2021年4月3日土曜日

何故、朝なのか

 一時期「朝活」というものが流行った気がする。

朝、勉強や趣味をやって出かける。

今もやっている人はいるだろう。

しかし、何故朝なのか。


学生の頃、英語の予習があった。

授業のためにテキストを翻訳していく、ただそれだけ。

しかし、夜、テキストを開いても全く内容が入ってこない。

そこに書いてある単語の意味すらわからない。

どうにもならない。

仕方がないから、朝起きてからやろう、そう思って寝た。

朝。

またテキストを開いたら拍子抜けした。なんてことない文章、簡単な単語。

何故これがわからなかったのかと思うばかりだった。


しかし、よく考えてみれば簡単なことだった。

一日中使った脳と寝て疲労が取れた脳。どっちが働くかは簡単なことだ。

脳だって疲れる。最近脳疲労なんて言葉も聞いた。

疲れをとるために眠る。それは体だけじゃなくて脳にも必要なことだったというのをとても実感した。


つまり、朝、疲れも何もない状態の脳で勉強すればそれはそれははかどるし、趣味だって疲れのない脳の方が楽しめるはず。

とても単純なこと。

もし、今、勉強のために本を読まねばいけないのに読んでも読んでも入ってこない、文字が読めないという場合、もしかしたらそれは脳が付かれているのかもしれないということを一つ頭の中においておけば、今は休もうという選択肢を選べる。

時間は有限だ。だけど、休みも必要だ。

2021年3月31日水曜日

結局PC

 数年、いやもっと前か。スマホが普及して多くの人がスマホを持つようになったころ。

課題のレポートだってブログの文章だって、スマホで書けますみたいな記事、ブログを見かけた覚えがある。

当時の若者世代と呼ばれる人が、ほらみてこんなに長文書けるのよみたいな風に書いていた。

あるいは、漫画。

これ全部スマホで描いたという漫画が新人賞かなにか、とにかく賞をとっていた。

でも、どうだろう。その後、スマホで描いた文章、スマホで描いた漫画というのは話題に上がっただろうか。

もちろんSNSを見ればスマホで指で描きました!と言われて、ええ!?となるようなきれいなイラストもある。

だが、そういった人たちの中でも、画面がより大きいタブレットを買い、専用のペンで描くとこっちの方が断然描きやすい!といってる声も聞こえる。

スタンダードになったから、とりわけ話題に上げる必要もなくなったのかもしれない。

しかし、やはりスマホはスマホでしかないという声も時折聞こえてくる。


個人的な意見を言えば、絵を書くなら画面は大きい方がいい。とにかく大きく、タブレットサイズだって正直足りてない。

タブレットの話題になると、イラストレーターなどしている人はだいたいこういっていたように思う。

下書きやアイデアメモにはいいね、と。

本番をそれでは描かない。スマホならなおさら。

文字を打つのも大きい画面の方がいい。

スマホだと折り返しがすぐに来てしまう。画面に映る文字数は限られる。

画面が小さいから長文になると画面を探すのもめんどくさく、見返すのが大変だ。

見返さないというのであればいいけれど、レポートを書きっぱなしにするだろうか。


ピクトスクエアというサイトがある。

WEB上で同人誌即売会を開けるサービスだ。

そこは文章をいろいろカスタマイズできる…できるのだが、なんとHTMLタグを打ち込まないとできないのだ。

しかも入力範囲が何故か狭い。打ち込んでいけば広がる、ということもない。

だからとてもやりづらい。

メモ帳に打ち込んでコピペするのが楽である。

範囲が狭いということは、結局見づらい、打ち込みづらい。


別段、ただ生活するだけならスマホで事足りるだろう。

だが、何かを作るとかそうなったとき、多分スマホじゃ足りてない。

もちろん慣れがあるから、慣れているのなら別にいい。

ただ、結局使ったことがないのなら不足もなにもわからない。

とりあえず私は、画面は大きければ大きい方がいいと思ってる。

だって、そうじゃなかったら、画面の大きなPCは何のために存在しているのだろうか。

少なくとも、必要性があるから需要があるから製品として売り出されているのだ。

大きい方が、快適。

2021年3月20日土曜日

「その日」を越えた物語

個人的に思うことだけれど、人は誰も0から1を生み出すことなんてないと思っている。
その人がそれまで触れてきたもの、つまり、経験や知識が下敷きにあって生み出されているはず。
オリジナリティというのは、どれとどれを組み合わせるかの部分。
…だと思っている。
だから、大きな事件、事故、災害というものは、意識せずとも影響を与えているはず。

