2016年11月25日金曜日

やる気を出す方法

どうしたらやる気になるのか

というのは、学生の頃から考えていることでした。
課題ややらなければいけないこと…たくさんあるのに、締め切り間際でないとやる気がでない。
そういう方はたくさんいると思います。

私の場合はちょっと違っていて、締め切りに間に合わせるということが目標みたいなものでしたから締め切り間際でないとやる気がでない…ということは、ある時期まではありませんでした。
(テーマに沿って自由に書くレポートとかは何を書けばいいのかわからなくて、内容が決まるのが締め切り間際ということはありましたが)

締め切りに間に合わせるというのは、当たり前のことかもしれません。
でも、全ての締め切りをきっちり守ったことはありますか?
風邪や体調不良といったどうにもならない理由もあれば、遊んでいて忘れていたとかそういう理由も含めて、全ての締め切りをきっちり守るということは、結構難しいことだと思います。
でも、それを評価されることなんてありません。
もちろん、自分だって当たり前だと思っていました。

何故締め切りを守ることを目標としていたのかというと、どうにもこうにも勉強に身が入らないからせめて当たり前のことは当たり前に守ろうと思ったのです。
だから、遅刻したりも台風でバスが動かないとか、電車がこないとかそういう理由でない限りありませんでした。
何せ、10分前どころかとくに用もないのに30分前にはついている計算で通っていましたから。

でも、その当たり前を守ることがなんだか馬鹿らしくなる瞬間がありました。
それはある日。
ゼミの先生が、こんな子いないよねと言っていた話を聞いたときです。
その子は、普段は下宿先から通っているのですが、その日は前日が成人式で地元から直で学校に来るので授業に間に合わないかもしれない。どうにかならないかと相談に来たそうです。
一回も休みたくないから相談しに来た。確かに彼女は一度も遅刻もしたことない。
すごいよね、と同意を求められました。
私は一度も遅刻したことないんだけど、と思いながらすごいですねと同意しておいた。
自分の予定はとくに入れないで、授業には遅刻しない、休まないを徹底していたのに。
そういう何かがないと、覚えてないのだな、印象に残らないのだなと馬鹿らしくなったものです。
(でも、実は同じゼミで話を聞いていた子が、でも○○ちゃんも遅刻したことないよねとは言ってくれました…がどうも、先生は聞いてなかった感がある)

その瞬間から、なんだかやる気もそがれました。
当たり前のことさえも、嫌になりました。
やる気がまったくなくなりました。

評価されるからやる気になるのだろうか

これは一理あると思います。
よく、ネットで調べると外的要因とか内的要因とか言われるもので、評価を貰うことは外的要因です。
そして、続きがありますよね。
やる気を持続させたかったら、外的要因ではなく内的要因を探せと。
つまり、無意識のうちに評価されたいという外的要因でやる気になっていたのです。
もちろん、誰にだって認められたいとかそういう気持ちはあるものです。
でも、私の場合、そこに全部を求めてしまっていました。
だから、評価されていないとわかるとやる気もなくなったのです。

内的要因を探す?

これがやりたいとか、好きだとか、極めたいとか…
そういう理由を探さなければやる気は出ないのでしょうか。
そしたら、やりたくないことには一向にやる気なんか出ません。
だらだらやり続けたら、時間の浪費です。
どうしたらいいのでしょう。

実は、長々書いてきましたがやる気を出すのは簡単です。
とりあえずやり始めればいいんです。
やる気があるから始めるのではなく、始めたからやる気も出てくるのです。
何かの本で読みました。

でも、やる気が出ないからだらだらやってしまうんじゃないか、とも思うでしょう。
そういうときって、それを終わらせたところで何になるかわからないときじゃないですか?
こんなのやっても無駄だとかそんな気持ちがあるときです。
もちろんやりたくないことは、こんなのプラスにならないとかそう思ってしまいがちです。
だから、逆にさっさと終わらせて好きなことをしよう!って考えましょう。

