2017年3月27日月曜日

グラフィックの綺麗さと私のイラストの好み

ゲームを遊び感想をネットで検索すると、時折このゲーム機は低性能だからグラフィックが汚いとかそんな感想というか批判というかそんな意見を目にする。
ゲーム機の性能は私が子供の頃よりずっとあがってきていて、子供の頃に目にしたゲームと比べれば今のゲームのグラフィックの進化は驚くほどである。

確かに、他人のプレイを見ていてPS4のゲームというのはグラフィックがすごい。
FFとかバイオハザードとかリアルなグラフィックはすごいなと思う。
しかし、思う反面、私にとってFFとかバイオハザードが魅力的でないせいか、グラフィックが綺麗だからといって遊ぶ気にはならない。
個人の意見だが、私がグラフィックで感動したものを思い返せば、決して解像度が高いとか、精彩に描かれているとかそんなものではない。
私が綺麗だと思ったゲームをいくつか挙げてみよう。

N64「スーパーマリオ64」

このゲームのすべてを綺麗だと思ったわけではない。
ピーチ城内の隠しステージ的な部分がとてもきれいだと思ったのだ。
それは、城の中の一室のような場所なのだがすべてが水に満たされた場所だった。
そこは青くもなんともないのに、マリオが宙を浮き、泡が立ち、水中にいたモンスターがそこにいる、ただそれだけで水中に見えたのだ。
スターをとってしまえばあとはもう何もないのだけど、ただただその水中感が好きだった。

GC「ピクミン」

まるで本物の庭先のような、そんなグラフィック。
今見たらそうでもないのかもしれないが、とてもリアルに描かれているように思えた。
草木や水の感じが本物っぽいのだ。
私が任天堂のゲームで一番感動するグラフィックって水の表現。
スーパーマリオサンシャインのような少々アニメちっくに描かれた水もピクミンのようにリアルタッチに描かれた水も、なんというか他の私が遊んだゲームと比べると水っぽく感じられるのだ。

Wii「ゼノブレイド」

はっきりいうと、当時発売されていたPS3、XBOX360、それらのゲーム機に出ていたゲームに比べれば、画面はジャキジャキしていたし、見た目は綺麗と言えない。
ただ、それでも綺麗だと言いたい。
だって、とてもきれいに、魅力的に見えたのだから。
風に揺れる草、どこまでも走っていける大地、そこで暮らしているモンスターたち…
このゲーム、高低差をつけたマップがとてもセンスがいい。
遊んでいるからこそ思い入れがある分もあるだろうから公平には比べられないけど、時折テレビで見かけたFFの画面よりも魅力的だった。
従来のゲーム、特にRPGでは崖や水辺というのはそれ以上進めない記号だった。
それをなしにして、いくらでも飛び降りて走り回って水中も進める。
それがグラフィックの魅力を増してくれたのだと思う。
やってないから正しくないかもしれないが、FFはやはり私の中で従来のRPGである認識があった。
いくら綺麗でも、その世界を自由に走り回ることはできない。
そう思うと魅力的に見えなかったのだ。

NS「ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド」

リアルではなくアニメちっくなグラフィック。
それでも、その世界は生きていると感じさせてくれた。
風が吹けばその方向に草木はなびき、雲も流れる。
雨が降れば岩肌を水が流れ、火は消える。
朝日が昇る瞬間、夕日が沈む瞬間。
冒険の最中にふと気が付く瞬間がとてもきれいなのだ。
まるで、家の中にいてふと窓を見上げたら見えた夕日の綺麗さみたいに。
眺めているといろんな発見がある。
それらを探しに行くのがとても楽しいのだ。
生えている木も地方によって種類がある。
白樺っぽい木が生えている場所、バナナのような木が生えている場所。
現実の暑い場所、寒い場所を考えると確かにそうだよなと思えるものがちゃんとそこにある。
ただそれだけでも、リアルさを感じられるのだ。
しっかり世界観が作られている。
だからこそ、美しいのだと思う。

