2021年3月19日金曜日

長文を書くために必要なこと

 学生の頃、レポートというのは苦手だった。

2000字が埋められない。8割で大丈夫という噂を聞きつけ、なんとかちょっと多めに1800字ぐらいになるように本を見ながら、ネットで検索しながら、ほとんど写したような文章をPCに打ち込む(本来はいけない)

でも、大学生となれば卒論を書かねばならぬ。

2000字なんかじゃ足りない。それすら書けないのにどうしたらいいのだろうか。

そんなころ、ゼミの教授がこんなアドバイスをくれた。

「毎日、何かしらの文章を書くといいよ」

メールでも日記でも何でもいいから、とにかく長めの文章を常日頃から書いておこう。

そういうアドバイスであった。

アドバイスを貰った時は、まあ、そういうものだろうか。慣れが必要なのだろうか。それぐらいの理解だった。

はてさて今、改めて理解している。

あの頃なんとか卒論を書きあげたというのに、今この文章を打ち込むのだって難儀している。

あまり長文を書いてこなかったから。

書き慣れたはずの文章を書かずに放置した結果、書けなくなってしまっている。

あの頃、アドバイスをもらったからではないが、ある漫画にはまってしまって毎日卒論そっちのけで小説らしき文章を打ち込んでいた。

それのおかげか、以前よりはすんなりと卒論の文章も書けたので結果オーライではあったが。

とにかく、書き慣れていなければ文章というものは意外と書けないものなのである。


もう一つ、必要なものがある。

それは情報である。その文章を書くための資料である。

ただ、2000字のレポートが書けなくてヒィヒィ言っていた時だってもちろんレポートに必要な本を読んでいた。

問題は、読みながらレポートを書いていた点にあったのだろう。

必要そうな箇所をレポートに書き出す。

実はこれはレポートを書き出す前にすべきことだった。

必要そうな箇所を抜き出すのは、本番のレポートではなくてまずメモの方だった。

文章の書き方というのは習ったような習ってないような、そんなあいまいな記憶しかない。

ただ、学校行事の感想を書けと言われたら、用意された感想用紙という本番に書かされた記憶がある。

それだって何を書けばいいのかわからないで時間ギリギリまで悩むか、当たり障りのない分を書くかしかなかった。

必要だったのは、学校行事に参加して、何をやったのか、何を思ったのか整理する作業。

レポートだってなんだって同じこと。

本番を書く前に、集まった情報整理することこそ、文章を書くために必要な作業だったのだ。


というわけで、実はこれを打ち込んでいるのも、もう一度長文を書くことに慣れるための訓練みたいなものである。

文章とは、言語がわかれば簡単にかけそうでいて、思っているより難しい。

2021年3月18日木曜日

絵を描くモチベーションについて

 Twitterを眺めていたら、絵を描くモチベーションについてタイプ別に描いたイラストが流れてきた。

しかし、どれを見てもなんだかピンとこない。

なので、自分で考えてみることにした。


さて、考えるには手がかりがいる。自分がどんな時に絵を描いていただろうか。

しかし今まで何となく描いていたような気がするので、考えても思いつかなない。

なにせ、多分子供のころのらくがきの延長線上に延々と描き続けていたから。

でも、らくがきでもわっと描きたいときもあるし、特に書く気もおきない時もある。

ちょうど今は特に書く気もない時だったせいだろうか。

(だから、モチベーションについて気になったのかもしれない)