評価されないことが怖い、嫌だ、そんなときもあるでしょう。
もう、そういうこと考えるのはやめましょう。
どうせ、何もしなければ評価もされませんから。
マイナスも評価だ、そう思えるぐらいになれたらいいのに、と思いつつ難しいけど、そう考えていけたら…
マイナスばかりじゃ気が滅入るけど…

とりあえず始めたみたらいい。

2016年11月18日金曜日

期待されること やりたいこと

期待にこたえたい、でも…

自分の描く絵に自信がない。
けれど、だからこそ好きだと言ってくれる人の期待には応えたいと思う。
でも、なぜかいつだって自分がそうしたくてやっているんだと言い聞かせても、期待に応えることは自分のやりたいことを抑え付けて、相手が欲しいものを提供することだと感じていた。
彼、彼女らが好きだと言ってくれる絵は自分が好きで描いていたもののはずだったのに、期待に応えようとしてそればかり描いていると、でも、自分が描きたいのはこれだけじゃないのに…という気持ちになってくる。

何故かと考えているうちに、子供の頃のエピソードを思い出す。
絵が好きだという私を美術館に親がつれて行ってくれた。
だけど、小さいころから私が好きな絵というのはアニメや漫画の絵だった。
だからそういうものばかり描いていた。
親はいう。
美術館に飾られた、名画を指さして、漫画みたいなそういうのばかり描いてないで、こういうのを描きなさいと。
もちろん子供なので反発する。
そういう絵なんか描かない!と心に決めた。
多分その記憶が、期待に応えることは自分のやりたいことを抑え付けることなのだという認識になっているのだと思う。

やりたいことをしたい

やりたくてやっていたはずなのに、いつの間にか何もかもがやりたいことではなくなっていく。
期待を裏切らないように、嫌われないように…
そうしているうちに他の人たちの好きになるようにやってるのに、何も言ってくれない、なんで?と怒りが湧いてくる。
でも、そんな怒りもぶつけられずに抑えつけてだんだん何がやりたいのかわからなくなってくる。
感情が動かなくなる。

少しでも外へ

結局期待に応えることばかり考えていたのは、自分がやっていることに自信がないからなのだと思う。
だからついつい、今評価されている人たちの絵が嫌いになる。
こんなものと言いたくなる。
だって、好きだった漫画やアニメのイラストは、評価されるはずがないと心の奥底で思っているからだ。
そうじゃないと言葉でいくら言ってみても自分が信じ切れていないのだ。

でも、いつまでたってもそんな風に言ってたって何も変わらない。
そう思って絵の仕事を取りに行った。
今は出版社とかまわらなくても、簡単な仕事ならネット上で完結できるサイトが用意されている。
安く設定されているサイトならワンコインだからと頼む方のハードルも下がる。
とはいえ、はじめて購入されるまではやっぱり不安だった。
こんな絵誰が買うんだろうって。
でも、買ってもらえた。
数人だけど、買ってもらえたことは自信につながったと思いたい。

少しでも外に出してみたら、思っているより悪くなかったりして。

2016年11月15日火曜日

適度な運動は発想のタネ

運動不足は発想を停滞させる

絵を描いたり、文章を書いたり…そういう趣味をしているとついつい運動不足になりがち。
今じゃ資料集めだって、ネットでパパッと検索しちゃえるし、絵を描くことも執筆活動もPCやスマホ一つあれば可能。
PCでやってると、そこからほとんど動かなくなったりする。
そんな生活を続けていると運動不足になりがちである。

そんな生活続けていると、なんだか頭が働かない…これがうつ症状…?とか疑ってみたくもなる症状があらわれる。
でもうつというほど、精神的に追い詰められてないし、なんていうか頭の中がどんより曇り空、停滞しているだけという感じ。
そんな時に、ふと、運動不足にはラジオ体操がいいとテレビでやっていたので、記憶を頼りに(音をどこで手に入れるかわからなかった)ラジオ体操らしきものをやってみた。
運動不足の身体にはそれだけで効いた。
頭がはっきりしてくる。
脳に血が巡っているのがわかるかのようだった。

運動不足だと思考もネガティブになりがちだと実感した。
ネガティブになっているから、ちょっとした症状も重大なことに考えがちになっていた。
それだけでちょっと前向きになれた。

とはいうものの、続けるのは大変

効果を実感したのに、3日坊主。
一人暮らしならまだしも、家族と暮らしているとラジオ体操してるとか何となく恥ずかしい気もしてしまう。
ときどき、なんかやる気ないなぁと思ったときに、そうだ、運動不足だと思ってはやるぐらいになってしまった。
どうしたら続けられるのだろうか?