個人的なイラストの好みについて

さてさて、突然だが私のイラストの好みについて述べたい。
何故かというと、リアルなグラフィックよりアニメちっくな方が好きな理由が簡単にわかるから。

絵を描く理由は人それぞれだ。
好きなものを描きたいとか、好きな画家がいるとか。
私は子供の頃の延長線上で書いているようなところがあったので、絵を習っていると好きな画家を聞かれたりしたときになにも答えられなくて、ちょっとコンプレックスみたいに思っていた。
でも最近ふと気が付いたのである。
子供の頃、人間の絵を描くとき、髪の毛は鉛筆で一本一本引いていた。
しかし、ある時少年漫画で好きなキャラクターができてそれを描くために模写していたら気が付いたのだ。
一本一本描かなくても、髪型を縁をとるように描いていくと髪の毛に見えるのだと。
しかも、なびいたりするのだってちゃんと表現できる。
子供の頃の私には大発見だった。
それに写真の存在があった。写真さえあればリアルに描く必要なんてない。
そう思ったら、リアルなグラフィックというものにあまり魅力を感じることはなくなったのだ。
そしてだからこそ、アニメちっくなグラフィックに魅力を感じるようになったのだと思う。

ゲームにおけるグラフィックの魅力

私が魅力に感じる点を考えると、手触りが重要なのだと思った。
見た目の綺麗さだけではなくて。
ゲームとアニメ漫画の違いは触れられることにある。
触れられるからこそ、触れたら反応が返ってくるからこそ、より魅力的に映る。
ただただ、高精細に描かれただけじゃ、はりぼてと一緒だ。
リアルに描いただけで息切れするぐらいなら、アニメちっくで構わない。
(アニメちっくに描く方が楽だ、とも思わないけれど)
やっぱりゲームは見ただけじゃ、わからないなと思った。

2017年3月17日金曜日

死んで覚えるトライ&エラー ゼルダの伝説ブレスオブザワイルド 

3月3日にNintendoSwitchが発売されました!

はやいもので、もう2週間…好評なのか、増産も決定したようですね。
私も買いましたよ!
思ったよりも小さいというか、スリムというか。
コンパクトで置き場所に困らないのがいいですね。

買ったソフトはもちろん「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」

PVでリンクが世界を走り回っているのを見て、楽しそうだな~と思っておりました。
今は、時間があればハイラルに入り浸っております。
ネットでこんなことができる、あんなことができるとネタを仕入れるとついついやってみたくなっちゃうし、こういうことできるんじゃないか?と考えて試して、実際できるとそれも面白くて。
これだけ試したら終わりと思ってたのに、他の事も試したくなっちゃってついつい2,3時間遊んじゃったりしてます。
自制心が問われるゲームですね(笑)

私は時のオカリナ3Dしかクリアしたことないんですが(やったことがあるのも、あとムジュラの仮面と夢を見る島DX)それ以上に、失敗して覚えることがたくさんありますね。
何度ゲームオーバーの画面を見たことか。
でも、今までと違ってオートセーブがあり比較的近いところから再開できるので、死んでもあんまりストレスにならずよし!次はこうしよう!とか思えるのがいいですね。
何度もボスキャラにやられながら戦い方を覚えて、撃破できた時はうれしいものです。

さて、時々ゲームにおける死の描写とそれにまつわるあれこれを書き綴ってみてるわけですが、今回は死にまくりのゼルダ。
ゼルダにおける死、というかたいていのゲームの死というのは=失敗ということですよね。
ゲームにおける死は軽いかと言われれば、失敗した程度、やり直しがきくとなれば、やっぱり軽いと言わざるを得ないかもしれません。
ゲームプレイ上の死というのは、もうこれ以上動けません、動かせませんという記号でしかないのです。
一番プレイヤーにとってわかりやすい失敗がライフがなくなること、死、というだけなのです。

さて、だからと言ってストーリー上の死まで軽くなるのかといえば、意外とそうでもない。
今回のゼルダは、かつての記憶を取り戻すことでストーリーが進行していくわけですが、その中で死んでいくものもいます。
ゲームプレイ上の死とは違う、覆らない死。
ストーリー上の死に対して、リセットすればいいじゃんと考える人は多分いないと思います。
リセットという行為は、死をなかったことにするのではなく、自分の失敗をなかったことにする行為なのですから。
ストーリー上の死は、自分の失敗ではないのです。

ゲームの場合、アニメや漫画と違う点は、ストーリーが語られる間にプレイヤーが遊ぶ時間があることだと思います。
ストーリーは点在し、それをつなげる過程がプレイヤーにゆだねられているのです。
ある意味、ストーリーを見るというのはそこまでたどり着いた御褒美なのだと思います。

