2022年1月16日日曜日

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。

いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。

メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人の気分なんて簡単に変化する。

2022年1月15日土曜日

2000字という魔物

 当ブログで一番読まれているのは「2000字書くのに苦労した私が3日で一万字書いた方法と物語の組み立て方」という記事です。

卒論時期だろう頃になるとアクセスが伸びるので、皆さんもとても苦労してるんだなぁと感じます。

私は文系といえば文系なのですが、教育学部の美術系学科だったので受験もテストがあるところもありましたが受かったところはセンター試験(今は共通テストというそうで)デッサンのみのところでした。

小論文を受ける場合もあるので学校で指導はありましたが簡単な指導でしたし、絵を描く人って多分文章で表せないから絵を描いている部分もあり…レポートって苦手でした。

大学で入学時にレポートの書き方の指導もありましたが、今まで書くことが全然なかった割に人間なんとか書けるだろという気分であまり真剣に聞いてなかったりする。

文章って子供のころから作文とか書かされてるから、書けないということはない、みたいに思ってしまう。

でも、ちゃんと組み立てた文章を書くことを全然してないので、書けないのは当たり前なんですよね。

そして、何となくそれでも乗り越えてきちゃったのでいざ2000字なんて超えて1万とか言われたらわからなくなる。

まだ時間があるならば、なんでもいいから文章を書いてみることです。SNSの短文だとあまりよくないです。長文を書くには長文を書かないと慣れません。

書き散らしているうちに、書くのはなれます。書く時に思いついたまま打つのではなく、先に何を書くか考えて組み立てたら論文を書く練習にさらになると思います。

とりあえずやり始めることが、やる気を出す方法だとどこかで言ってました。まずは描きだしてみたらいかがでしょうか。

2022年1月14日金曜日

3日坊主になる自分が継続する方法

 人のやる気は3日も持たない

公募ガイドという雑誌を買ってきた。表紙の「それって「当たり前」?」という見出しが気になったからだ。

公募ガイドはその名の通り、いろんな種類、いろんな会社のアートだったり小説だったりの募集内容が集められた雑誌で、小説の書き方や心構えなどの特集記事も載っていたりする。

今回の特集は創作を行う人がこうしなければならないと思っているだろう当たり前を見直す記事だった。

その中で一つ個人的に衝撃を受けた部分が、人のやる気は3日も持たないということだった。

やってみよう!と思った一日目はもちろんやる気に満ち溢れている。

しかし、脳科学的に見ると二日目になるともう一日前よりはやる気が落ち、3日目にはかなり落ちているというのだ。

つまり、何かをやるのにやる気で図ろうとすると3日ぐらいしか持たない、いわゆる三日坊主というものになる。脳科学的には仕方のないことだったのだ。

 

 大事なのは継続することを意識せずに続けられること

人はやる気が続くようにはできていない、とは言ってもやはり3日ぐらいでやめてしまっては技術をあげることはできない。3日やってもう満足というのならそれはそれでいいのだが、何かしら技術を得たいとかそういうものは続けられた方がいいだろう。

記事に書いてあったが、そういう場合やる気が出ないことを克服することより、どうしたら継続を意識せずに技術をあげられるかを考える方が効率がいいとのことだった。

私自身、なかなか何をやっても続く方ではなかった。

夏休みの宿題は一行だけ描けばいい日記ですら毎日なんて書けなくてまとめて書いていたのを思い出す。

これがやらなければならないことならやる気があろうとなかろうとやるわけだが、それでも締め切りが差し迫るまでなかなか手を出せなかったりもするし…

でも、最近毎日続けていることがある。誰にも見せない、日記だ。

続かない私が続けられるように書く日記

以前本で日記を書くと良いと読んでから、続けている。といっても、日記なんて続けて描いたことがない私は、はじめる前からどう考えても2.3日書いて終わってしまうだろうと思った。

