2021年3月20日土曜日

「その日」を越えた物語

個人的に思うことだけれど、人は誰も0から1を生み出すことなんてないと思っている。
その人がそれまで触れてきたもの、つまり、経験や知識が下敷きにあって生み出されているはず。
オリジナリティというのは、どれとどれを組み合わせるかの部分。
…だと思っている。
だから、大きな事件、事故、災害というものは、意識せずとも影響を与えているはず。

私は、ゼノブレイド2は10年前の震災後につくられなければあの物語には決してならなかったと思っている。
前作にもキズナトークというものやキズナグラムというものはあったが、物語において絆を強調することはさほどなかった。
けれど、ゼノブレイド2ではブレイドという人とは違う生命体とドライバーとい人間の絆を描き、絆という言葉を何度も言わせている。
「絆」は10年前の震災後幾度となく繰り返された言葉として記憶されている。
絆は本来馬をつなぎ留めておくためのものでいい意味なんかじゃない、なんて言われたのもあの後だった気がする。
あの日がなければきっとあの物語は別の形だっただろう。
私はそう思っている。

それを象徴するのはむしろ前作で好評だったキズナグラムというシステムだろう。
街の住人達にかかわると、キズナグラムに記録される。話しかけたり頼みごとを解決したりすると、住人それぞれの関係性も記録され変化していく。
そこに生きている人たちに関わって変わっていく変化を見ることが楽しいシステムだった。
しかし、ストーリーを進めると、一部の街の住人たちがある事件によってほとんど行方知れずになってしまう。
そうなると、キズナグラムに記録されていた住人たちのアイコンはグレーがかってしまう。
ゲーム上ではもうけっして会うことができなくなるという意味だった。
それはそれでとても心をえぐる演出であった。
ゼノブレ2においてそのシステムは導入されなかったが、DLCの黄金の国イーラという過去を描いたコンテンツで、ヒトノワという似たようなシステムが導入された。
こちらは住人同士の関係は記録されないが、主人公が彼らの困りごと頼みごとを解決するとヒトノワに加わっていくというシステムであった。
黄金の国イーラの結末は、本編をやっていればある程度想像がつく。
だから、前作をやった人の中にはいつこのヒトノワが失われてしまうか戦々恐々していた人もいただろう。
しかしだ。
ヒトノワを失う演出はなかった。
まず一つは、たとえ命が失われたとしても作り上げた人の輪というものはそう簡単に失われないということなのだと思う。
主人公が築き上げた人の輪がきっと未来につながっていた。
そしてもう一つは、あの状況で失われた命、生きている命、主人公たちには確かめようがないということなのだと思う。
キズナグラムにおいてグレーがかってしまう演出、ある意味これはとてもゲーム的表現だった。
実際問題、その場にいたわけでもない主人公たちに誰がいなくなったのかを知るすべはないのに、むしろグレーがかることでわかってしまう。
とても機械的な処理ともいえる。
だが、どうだろう。ゲームと比べるのはしのびないが、あの日の震災後誰が生きていて誰が亡くなってしまったのかなんてそう簡単に知ることはできなかったはずだ。
つまり、ヒトノワが失われる演出が存在しないというのはある意味とてもリアルに寄ったのだ。
あの瞬間、あの状況で、安否を知ることなど不可能。
そんなことは頭ではわかっていたことかもしれない。でも、あの日現実に突き付けられてしまった。
作った人間はそんなこと考えていないかもしれない。
でも、あの日を越えてしまったから、多分きっと心の中に残っている。
人は意識しない無意識に影響される。
意識していることだけがすべてではない。

だから私は思う。
今、このコロナ禍と呼ばれる日々を越えた先にある物語って何だろうと。
時は戻せない。不可逆だ。なかったことにはならない。
意識せずとも無意識に刻まれる。
「この日」を越えた物語がエンタメとして語られる日が来ることを待ちわびる。

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