ゲームプレイ上の死が重たければ、何度も挑戦する気になんかならないでしょう。
失敗できない。
現実世界でも、失敗できないと緊張してうまくいかないことはあるはずです。
ゲームは娯楽なんですから、そんな緊張ずっとしてなきゃいけないなんて言われたら、私は遊びたくないです。
ゲームの死が、軽くたっていいじゃないと思います。
ちゃんと死の重たさを知っているのならば。

2017年3月5日日曜日

リセットと命の重さーリセット上等ファイアーエムブレム

最近はどうだか知らないけど、私が子供の頃には「ゲームは死んでもリセットすれば簡単に生き返る。だから命を軽視する」というような批判がされていた。
わざわざリセットしなくても生き返るけど…とか子供の頃に思ったものだけど、まあ、それは置いといて。

簡単に生き返ることが命を軽視することになるのかどうか、ふと、2012年発売のファイアーエムブレム覚醒と2002年発売のファイアーエムブレム封印の剣を遊んでいて思った。
ファイアーエムブレムシリーズは、CMで手ごわいシミュレーションなんて歌っていたりして、死んだ仲間は生き返ることはないゲームだ。
どういうことかというと、戦いの最中にHPが0になると二度とゲーム上では扱えなくなるのだ。
復活の呪文とかアイテムとかそういったものは存在しない。
生き返らせるには、その死をなかったことにする以外ない。
生き返らせたければ、リセットする以外ないのだ。
つまり、批判されていた「リセットすれば簡単に生き返る」ゲーム。
そんな手ごわいシミュレーションゆえに初心者は敬遠しやすい。
だから近年、カジュアルモードというモードが搭載されるようになった。
このモードでは、HPがなくなったキャラクターは戦線から撤退した扱いになるので、次の戦場へ移れば再び扱うことができるようになる。
私はシミュレーションゲームというのがどうも苦手で封印の剣は結局途中で詰まってしまった。
そんな私にとって、カジュアルモードというのは救いの一手のようにも思えた。

下手くそな人間にとっては、とてもよいモードである。
しかし、ふと、なんだか命を軽く見ているようなそんな気分になった。
死んだわけではないのだけれど。
それまではマップクリアと味方の犠牲をなくすことを両立させようと必死だったのに、死なないならクリアが優先ということになってしまったものだから、最初は撤退に対してもうまくいかなかったな…とか残念がったものなのに、慣れてくるとこいつ防御力低いなとかそんなことしか思わなくなっていた。
リセットすれば生き返る方が、ずっと、キャラクターを大事にしていた気がする。

リセットすれば生き返るということを言いだした人は、一つわかっていないことがあったのだ。
最近は直前からやり直せるゲームもあるけれど、私が子供の頃のゲームの大半は、セーブしたポイントからしか再開できなかった。
セーブできるポイントもだいたい決まっていた。
頑張って進めて、もうすぐクリアできるところまで進んでいた。
リセットするということは、その頑張った記録をなかったことにして、やり直すということなのだ。
ファイアーエムブレムの場合、マップ開始のはじめしかセーブできなかったから、いいところまで行っていたとしても、はじめからやり直しということになる。
リセットするということは、死以外のゲーム上の経験もすべてをやり直すことなのだ。
それも、数十分、長いと1時間とか2時間とかかけた時間をすべてだ。
生き返えらせるということは、代償がある。
だからこそ、慎重になる。
だからこそ、死が重たかった。

つまり、結局のところ、リセットと命の重さ、軽さは関係なくて、いかに描写するか、どう扱うのか、ということに尽きる。
カジュアルモードは、そのマップで使える兵士が一人減る以外の代償がないから、別にいいかと思えてしまうだけなのだ。
例えば、撤退回数が上限を越したら、兵士としては引退、二度と使えなくなるとかそういうシステムであればもう少し考えるかもしれない。
ゲームのシステムというのは意識しないかもしれないけど、ストーリーや目に見えるキャラクターや背景と同じく世界観をあらわしてくれるもの。
キャラクターのパラメータを見て、このキャラクターは筋骨隆々の見た目通り力が伸びやすいんだとか、戦士なのに意外と魔力が伸びやすいとかそんな個性を感じたりしたことないだろうか。
RPGとか、ああいうゲームプレイの合間にストーリーが差し込まれるタイプのゲームはストーリーよりゲーム部分に触れてる時間が長い。
だから、見た目は好みじゃなくても戦闘で使いやすいキャラクターに愛着が湧いたりなんてこともあったりする。

触れられる部分すべてが、ゲームの世界を作り出す。
リセットすることさえも、ゲームの一部。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...