だから、対策をした。

まず、手書きがいいと書いてあったので書くためのノートをなるべく手元に置くことにした。

日記というと一日の終わりに机に向かって今日のことを整理して…みたいな感じで書くのを想像するけれど、それは続かなかったからまずやめた。

そして書くことは何でもいいことにした。

何か思いついたらノートに書く。それが今の怒りなりなんなりであったり、妄想であったり、なんでもいい。

今日の出来事がないものは日記と呼べないかもしれないが、まあ、人に見せるわけでもない。

読んだ日記の本には書き方の指定があったので、日記がいいというところの効果は発揮されないかもしれないけど、とにかく書くハードルを下げることに専念した。

最後にもう一つ、ノートは小さめのA5サイズ、分厚くないものに、ペンは書きやすいものにした。

ペンの書きやすさは、書くモチベーションにつながる。書きにくいとそれだけで書く気もなくなってしまうものだ。

だからノートの紙の方も重要だった。今や100均でなんでもそろうが、100均じゃない方がいいと思っている。もちろん100円でもいいものはあるんだけど、書き心地が試せないのでいい描き心地の物を探すなんてしてたら逆に高い買い物になりかねないし、質がそこまで安定してないから100円なのである。いい時もあれば、悪い時もあったりする。それならば、実はプライベートブランドで100円しないノートの方がよかったりすることもある。

そして、サイズ。あまり小さすぎても量が書けないが、大きすぎても埋めるのが大変だ。

内容より埋まっていくことが大事で、毎日書いても書くことがあまりなくて空白が多いとなんだか気分がよくない。

私は一日の分は一ページに、書くことが増えたらページを増やしてもいいが、余白が残っても次の日をその続きには書かないようにしているので、A5サイズが程よく埋まるし、余白が残ってもまあいいかという気分になるサイズだった。

最初はぎっちり書いていたのだが、そうするとなかなか一冊終わらない。

やはり一冊書き切ると気分が上がる。次も書きたくなる。

だから、小さめでかつ薄いノートがいいと思っている。

一度、いちいち買いに行くのは面倒だと分厚いノートを買ったのだが、なかなか終わらないので若干やる気も落ちていた気がする。

継続するには

やる気を出そうとしたり、やるぞ!と気合を入れてやるよりも、気がついたらやっていたみたいな感じで習慣化してしまう方が楽だ。

だから、何かやりたいことがあるならまず身近に置く、置くことができないならとりあえずそれをやれる場所の近くにいることが大事だと思う。

絵を描く人が、まずは絵を描くPCなりなんなりの前に座って電源を入れることを習慣化しようといっていたのを見たことがある。

今はタブレットなどでもかけるのでハードルは下がったが、電源を入れて立ち上がるのを待つのを案外億劫だったりする。

そう、まずはハードルを下げるのも大事だ。

綺麗に整った文章、丁寧に描きあげげたイラスト、そうでなければいけない、と思い込むのではなく、まずは適当な文章になってない箇条書き、ラフでもいい。

ただ、これにはちょっと罠があって、そればかり描いてるとそれが癖になる。これも公募ガイドの記事にあった話で、完成させなければ技術が向上しないということはないけど、完成させないで次々書いてるとそれが癖になってしまうそうだ。

きちんとしたものを作りたいのであれば、思いついた大作なりなんなりは完成までもっていきたいところだ。

ハードルを下げて習慣化できれば、続けることは苦労じゃなくなる。それでも時々嫌になることもあるが、そういうときもちょっとだけできることを設定しておいてそれでOKとしてしまえるようにしておけば、あの日はできなかったと自己嫌悪することも減る。