私は、ゼノブレイド2は10年前の震災後につくられなければあの物語には決してならなかったと思っている。
前作にもキズナトークというものやキズナグラムというものはあったが、物語において絆を強調することはさほどなかった。
けれど、ゼノブレイド2ではブレイドという人とは違う生命体とドライバーとい人間の絆を描き、絆という言葉を何度も言わせている。
「絆」は10年前の震災後幾度となく繰り返された言葉として記憶されている。
絆は本来馬をつなぎ留めておくためのものでいい意味なんかじゃない、なんて言われたのもあの後だった気がする。
あの日がなければきっとあの物語は別の形だっただろう。
私はそう思っている。

それを象徴するのはむしろ前作で好評だったキズナグラムというシステムだろう。
街の住人達にかかわると、キズナグラムに記録される。話しかけたり頼みごとを解決したりすると、住人それぞれの関係性も記録され変化していく。
そこに生きている人たちに関わって変わっていく変化を見ることが楽しいシステムだった。
しかし、ストーリーを進めると、一部の街の住人たちがある事件によってほとんど行方知れずになってしまう。
そうなると、キズナグラムに記録されていた住人たちのアイコンはグレーがかってしまう。
ゲーム上ではもうけっして会うことができなくなるという意味だった。
それはそれでとても心をえぐる演出であった。
ゼノブレ2においてそのシステムは導入されなかったが、DLCの黄金の国イーラという過去を描いたコンテンツで、ヒトノワという似たようなシステムが導入された。
こちらは住人同士の関係は記録されないが、主人公が彼らの困りごと頼みごとを解決するとヒトノワに加わっていくというシステムであった。
黄金の国イーラの結末は、本編をやっていればある程度想像がつく。
だから、前作をやった人の中にはいつこのヒトノワが失われてしまうか戦々恐々していた人もいただろう。
しかしだ。
ヒトノワを失う演出はなかった。
まず一つは、たとえ命が失われたとしても作り上げた人の輪というものはそう簡単に失われないということなのだと思う。
主人公が築き上げた人の輪がきっと未来につながっていた。
そしてもう一つは、あの状況で失われた命、生きている命、主人公たちには確かめようがないということなのだと思う。
キズナグラムにおいてグレーがかってしまう演出、ある意味これはとてもゲーム的表現だった。
実際問題、その場にいたわけでもない主人公たちに誰がいなくなったのかを知るすべはないのに、むしろグレーがかることでわかってしまう。
とても機械的な処理ともいえる。
だが、どうだろう。ゲームと比べるのはしのびないが、あの日の震災後誰が生きていて誰が亡くなってしまったのかなんてそう簡単に知ることはできなかったはずだ。
つまり、ヒトノワが失われる演出が存在しないというのはある意味とてもリアルに寄ったのだ。
あの瞬間、あの状況で、安否を知ることなど不可能。
そんなことは頭ではわかっていたことかもしれない。でも、あの日現実に突き付けられてしまった。
作った人間はそんなこと考えていないかもしれない。
でも、あの日を越えてしまったから、多分きっと心の中に残っている。
人は意識しない無意識に影響される。
意識していることだけがすべてではない。

だから私は思う。
今、このコロナ禍と呼ばれる日々を越えた先にある物語って何だろうと。
時は戻せない。不可逆だ。なかったことにはならない。
意識せずとも無意識に刻まれる。
「この日」を越えた物語がエンタメとして語られる日が来ることを待ちわびる。

2021年3月19日金曜日

長文を書くために必要なこと

 学生の頃、レポートというのは苦手だった。

2000字が埋められない。8割で大丈夫という噂を聞きつけ、なんとかちょっと多めに1800字ぐらいになるように本を見ながら、ネットで検索しながら、ほとんど写したような文章をPCに打ち込む(本来はいけない)

