピクミン」

まるで本物の庭先のような、そんなグラフィック。
今見たらそうでもないのかもしれないが、とてもリアルに描かれているように思えた。
草木や水の感じが本物っぽいのだ。
私が任天堂のゲームで一番感動するグラフィックって水の表現。
スーパーマリオサンシャインのような少々アニメちっくに描かれた水もピクミンのようにリアルタッチに描かれた水も、なんというか他の私が遊んだゲームと比べると水っぽく感じられるのだ。

Wii「ゼノブレイド」

はっきりいうと、当時発売されていたPS3、XBOX360、それらのゲーム機に出ていたゲームに比べれば、画面はジャキジャキしていたし、見た目は綺麗と言えない。
ただ、それでも綺麗だと言いたい。
だって、とてもきれいに、魅力的に見えたのだから。
風に揺れる草、どこまでも走っていける大地、そこで暮らしているモンスターたち…
このゲーム、高低差をつけたマップがとてもセンスがいい。
遊んでいるからこそ思い入れがある分もあるだろうから公平には比べられないけど、時折テレビで見かけたFFの画面よりも魅力的だった。
従来のゲーム、特にRPGでは崖や水辺というのはそれ以上進めない記号だった。
それをなしにして、いくらでも飛び降りて走り回って水中も進める。
それがグラフィックの魅力を増してくれたのだと思う。
やってないから正しくないかもしれないが、FFはやはり私の中で従来のRPGである認識があった。
いくら綺麗でも、その世界を自由に走り回ることはできない。
そう思うと魅力的に見えなかったのだ。

NS「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」

リアルではなくアニメちっくなグラフィック。
それでも、その世界は生きていると感じさせてくれた。
風が吹けばその方向に草木はなびき、雲も流れる。
雨が降れば岩肌を水が流れ、火は消える。
朝日が昇る瞬間、夕日が沈む瞬間。
冒険の最中にふと気が付く瞬間がとてもきれいなのだ。
まるで、家の中にいてふと窓を見上げたら見えた夕日の綺麗さみたいに。
眺めているといろんな発見がある。
それらを探しに行くのがとても楽しいのだ。
生えている木も地方によって種類がある。
白樺っぽい木が生えている場所、バナナのような木が生えている場所。
現実の暑い場所、寒い場所を考えると確かにそうだよなと思えるものがちゃんとそこにある。
ただそれだけでも、リアルさを感じられるのだ。
しっかり世界観が作られている。
だからこそ、美しいのだと思う。

個人的なイラストの好みについて

さてさて、突然だが私のイラストの好みについて述べたい。
何故かというと、リアルなグラフィックよりアニメちっくな方が好きな理由が簡単にわかるから。

絵を描く理由は人それぞれだ。
好きなものを描きたいとか、好きな画家がいるとか。
私は子供の頃の延長線上で書いているようなところがあったので、絵を習っていると好きな画家を聞かれたりしたときになにも答えられなくて、ちょっとコンプレックスみたいに思っていた。
でも最近ふと気が付いたのである。
子供の頃、人間の絵を描くとき、髪の毛は鉛筆で一本一本引いていた。
しかし、ある時少年漫画で好きなキャラクターができてそれを描くために模写していたら気が付いたのだ。
一本一本描かなくても、髪型を縁をとるように描いていくと髪の毛に見えるのだと。
しかも、なびいたりするのだってちゃんと表現できる。
子供の頃の私には大発見だった。
それに写真の存在があった。写真さえあればリアルに描く必要なんてない。
そう思ったら、リアルなグラフィックというものにあまり魅力を感じることはなくなったのだ。
そしてだからこそ、アニメちっくなグラフィックに魅力を感じるようになったのだと思う。

ゲームにおけるグラフィックの魅力

私が魅力に感じる点を考えると、手触りが重要なのだと思った。
見た目の綺麗さだけではなくて。
ゲームとアニメ漫画の違いは触れられることにある。
触れられるからこそ、触れたら反応が返ってくるからこそ、より魅力的に映る。
ただただ、高精細に描かれただけじゃ、はりぼてと一緒だ。
リアルに描いただけで息切れするぐらいなら、アニメちっくで構わない。
(アニメちっくに描く方が楽だ、とも思わないけれど)
やっぱりゲームは見ただけじゃ、わからないなと思った。

2017年3月17日金曜日

死んで覚えるトライ&エラー ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド 

3月3日にNintendoSwitchが発売されました!