続けているものにヒントを探してみた

私は数年前から日記を書いている。
日記と言っても、ノートに思ったことをつらつら書いておくだけのノートで日々のことは記録されていない。
何故かというと、今日はこれがよかったとかそういう自分の感情を書くのが苦手だったからだ。
自分が読むだけなのに、何となく気恥ずかしさを覚えてしまう。
だから、思い付きだけをノートに記すようにした。
中身はほとんど、漫画やアニメの感想とか考察的なものとか、そこから思いついたネタとか…そんなもので、読みやすさも考えてないから思いついた順に、内容が前後しようが何だろうが全部描きだしておく。
それだけは、続けられた。
気楽なものだし、ネタ帳っぽいが読み返すつもりもない。
だからこそ、続けられた。

つまり、気負いしなければ続けられるのではないだろうか?

やりたいことをやろう

運動不足解消のために何をするか。
とくに興味のないことをやっても仕方がない。
運動不足で困ることって案外ないのだ。
病気の改善なんかで、やらねばならないという人は別にして、運動不足だなぁと思っている人はそこまで切羽詰まってないと思う。
切羽詰まっていればやりたくないことだってやるのだろうけど、何となくぐらいの理由ならやりたいことをやった方が続けられる。

とりあえず、どんなスポーツがあるのか調べるところから始めよう。

美術科教育を学んでみて私が思ったこと

絵心教室やってればいいんじゃね⁉

私は、教育学部にある美術科に通う学生だった。
教員になる気はないのになぜかゼミは美術科教育の論文を書くゼミに入っていた。
となると、教員にならなくても美術科教育について学ばねばならない。
指導要領を買ったり(すっごい安い)教育系の論文を読んだり…
そんなころ、3DSで絵心教室をやっていた。
絵がうまくない、うまくないから少しでもうまくなれたら…そんな一心でやっていた。
丁寧に導かれ、レッスンが終わるころにはお手本と似たような絵が描けている…美術を学ぶということは、入学前に入試用にデッサンなどをやるのだけど、だというのにこんなこと知らなかった!ということばかりで新鮮で面白かった。

さて、そこで気が付いた。
美術をやりたいという私は自分でもっと調べて絵心教室で知ったようなことを理解しておけばよかったのだけど、そもそも、こういう技術的な面は学校の美術じゃ教えてくれないじゃんということである。
指導は教員の裁量もあるから教えてもらったという人もいるかもしれないのだけど、少なくとも私は教わった覚えがない。
デッサンを教わったところだって、やってみて自分で気づく…という感じだ。
美術の教師っていったい何を教えているのだろうか?
そう思うと、絵画に関しては絵心教室をやらせておけばいいんじゃないか?という思いがずっとあった。

技術を知ると小手先の技術で表現の幅が狭くなる?

なんてイメージありませんか?
図工や美術は子供たちの自由に任せる、子供たちにのびのびと表現させる。
指導要領も、教える技術というのはどちらかというと彫刻刀の使い方だったり色の塗り方だったり…つまりは道具の使い方がメインだったと思う。
学生たちが考える美術の授業というのも、素材に触れさせて子供たちにその素材から自由に発想してもらってという感じだった。

でも、絵心教室をやった時、私が思ったことはただ一つ。
どうして、こういうことを学校では教えてくれなかったんだろう!

