2017年10月6日金曜日

手早く綺麗な絵を描くなら、資料を見ることが一番

「絵が描ける」人の間違ったイメージ

「絵が描ける」と言われてどんなふうに思うだろう。
私が子供の頃は、絵を描くプロというのは何もみないでサササッと描けるものだと思っていた。
プロだもの、見本なんて必要ない。
想像したものを思いのままに描ける、それが絵が上手いということ。
そんなイメージしたことないだろうか。
それに漫画家なんかがサインを描くとき、ササっとペン一本でイラストをつけて描いてくれる。
そういうものが目について、実際どんな風に描いているかなんて知る由もない。
それでも、最近は漫画家の作画風景をテレビやネットで見ることができるようになったから、そういうのも減ってきたのかもしれないけど。
でも、それだって、作画している部分だけで、資料を見るとかそういう部分はあまりうつさない。
写すとしても、例えば発想の元になったものとかそんな風に紹介されるものばかり。
作画するときに参考にしているものは、あまり出てこない気がする。

資料を見ることがズルい

何となく、こんなイメージを持ったことはないだろうか。

資料を見ながら描くこと=ズルいこと

まるで、テストでカンニングするがごとく、そんなイメージはないだろうか。
私は持っていた。
最終的には何もみないで描けるのが一番だと。
そんなものだから、好きなキャラクターを描くときだって、資料を見るのは一、二度ぐらいだった。
あとは記憶で描くだけ。
そんなものだから、パーツの少ないキャラクターばかり描くようになっていた。

でも、考えが変わった。
何故か。

久しぶりの同人誌

ここ一年ちょっと描く気が起きないことが多々あり、最近久しぶりに漫画を描いている。
二次創作の同人誌だ。
何度も描いているキャラクターだ。見ないで描ける。
以前はそう思ってろくに資料を見なかった。
見ないと描けないキャラクターも一、二回参考にしたらあとは見ない。
締切があることもあいまって焦って、よし描けた!とさっさと次のコマに進む。
でも、自分の心の奥底では納得できないまま、違和感を感じたままだったのだろう。
一年前ははじめて下書きから全部デジタルで描いてみていて、慣れないせいか、普段アナログで描くより断然下手くそで、それを発行してみて、さらにはミスも見つけてしまって…
何やってるんだとばかりにやる気がどこかへ飛んで行ってしまったのだ。
なんとか描こうとしたけど、物語さえも思い浮かばない。
それでもやっと1年経って少しだけやる気が戻ってきた。

前回を反省し、まず、オールデジタルで描くのをやめることにした。
イラストを描くときもそうなのだけど、どうも私はデジタルで描くとバランスが取れない。
ただでさえまだまだというところなのに、レベルが5年ぐらい前に戻っているような、そんな感じになってしまう。
だから、下書きまではアナログで描くことにした。

そして今回、一番変えたことは、資料をちゃんと見る、そして、納得するまで描くということだった。
昨年描いた同人誌の自分の絵、さすがに納得がいかなかった。
下手だと思い続けていても、それでも、実はそんなに下手じゃないんじゃないかと思っていたのに、現実を突きつけられた。
時間がかかっても、見るしかない。見て、ちゃんと描かないと。
そう思ったのだ。

見ながら描く

そうすると、見ないで描いていたときより時間はかかる。
休みだったら一日に数枚は描けていたのに、今じゃ一枚か二枚がやっとだ。
ただ、描いていて気が付いた。
以前はただただ、締切に間に合わせないととの焦りもあって、なんとなくこれでいいやと思ったら次に進んでいた。
でも今回、資料を見ながら納得するまで描くようにしたら、自分の思い込み、観察の足りなさを痛感した。
人間の身体など、毎日見ているはずなのに、案外わからないことだらけだった。
資料を見ながら描くということは、自分の思い違いで違和感を感じているのにでもどうしたらいいのかわからない部分をはっきりさせてくれる。
だから、資料を見ないで描いていたときよりも、早く納得のいく絵になるのだ。
以前は、何度も描きなおしても何が違うのかよくわからない部分もあったのに。

そして何より、楽しかった。
直せば直すほどちゃんと変わっていく。
今まで、絵描きはずっと手を入れていたくなる。だって、手を入れればよくなっていくから。という感覚がさっぱりわからなかったけど、今回、はじめて感じたのだ。
叩けば反応が返ってくる。ただそれだけで楽しいなんて。
そういえば、ゲームだってそれが楽しかった。
ゲーム好きなのになんで気が付かなかったのだろう。
思い込みが、理解を邪魔していた。

早くいい絵を描くなら資料を見よう。
それが一番の近道。

2017年10月3日火曜日

2から5へ

私は、漫画とかアニメ、ゲームの感想を眺めるためによく「2ちゃんねる」を見ていた。
先日も、新しい情報にどんな反応があるだろうと眺めていたら、ふと画面左上の表記に目がいった。

あれ?5ちゃんねる?