はやいもので、もう2週間…好評なのか、増産も決定したようですね。
私も買いましたよ!
思ったよりも小さいというか、スリムというか。
コンパクトで置き場所に困らないのがいいですね。

買ったソフトはもちろん「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」

PVでリンクが世界を走り回っているのを見て、楽しそうだな~と思っておりました。
今は、時間があればハイラルに入り浸っております。
ネットでこんなことができる、あんなことができるとネタを仕入れるとついついやってみたくなっちゃうし、こういうことできるんじゃないか?と考えて試して、実際できるとそれも面白くて。
これだけ試したら終わりと思ってたのに、他の事も試したくなっちゃってついつい2,3時間遊んじゃったりしてます。
自制心が問われるゲームですね(笑)

私は時のオカリナ3Dしかクリアしたことないんですが(やったことがあるのも、あとムジュラの仮面と夢を見る島DX)それ以上に、失敗して覚えることがたくさんありますね。
何度ゲームオーバーの画面を見たことか。
でも、今までと違ってオートセーブがあり比較的近いところから再開できるので、死んでもあんまりストレスにならずよし!次はこうしよう!とか思えるのがいいですね。
何度もボスキャラにやられながら戦い方を覚えて、撃破できた時はうれしいものです。

さて、時々ゲームにおける死の描写とそれにまつわるあれこれを書き綴ってみてるわけですが、今回は死にまくりのゼルダ。
ゼルダにおける死、というかたいていのゲームの死というのは=失敗ということですよね。
ゲームにおける死は軽いかと言われれば、失敗した程度、やり直しがきくとなれば、やっぱり軽いと言わざるを得ないかもしれません。
ゲームプレイ上の死というのは、もうこれ以上動けません、動かせませんという記号でしかないのです。
一番プレイヤーにとってわかりやすい失敗がライフがなくなること、死、というだけなのです。

さて、だからと言ってストーリー上の死まで軽くなるのかといえば、意外とそうでもない。
今回のゼルダは、かつての記憶を取り戻すことでストーリーが進行していくわけですが、その中で死んでいくものもいます。
ゲームプレイ上の死とは違う、覆らない死。
ストーリー上の死に対して、リセットすればいいじゃんと考える人は多分いないと思います。
リセットという行為は、死をなかったことにするのではなく、自分の失敗をなかったことにする行為なのですから。
ストーリー上の死は、自分の失敗ではないのです。

ゲームの場合、アニメや漫画と違う点は、ストーリーが語られる間にプレイヤーが遊ぶ時間があることだと思います。
ストーリーは点在し、それをつなげる過程がプレイヤーにゆだねられているのです。
ある意味、ストーリーを見るというのはそこまでたどり着いた御褒美なのだと思います。

ゲームプレイ上の死が重たければ、何度も挑戦する気になんかならないでしょう。
失敗できない。
現実世界でも、失敗できないと緊張してうまくいかないことはあるはずです。
ゲームは娯楽なんですから、そんな緊張ずっとしてなきゃいけないなんて言われたら、私は遊びたくないです。
ゲームの死が、軽くたっていいじゃないと思います。
ちゃんと死の重たさを知っているのならば。

2017年3月5日日曜日

リセットと命の重さーリセット上等ファイアーエムブレム

最近はどうだか知らないけど、私が子供の頃には「ゲームは死んでもリセットすれば簡単に生き返る。だから命を軽視する」というような批判がされていた。
わざわざリセットしなくても生き返るけど…とか子供の頃に思ったものだけど、まあ、それは置いといて。