立体感の出し方、色の塗り方…確かに技術を知れば、すぐにでもそれが使いたくなる。
それを使いたいがゆえに表現が狭まってしまうことは考えられる。
でも、多分、後々その技術は何かを表現したいという時、一つの選択肢になるのだ。

某アイドルの農作業を思い出してもらいたい。
彼らはアイドルなのにいろんな知識を持っている。
実際にいろんな経験をして、さらには自分たちで農業の知識を得ているみたいだが、ああしてたくさん知っているからこそ、この状況にはこれ!という案を思いつけるのだと思う。

自由な発想にしたって発想の仕方を教えてはくれない

体で覚えろ…みたいな感じかな?
確かに素材に触れていると、こういう使い方あるかもみたいなものは浮かぶ。
でも、テーマについて考えると全然浮かばないよね。
資料を集めるっていうことを教わったのは大学に入ってからだ。
やってみた今では当たり前のように思えるけど、教わる前はそんなんじゃありきたりな、ありがちなものしか浮かばないんじゃないか…と思っていた。
でも、逆だった。
知れば知るほど、こういうのはどうだろう、それともこれは?という感じに思い浮かぶようになるのだ。
学校の美術の授業って今でも削減されたりしてるのかな?本当に少ないし、その中で描いていこうとすると、知っている知識を総動員してなんとかやりこなす…ということばかりだ。
資料を集める時間とかなかった。
宿題に出されたかもしれないが、他の課題とかやっていたら美術の優先順位は低く適当になる。

よく考えると、美術を教える教師というのは美術が好きな人間だ。
そういう人は、こうすればいいということを知っている。
でも、美術というビジュアル面を強化してきた人たちだから自分たちのやっていることを言語化することに慣れていない気がする。
美術作品の感想や考察はできるけど、発想することを言語化はあまりしないと思う。
というよりも当たり前すぎて、無意識のうちにやっているのかもしれない。
となると、教えられないのだ。
無意識だから。

ゲームに教え導かれる

全てがそうとは言えないが、ゲームって説明書を読まなくても進めるようにチュートリアルだったりそういったものが充実している。
プレイヤーに教えるのが上手い。
そういうことを考えてきたクリエイターが作るのだから、絵心教室もまた教え導くことが上手いのである。

美術教育を学んでいたころ、ゲームというと否定的な意見ももらったことがあるけれど、参考にできる部分っていっぱいあると思う。
ただ一つ言えることは、実際にやってみなきゃわからないんだってこと。

2016年11月11日金曜日

絵がうまくなりたい!の理由

美術を学んでいた学生時代の私の悩みについて…


悩みは、感動した美術作品というものがないことでした。
美術が好きな学生が集まれば、そういう話にだってなるわけだけど、私にはわかりませんでした。
もちろん、美術館に行ってあの絵に感動した!なんて子ばかりではないのですが。
このご時世、アニメや漫画が好きで、そういう絵を描く子たちだって集まってくるわけですから。

それでも、やっぱり彼、彼女らと自分を比べると、なんていうか、美術に向かう情熱?とかそういうものが足りない気がした…というか、明らかに足りないんですよね。
ずっと、だから、自分は本当は絵を描くことなんて好きじゃなかったんじゃないか?とかそんなことばかり悩んでいましたし、実際のところいまだに悩みます。
でも、それでも趣味は絵を描くことだと言ってしまいますし、絵が上手くなりたいとも思うんです。

絵を描き始めた理由

マンガやイラストが上手くなりたいから、その方法を検索してみるとそれらに混じってどうして絵を描き始めたのかを書いてるのを見かけたりします。
この漫画が好きだったからとか、このアニメのキャラの○○な姿が描きたかったからだとか。
でも、私の場合、絵を描くっていうのは保育園、幼稚園の頃に画用紙を与えれらてクレヨンでぐちゃぐちゃ描いてて…の続きみたいなものでした。
子供の頃に好きなキャラクターを描いていた延長線上に今現在の自分がいるわけです。
だから、絵を描き始めた理由も何もありません。

それなのに、ずっとずっと、そこを考え続けていました。
やっぱりそういう理由があった方が、見栄えがいいというか、かっこいいというかそんな気持ちで。
でも、考えれば考えるほど、延長線上にしかないなら、単にやめられなかっただけで好きとか嫌いとかじゃなくて、だから情熱も傾けられない…そんな風にしか思えませんでした。
いつしか、絵を描くことが嫌になっていました。