そして続けられているということは案外自信にもつながったりする。

とにかく始めたらいいと思う、ハードルは下げて。


眠る星の夢

 真冬の空はしんと静まり返っていた。

凍るように冷たい光がぽつりぽつりと空に飾られている。

今、星は眠っている。

あたたかな春を迎えるまで、眠りについている。

瞬きは星の寝息。

遠い世界でただ春を待ち続けている。

2021年4月3日土曜日

何故、朝なのか

 一時期「朝活」というものが流行った気がする。

朝、勉強や趣味をやって出かける。

今もやっている人はいるだろう。

しかし、何故朝なのか。


学生の頃、英語の予習があった。

授業のためにテキストを翻訳していく、ただそれだけ。

しかし、夜、テキストを開いても全く内容が入ってこない。

そこに書いてある単語の意味すらわからない。

どうにもならない。

仕方がないから、朝起きてからやろう、そう思って寝た。

朝。

またテキストを開いたら拍子抜けした。なんてことない文章、簡単な単語。

何故これがわからなかったのかと思うばかりだった。


しかし、よく考えてみれば簡単なことだった。

一日中使った脳と寝て疲労が取れた脳。どっちが働くかは簡単なことだ。

脳だって疲れる。最近脳疲労なんて言葉も聞いた。

疲れをとるために眠る。それは体だけじゃなくて脳にも必要なことだったというのをとても実感した。


つまり、朝、疲れも何もない状態の脳で勉強すればそれはそれははかどるし、趣味だって疲れのない脳の方が楽しめるはず。

とても単純なこと。

もし、今、勉強のために本を読まねばいけないのに読んでも読んでも入ってこない、文字が読めないという場合、もしかしたらそれは脳が付かれているのかもしれないということを一つ頭の中においておけば、今は休もうという選択肢を選べる。

時間は有限だ。だけど、休みも必要だ。

2021年3月31日水曜日

結局PC

 数年、いやもっと前か。スマホが普及して多くの人がスマホを持つようになったころ。

課題のレポートだってブログの文章だって、スマホで書けますみたいな記事、ブログを見かけた覚えがある。

当時の若者世代と呼ばれる人が、ほらみてこんなに長文書けるのよみたいな風に書いていた。

あるいは、漫画。

これ全部スマホで描いたという漫画が新人賞かなにか、とにかく賞をとっていた。

でも、どうだろう。その後、スマホで描いた文章、スマホで描いた漫画というのは話題に上がっただろうか。

もちろんSNSを見ればスマホで指で描きました!と言われて、ええ!?となるようなきれいなイラストもある。

だが、そういった人たちの中でも、画面がより大きいタブレットを買い、専用のペンで描くとこっちの方が断然描きやすい!といってる声も聞こえる。

スタンダードになったから、とりわけ話題に上げる必要もなくなったのかもしれない。

しかし、やはりスマホはスマホでしかないという声も時折聞こえてくる。


個人的な意見を言えば、絵を書くなら画面は大きい方がいい。とにかく大きく、タブレットサイズだって正直足りてない。

タブレットの話題になると、イラストレーターなどしている人はだいたいこういっていたように思う。

下書きやアイデアメモにはいいね、と。

本番をそれでは描かない。スマホならなおさら。

文字を打つのも大きい画面の方がいい。

スマホだと折り返しがすぐに来てしまう。画面に映る文字数は限られる。

画面が小さいから長文になると画面を探すのもめんどくさく、見返すのが大変だ。

見返さないというのであればいいけれど、レポートを書きっぱなしにするだろうか。


ピクトスクエアというサイトがある。

WEB上で同人誌即売会を開けるサービスだ。

そこは文章をいろいろカスタマイズできる…できるのだが、なんとHTMLタグを打ち込まないとできないのだ。

しかも入力範囲が何故か狭い。打ち込んでいけば広がる、ということもない。

だからとてもやりづらい。

メモ帳に打ち込んでコピペするのが楽である。

範囲が狭いということは、結局見づらい、打ち込みづらい。


別段、ただ生活するだけならスマホで事足りるだろう。

だが、何かを作るとかそうなったとき、多分スマホじゃ足りてない。

もちろん慣れがあるから、慣れているのなら別にいい。

ただ、結局使ったことがないのなら不足もなにもわからない。

とりあえず私は、画面は大きければ大きい方がいいと思ってる。

だって、そうじゃなかったら、画面の大きなPCは何のために存在しているのだろうか。

少なくとも、必要性があるから需要があるから製品として売り出されているのだ。

大きい方が、快適。

2021年3月20日土曜日

「その日」を越えた物語

個人的に思うことだけれど、人は誰も0から1を生み出すことなんてないと思っている。
その人がそれまで触れてきたもの、つまり、経験や知識が下敷きにあって生み出されているはず。
オリジナリティというのは、どれとどれを組み合わせるかの部分。
…だと思っている。
だから、大きな事件、事故、災害というものは、意識せずとも影響を与えているはず。