でも、大学生となれば卒論を書かねばならぬ。

2000字なんかじゃ足りない。それすら書けないのにどうしたらいいのだろうか。

そんなころ、ゼミの教授がこんなアドバイスをくれた。

「毎日、何かしらの文章を書くといいよ」

メールでも日記でも何でもいいから、とにかく長めの文章を常日頃から書いておこう。

そういうアドバイスであった。

アドバイスを貰った時は、まあ、そういうものだろうか。慣れが必要なのだろうか。それぐらいの理解だった。

はてさて今、改めて理解している。

あの頃なんとか卒論を書きあげたというのに、今この文章を打ち込むのだって難儀している。

あまり長文を書いてこなかったから。

書き慣れたはずの文章を書かずに放置した結果、書けなくなってしまっている。

あの頃、アドバイスをもらったからではないが、ある漫画にはまってしまって毎日卒論そっちのけで小説らしき文章を打ち込んでいた。

それのおかげか、以前よりはすんなりと卒論の文章も書けたので結果オーライではあったが。

とにかく、書き慣れていなければ文章というものは意外と書けないものなのである。


もう一つ、必要なものがある。

それは情報である。その文章を書くための資料である。

ただ、2000字のレポートが書けなくてヒィヒィ言っていた時だってもちろんレポートに必要な本を読んでいた。

問題は、読みながらレポートを書いていた点にあったのだろう。

必要そうな箇所をレポートに書き出す。

実はこれはレポートを書き出す前にすべきことだった。

必要そうな箇所を抜き出すのは、本番のレポートではなくてまずメモの方だった。

文章の書き方というのは習ったような習ってないような、そんなあいまいな記憶しかない。

ただ、学校行事の感想を書けと言われたら、用意された感想用紙という本番に書かされた記憶がある。

それだって何を書けばいいのかわからないで時間ギリギリまで悩むか、当たり障りのない分を書くかしかなかった。

必要だったのは、学校行事に参加して、何をやったのか、何を思ったのか整理する作業。

レポートだってなんだって同じこと。

本番を書く前に、集まった情報整理することこそ、文章を書くために必要な作業だったのだ。


というわけで、実はこれを打ち込んでいるのも、もう一度長文を書くことに慣れるための訓練みたいなものである。

文章とは、言語がわかれば簡単にかけそうでいて、思っているより難しい。

2021年3月18日木曜日

絵を描くモチベーションについて

 Twitterを眺めていたら、絵を描くモチベーションについてタイプ別に描いたイラストが流れてきた。

しかし、どれを見てもなんだかピンとこない。

なので、自分で考えてみることにした。


さて、考えるには手がかりがいる。自分がどんな時に絵を描いていただろうか。

しかし今まで何となく描いていたような気がするので、考えても思いつかなない。

なにせ、多分子供のころのらくがきの延長線上に延々と描き続けていたから。

でも、らくがきでもわっと描きたいときもあるし、特に書く気もおきない時もある。

ちょうど今は特に書く気もない時だったせいだろうか。

(だから、モチベーションについて気になったのかもしれない)

書く気になった時のことを何となく思い出す。

それは、ハマった漫画があった時。

ゲームで楽しんだとき。

それも、ただ楽しむだけでなく、その漫画やゲームについて考える時があった時。

どうしてそうなるのか、どうしてそんな行動をしたのか。

そんなことが気になった時。

もう一つは、誰かの創作でその考えはなかったとか、何か発見があった時。

刺激を受けて絵が描きたくなる。

あと一つ、何か作りたくなったとき。思いついたものを形にしたいとき。

そんな時だった気がする。


つまり、私は外から刺激を受けて何か書きたくなるタイプだったのだ。

絵を描くこと、創作することってなんだか内から湧き上がるものを形にするとかなんとかそんなイメージだった。

だから、内から湧き上がるもの、何か表現したいものがないということは絵を描くことが好きじゃないんじゃないかとかそんなことを考えてしまっていた。

でも、別にそうじゃないのだ、自分は。

そして、多分、それでいいのだと思う。

こうでなければならない、というものはない。

昔は、描き方だってこうでなければいけないみたいな考えがあった。

それをこだわりというのかもしれない。

でも、そんなこだわりもいらないのだ。描くことが嫌になるようならば。

最初に行った、Twitterで見かけたモチベーションについてのイラストにピンとくるものはなかったのだけど、でも、いろんなモチベーションがあってもいいと気づかせてもらった。

私はそう、外から刺激を貰わねばならないタイプだったのだ。

そう思って、とりあえずピンタレストを眺める日々。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...