それでもやめなかった理由

一つは漫画研究会に所属していたことです。
私は一度始めるとなかなか抜け出せないもので、趣味のサークルなのだからそこまで所属意識持たなくてもいいはずなのだけど、最後までやり通さなければ…と思っておりました。
それゆえに、最後の学園祭で出す漫画を描くまではやめられませんでした。

そしてもう一つ…ある漫画にハマってしまったからなんです。
最後の学園祭も近づいていたころ。
ある人にとある漫画を紹介されました。
「聖闘士星矢」
名前は聞いたことあるけれど、見たことがない漫画。
それにハマってしまったのは、ちょうど学祭用の漫画を描き終り、もう絵を描かなくていいんだ!って思ってたときでした。
それなのに、ハマったら絵を描いてるんですよ。おかしいですよね。

聖闘士星矢を見たことがある人は、キャラクターが鎧を着ているのを知っているでしょう。
今まで、鎧を着たキャラクターなんて描いたことなかったのに、ここどうなってるんだ!?とか思いながら必死で描いてる。
もう描きたくない!とか言ってた人間が。

そして思いだす絵を描き続けていた理由

一つはそういう職業に就きたいというのがあったのですが…
実はもう一つあったことに気が付いたのです。

ゲーム好きだったので、ゲームの雑誌も買っていました。
そういう雑誌を買ったことがある人は知っているかと思いますが、読者投稿ページがあるんですよね。
そこに載ってるイラスト、結構うまい人がたくさんいました。
過去形なのはその雑誌休刊になっちゃいまして、多分それが絵を描きたくなくなった理由でもあるんです。
もう、載せてくれるところがない。
今はpixivとかあるじゃない、とか思うかもしれません。
でも、学生時代すでにpixivとかありました。
それでも、雑誌がよかった。
何となく投稿者たちに仲間意識を感じられたことと、この人に選んでもらいたいと思える編集者であったこと。
そして、その投稿誌の自由さが好きだったこと。
任天堂系のゲーム誌でありながら、PSやセガサターンの話題、テレビ番組やCM、古い漫画やアニメ…何でもあり、なんでも受け入れてくれる雑誌でした。
編集をされている方の知識が広いから、どんなネタでもコメントしてもらえるのです。
(まあ、もちろんわからないもの、面白くないものは外されていたと思いますが)
pixivだって自由です。何を載せてもいいわけですから。
でも、その自由さとは違います。
一度編集者というフィルターを通したうえでの自由です。
だから、まずは編集者に面白いと思ってもらえるネタを…と考えます。
不特定多数の人ではなくただ一人の編集者のために絵を描きネタを投稿していたのだと思います。

だからこそ、その場所がなくなってしまったとき、描く気がなくなってしまったのです。
嫌になってしまったのです。

だというのに、やっぱり絵を描き続けていた。
変化が怖いというのもあります。
やっぱり10年、20年続けていたものをなくすのは怖いです。
未だに怖いからこそ、絵がうまくなりたいのだと思います。
うまくなれば、何かが変わる。
続けていたものに変化があれば、周りだって変わる。
そう、信じたいのです。

2016年11月10日木曜日

常に考えていればいいアイデアが浮かぶなんて幻想

学生時代、一応美術を学ぶ学生でした。
教育学部の中にある美術科だったので、他の美術系大学とは違ってはじめから絵画とか彫刻に別れているのではなくて、ある程度全部やったうえで分かれていく形でした。
だから、今までやったことのないデザインなんかも課題を出されてひーひー言いながら考える日々でした。
その時に気が付いたことがあります。

常にそのことだけを考えていても何も浮かばない

アイデアを考えるときって、何となくそれだけを考えに考えていたら何かが降ってくる…そんなイメージをしておりました。
だから、与えられたテーマについて毎日毎日…は大げさですが考え続けておりました。
でも全然いいアイデアなんて思いつきません。
教授が示した、先輩方のよい作例に引っ張られて、いやいやそれじゃダメだろう…と思うばかり。
ついでに私は打たれ弱いもので、やっと考えたものにダメだしされるのが嫌で怖くて教授にこれはどうですか!なんて見せることもできず一人で悶々と考えるだけでした。