私は、ゼノブレイド2は10年前の震災後につくられなければあの物語には決してならなかったと思っている。
前作にもキズナトークというものやキズナグラムというものはあったが、物語において絆を強調することはさほどなかった。
けれど、ゼノブレイド2ではブレイドという人とは違う生命体とドライバーとい人間の絆を描き、絆という言葉を何度も言わせている。
「絆」は10年前の震災後幾度となく繰り返された言葉として記憶されている。
絆は本来馬をつなぎ留めておくためのものでいい意味なんかじゃない、なんて言われたのもあの後だった気がする。
あの日がなければきっとあの物語は別の形だっただろう。
私はそう思っている。

それを象徴するのはむしろ前作で好評だったキズナグラムというシステムだろう。
街の住人達にかかわると、キズナグラムに記録される。話しかけたり頼みごとを解決したりすると、住人それぞれの関係性も記録され変化していく。
そこに生きている人たちに関わって変わっていく変化を見ることが楽しいシステムだった。
しかし、ストーリーを進めると、一部の街の住人たちがある事件によってほとんど行方知れずになってしまう。
そうなると、キズナグラムに記録されていた住人たちのアイコンはグレーがかってしまう。
ゲーム上ではもうけっして会うことができなくなるという意味だった。
それはそれでとても心をえぐる演出であった。
ゼノブレ2においてそのシステムは導入されなかったが、DLCの黄金の国イーラという過去を描いたコンテンツで、ヒトノワという似たようなシステムが導入された。
こちらは住人同士の関係は記録されないが、主人公が彼らの困りごと頼みごとを解決するとヒトノワに加わっていくというシステムであった。
黄金の国イーラの結末は、本編をやっていればある程度想像がつく。
だから、前作をやった人の中にはいつこのヒトノワが失われてしまうか戦々恐々していた人もいただろう。
しかしだ。
ヒトノワを失う演出はなかった。
まず一つは、たとえ命が失われたとしても作り上げた人の輪というものはそう簡単に失われないということなのだと思う。
主人公が築き上げた人の輪がきっと未来につながっていた。
そしてもう一つは、あの状況で失われた命、生きている命、主人公たちには確かめようがないということなのだと思う。
キズナグラムにおいてグレーがかってしまう演出、ある意味これはとてもゲーム的表現だった。
実際問題、その場にいたわけでもない主人公たちに誰がいなくなったのかを知るすべはないのに、むしろグレーがかることでわかってしまう。
とても機械的な処理ともいえる。
だが、どうだろう。ゲームと比べるのはしのびないが、あの日の震災後誰が生きていて誰が亡くなってしまったのかなんてそう簡単に知ることはできなかったはずだ。
つまり、ヒトノワが失われる演出が存在しないというのはある意味とてもリアルに寄ったのだ。
あの瞬間、あの状況で、安否を知ることなど不可能。
そんなことは頭ではわかっていたことかもしれない。でも、あの日現実に突き付けられてしまった。
作った人間はそんなこと考えていないかもしれない。
でも、あの日を越えてしまったから、多分きっと心の中に残っている。
人は意識しない無意識に影響される。
意識していることだけがすべてではない。

だから私は思う。
今、このコロナ禍と呼ばれる日々を越えた先にある物語って何だろうと。
時は戻せない。不可逆だ。なかったことにはならない。
意識せずとも無意識に刻まれる。
「この日」を越えた物語がエンタメとして語られる日が来ることを待ちわびる。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...