「2ちゃんねる」を見ていたはずなのに、5ちゃんねると書いてある。
いったい、なぜ?…とは思ったものの、反応が見たかったので気にしないで、そのまま眺めていた。

「2ちゃんねるが5chになっててビビった」 動物キャラが「2」を蹴って「5」にする動画も

そうこうしているうちに、yahooニュースでこんな記事が。
経緯よりなにより、アンダーグラウンドなイメージだった2ちゃんの、一般人からしてみれば名前が変わっただけのことがニュースになるなんて思いもしなかったというのが、感想だ。
まあ、2ちゃんねると言わないまでも、匿名掲示板とニュースで言われたり、もう10年以上前に「電車男」という作品で注目されたりもしたから、思うほどアンダーグラウンドでもなかったのだろうけれど。
今やSNSが主流だし、昔ほどにぎわってはいない…のかな?
昔がよくわからないから何とも言えないけど、数年前と比べるとレスポンスが遅い気がする。

私が2ちゃんを見ている理由

SNSが主流だと言ったけど、それでも私は2ちゃんを作品の感想や新作情報を得るために使っている。
Twitterでやればいいじゃないと思うかもしれないけど、2ちゃんの方が楽なのだ。

検索すれば感想がたくさん出てくるだろうって?
感想がたくさん出てくればいいというものじゃない。
脈絡なく話された感想は、大量にあるとみていて疲れる。
アカウント名なんかも引っかかるから、関係ない話も出てくる。
2ちゃんだと、掲示板だから一つのテーマについて話されているし、なにより、前の話を受けて話が続いていく。
流れがちゃんとわかりやすい。
だから、疲れない。
SNSをさかのぼるのは途中で嫌になるのに、2ちゃんの過去ログをさかのぼるのは気がついたらもうこんな時間!?でも、あともう少し…なんてやってしまう。

以前、今もあるんだろうけどSNS疲れなんて言われていた。
それはネット上の人づきあいとか、そういうものから来ているのだろうけど、多分情報の流れ方にも理由があるのだと思う。
前後の脈略なく流れていく大量の情報。
Twitterならば、一つはたったの140字以内。
それでも、たくさん集まれば目が疲れる。
短いゆえに、文字にならない、隠された情報を頭で思いめぐらすのに疲れる。
激しい運動すれば疲れる。それは、見た目にだってわかりやすい。
でも、頭を使うことだって疲れるのだ。
それを、人は軽視している気がする。
常に誰かを気にしていなければいけないというのは、常に頭を使っている状態なのだ。
常に何かについて考えて疲れているものだから、意見は目で見た受け売りにしかならなくなる。
だって、考える体力を失っているから。
だから、疲れるのだと思う。

常につながらない世界

2ちゃんはその場にいる時だけのつながり。
そこを出れば、それぞれの生活があり、それぞれの役割がある。
ただただ、あれが好き、これが好き、それだけで集まった人たちのひと時のつながり。
SNSだってそういうところだろ?と思う人もいるだろうけど、例えば、「インスタ映え」
インスタに投稿するための写真を撮ろうと旅行したりする。
2ちゃんだと、2ちゃんに投稿するためにアニメ見てゲームやって…なんて人はいないだろう。
(まあ、いないことはないんだけど…)
だから緩いし、軽い。
その気楽さも必要だと思う。
ずっとそばにいられたらうっとおしい日だってあるはずなのに、現代はだんだんそれをできなくしていく。

緩く、軽く。

2ちゃんに入り浸る以前は、ゲーム雑誌が私の好きな場所だった。
月に一回、常連さんたちの投稿を眺めながら、自分もそこに投稿して。
来月は載るかな、来月はどんな投稿があるかな。
そんなことを思いながら待ったものだ。
互いに面識はもちろんない。
ただ、投稿で知っているだけ。
そんな緩く、軽いつながりも大事だと思う。
つながり方も、自分で選ばなければいけない時代なのかもしれない。
めんどくさいけど、心地よい世界を選べるのならそれもそれでいいのだろう。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...