簡単に生き返ることが命を軽視することになるのかどうか、ふと、2012年発売のファイアーエムブレム覚醒と2002年発売のファイアーエムブレム封印の剣を遊んでいて思った。
ファイアーエムブレムシリーズは、CMで手ごわいシミュレーションなんて歌っていたりして、死んだ仲間は生き返ることはないゲームだ。
どういうことかというと、戦いの最中にHPが0になると二度とゲーム上では扱えなくなるのだ。
復活の呪文とかアイテムとかそういったものは存在しない。
生き返らせるには、その死をなかったことにする以外ない。
生き返らせたければ、リセットする以外ないのだ。
つまり、批判されていた「リセットすれば簡単に生き返る」ゲーム。
そんな手ごわいシミュレーションゆえに初心者は敬遠しやすい。
だから近年、カジュアルモードというモードが搭載されるようになった。
このモードでは、HPがなくなったキャラクターは戦線から撤退した扱いになるので、次の戦場へ移れば再び扱うことができるようになる。
私はシミュレーションゲームというのがどうも苦手で封印の剣は結局途中で詰まってしまった。
そんな私にとって、カジュアルモードというのは救いの一手のようにも思えた。

下手くそな人間にとっては、とてもよいモードである。
しかし、ふと、なんだか命を軽く見ているようなそんな気分になった。
死んだわけではないのだけれど。
それまではマップクリアと味方の犠牲をなくすことを両立させようと必死だったのに、死なないならクリアが優先ということになってしまったものだから、最初は撤退に対してもうまくいかなかったな…とか残念がったものなのに、慣れてくるとこいつ防御力低いなとかそんなことしか思わなくなっていた。
リセットすれば生き返る方が、ずっと、キャラクターを大事にしていた気がする。

リセットすれば生き返るということを言いだした人は、一つわかっていないことがあったのだ。
最近は直前からやり直せるゲームもあるけれど、私が子供の頃のゲームの大半は、セーブしたポイントからしか再開できなかった。
セーブできるポイントもだいたい決まっていた。
頑張って進めて、もうすぐクリアできるところまで進んでいた。
リセットするということは、その頑張った記録をなかったことにして、やり直すということなのだ。
ファイアーエムブレムの場合、マップ開始のはじめしかセーブできなかったから、いいところまで行っていたとしても、はじめからやり直しということになる。
リセットするということは、死以外のゲーム上の経験もすべてをやり直すことなのだ。
それも、数十分、長いと1時間とか2時間とかかけた時間をすべてだ。
生き返えらせるということは、代償がある。
だからこそ、慎重になる。
だからこそ、死が重たかった。

つまり、結局のところ、リセットと命の重さ、軽さは関係なくて、いかに描写するか、どう扱うのか、ということに尽きる。
カジュアルモードは、そのマップで使える兵士が一人減る以外の代償がないから、別にいいかと思えてしまうだけなのだ。
例えば、撤退回数が上限を越したら、兵士としては引退、二度と使えなくなるとかそういうシステムであればもう少し考えるかもしれない。
ゲームのシステムというのは意識しないかもしれないけど、ストーリーや目に見えるキャラクターや背景と同じく世界観をあらわしてくれるもの。
キャラクターのパラメータを見て、このキャラクターは筋骨隆々の見た目通り力が伸びやすいんだとか、戦士なのに意外と魔力が伸びやすいとかそんな個性を感じたりしたことないだろうか。
RPGとか、ああいうゲームプレイの合間にストーリーが差し込まれるタイプのゲームはストーリーよりゲーム部分に触れてる時間が長い。
だから、見た目は好みじゃなくても戦闘で使いやすいキャラクターに愛着が湧いたりなんてこともあったりする。

触れられる部分すべてが、ゲームの世界を作り出す。
リセットすることさえも、ゲームの一部。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...