でも、学生ですので実際はずっとそれだけを考えているわけではありませんね。

他の授業で出された課題もやらなきゃいけないし、やっぱり学生ですからサークルやなんかで遊びたいし。
そういうときはデザインの課題の事なんか忘れています。
考えることなんてしません。
他の授業の課題をやるときはそれしか考えませんし、サークルでいるときは課題なんかすっかり忘れます。
それで、締め切り間際になって、あーまだ終わってない!とか思いながら、ありがちなデザインを提出して何となく終わらせる日々でした。

でも、たまには教授に受けのいいデザインを提出できるときもありました。
なんかふっと違うアイデアを思いつく瞬間があるんですよね。
それっていつかっていうと…

いいアイデアを思いつくのはほかのことを考えていたとき

だったんですよね。
例えば、他の課題をやっているときとか、立ち寄ったお店で何となく新商品を眺めているときとか。
なんだかふと、これってあの課題と組み合わせたらいいんじゃないか?と思いつく瞬間がありました。

なんでかな、というのを考えていたとき、生協の本売り場でふとこんなタイトルが目に入りました。
「思考の整理学」
帯に東大・京大でベストセラーなんて書かれていたら、ついつい手に取ってしまいました。

思い付きを寝かせよう


本の中にこんなことが書かれていました。
アイデアを考えることをお酒造りに例えて、醗酵させて寝かせて、カクテルにすると。
アイデアは寝かせることが大切なのだと。
読んだときはなるほどと思いました。
だから、それを読んでからは思い付きはとりあえずすぐにはネタとして外には出さないようにしています。
それは、デザインの授業の経験からも納得させられることでした。

すぐにパッと思いつくアイデアって、すぐに思いつくようなものだからありがちなんですよね。
自分では斬新なことを考えた!と思っていても、世にあふれていた…なんてことあったりしませんか?
デザインの授業でも、これはいい!と思ってやったものが、他の人も似たようなことしていた…なんてよくありました。
そして教授も言っていました。
すぐに思いつくことはありがちなのだと。

はじめはわからなかったけど、課題をやるたびにそれを実感していきました…いきましたとも。
まがい也にも芸術をやるとこに身を置いていたら、自分は発想がすごいに違いないと勘違いしておりました。
普通です。普通の人間です。

そんな人間でもたまにはホームランを打てる

どうやればいいかっていえば、アイデアをためておく…それだけです。
そのために、いろいろなことに触れなければなりませんが。
いつもと同じことをしているといつもと同じことしか思いつけません。
人間、刺激が大事です。

私の尊敬する漫画家である、車田正美先生も自伝(っぽい漫画)で言っておりました。
本を読むことが大事だと。
なんで本なのかといえば、私の考えですが、一番は経験することだけど、人間経験できることは限られていますし、例えば今の時代の日本に暮らしていたら戦争だとか殺し合いだとかそういうものは遠い世界ですしおこってほしくもありません。
でも、そういう知らない世界を知るって刺激になりますよね。
他人の考えたことを読むことで、自分にはないものを得られる。

それに、知識を蓄えると選択肢が増えます。
選択肢が増えたら、思いもかけない組み合わせをふと思いついちゃうんです。
どうしてかはわからないけど、なんか急にこれとこれは一緒にできるはずだ!って感じに。
でも、知ったことをすぐにネタにしちゃうとダメなんですよね。
人間、表に出すとそれで満足しちゃうことが多いんです。
創作する人がTwitterでなんでもかんでも呟いちゃうといけない…なんていう方がいるのは、当然といえば当然かなと思います。

それもあるから、ネタは寝かせて置けと思います。
ネタは寝かせておきましょう。
そうすると、頭の中で勝手に組み合わせがはじまるときが来るから。

あ、でも時事的なネタはさっさと出しとかないと旬が過ぎちゃいますからね!

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...