2019年6月23日日曜日

物語にして自分事にする

日々のニュース、悲しい出来事、楽しい話、流行りの何か。
興味のないことはどこか他人事で、さっと過ぎていく。
最近はニュースサイトも個人の好みを反映したニュースを流し、余計に興味のないことから離れていく。
今、興味がなくても、明日、興味が出るかもしれない。
それでも、今の興味を頼りに人は日々の出来事を選んでいく。
明日のことなど、知りはしないから。

でも、物を作ったり、描いたり、言葉にしたり。
そうやって何かを作り出そうとするのに、狭い興味の中だけじゃいつかアイディアは枯渇していくだろう。
同じものを何度も見返しての発見だってあるだろうけど、やはり新しい刺激が欲しいものだ。
けれど、いつの間にか防衛反応か、古い興味のあるものしか手を出さず、流行にのれず、枯れていく。
別段、創作なんてしなくたって生きてはいけるものだ。創作して食べていく人間でない限りは。
でも、作り出すって楽しいはずなのだ。
じゃあ、どうやって興味を広げよう。

私の場合は、物語にする。
断片的な情報は咀嚼しなければ、情報でしかない。
私にとっての咀嚼行為が物語にすることなのだ。
不謹慎だろうかなんだろうが、構わない。
それを表に出さない限りは。
そう、表に出さなければ自分の妄想でしかない。誰も文句は言わない。
想像することさえダメだというのは恐ろしいことだ。
アメリカのドラマに、クリミナルマインドというものがある。
あれだって、現実に起こった事件を下敷きにしている。
日本向けなのか、時折日本で起きた凶悪事件が参考事例として名前をあげられていたりする。
臭いものに蓋をするべきではないと思う。
蓋を開けない限り、臭いかどうかわからない。
わからないと、興味本位で開けてしまう人だっているだろう。
その臭いにあてられてしまう人もいるだろう。
理解してこそ、わかることがある。

物語にするというのはなかなか骨が折れる行為だ。
ニュースに出てくるような一瞬だけを思い描くならそこまで難しくはないのかもしれないけれど。
スポーツ選手のニュースなら、ニュースに読まれた輝かしい記録だけじゃなくて、そこに至るまでの努力だったり、挫折だったりを想像して、すごいなと思うわけだ。
多分、人は無意識にそれをやっている。
それを意識の上に上げる。
上げることが、咀嚼することだと私は思う。
上げることで、何がわかっていないのか、何を知らねばならないのか、ようやくわかるのだ。
目にできる形にするともっといい。
頭の中で考えていることは、意外とつじつまが合わなくても綺麗に決まっているように思える時がある。
それを目に見えるようにした時、違和感を感じる時が来る。
そうやって、肉付けをする。
そうしていくことで、いつの間にか、自分が感じたことを明確にできる。

私は感性って言葉が嫌いだ。
嫌いなのは、学生の頃に美術教育の授業で子供の感性を伸ばすとかなんとか言いまくってるのを聞いたからだろうけど。
目に見えないものをどうやって伸ばすんだ?どうやって伸びたと判断するんだ?そう思っていた。
でも、自分が何に、どう感じるのか、知るのは大事だと思う。
何が好きで、何が嫌いで。
多分、それがわかるというのが感性なんだろうなと、最近は思う。
誰もが同じものを持つわけじゃない。
けれど、世間は同じであることを案外強要してくる。
常識という言葉、疑わずに使っている人の多さ。
そして、常識的な感じ方、というものに案外縛られている気もする。
それは自分だけなのかもしれないけど。
誰かに評価を求めてるって、そういうことなんだろう。
自分が正しいと思いたい。正しいは多数派。
決して評価が多いことが悪いわけじゃない。
ただ、それにふりまわされない様に。
自分の気持ちは、自分で選ばなくては。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...