書く気になった時のことを何となく思い出す。

それは、ハマった漫画があった時。

ゲームで楽しんだとき。

それも、ただ楽しむだけでなく、その漫画やゲームについて考える時があった時。

どうしてそうなるのか、どうしてそんな行動をしたのか。

そんなことが気になった時。

もう一つは、誰かの創作でその考えはなかったとか、何か発見があった時。

刺激を受けて絵が描きたくなる。

あと一つ、何か作りたくなったとき。思いついたものを形にしたいとき。

そんな時だった気がする。


つまり、私は外から刺激を受けて何か書きたくなるタイプだったのだ。

絵を描くこと、創作することってなんだか内から湧き上がるものを形にするとかなんとかそんなイメージだった。

だから、内から湧き上がるもの、何か表現したいものがないということは絵を描くことが好きじゃないんじゃないかとかそんなことを考えてしまっていた。

でも、別にそうじゃないのだ、自分は。

そして、多分、それでいいのだと思う。

こうでなければならない、というものはない。

昔は、描き方だってこうでなければいけないみたいな考えがあった。

それをこだわりというのかもしれない。

でも、そんなこだわりもいらないのだ。描くことが嫌になるようならば。

最初に行った、Twitterで見かけたモチベーションについてのイラストにピンとくるものはなかったのだけど、でも、いろんなモチベーションがあってもいいと気づかせてもらった。

私はそう、外から刺激を貰わねばならないタイプだったのだ。

そう思って、とりあえずピンタレストを眺める日々。

2020年8月6日木曜日

簡単!デフォルメの描き方

普段はこんなデフォルメを描いています。
描くときのポイントをまとめましたので、よかったら参考にしてみてください。

デフォルメというのはぶっちゃけセンスだと思います。
センスがいいとか悪いとかそういうニュアンスではなくて…どこが好きか!ということです。
キャラクターの特徴を残すと描いていますが、特徴だと思う部分って人それぞれだと思うんです。
まあ、確かに多くの人が特徴だと思う部分っていうのはあるとは思うんですが、それよりは自分の好き!を詰め込んだ方がきっと楽しい。
デフォルメ、挑戦してみませんか?

2019年9月6日金曜日

ゼノブレイド リマスター版発売決定!

9月5日朝7時から、ニンテンドーダイレクトが放送されました。
そのトリを飾ったのが…

ゼノブレイド ディフィニティブエディション!

2010年6月に発売されたゼノブレイドシリーズ一作目が、2020年、10周年の年にSwitchに登場するんですね!
当時はWiiで発売され、知る人ぞ知るRPGという感じでした。
スマブラに、主人公シュルクが登場してからは広く知られるようになったものの…
Wiiはファミリー向けのイメージが強かったか、周囲でゲームやってる人も持ってなかったりしてなかなか勧めても遊んでもらえなかったのですが…ついに、ついにSwitchで遊べるようになったんですね!

ゼノブレイド発売当時、「ゼノ」というと、ゼノギアス、ゼノサーガとなんだか難しそうでファンじゃなければわかりずらそうだな…というイメージがあったのですが、発売一か月くらいの間に、おもしろい、フィールドがすごいという感想をいくつも目にしました。
そして手にとってみると…本当に面白かった。
3Dで作られるようになってだんだん2Dの頃の広さを失っていたRPGのフィールドが、ゼノブレイドでは2Dの頃の印象そのままにどんと広がり、どこまでも走って行ける。
最近はわからないですが、RPGなのに水を泳げ、柵を飛び越え、崖から落ちれるRPGは珍しくて感動しました。
とにかく、ゼノブレイドはフィールドを走り回っているだけでも楽しい!
そして、王道の熱いストーリーと豊富なサブクエストが飽きさせずに先へ進ませてくれる(いや、サブクエはむしろとどまらせるか?)
とにかく、楽しいんです。
99時間59分遊べます(Wii版のプレイタイムカンストが99時間59分というネタ)
当時、RPGクリアするのにのんびりやって60時間ぐらいだった私も、気が付けば中盤あたりでカンストしていました。

後ですね、ゼノブレイドの魅力の一つが、Wiiのリモコン+ヌンチャクという、左右で分離されたコントローラーによる操作だと私は思っています。
従来型の両手の位置を固定されたコントローラーをお使いの方はピンと来ないかもしれませんが、これは発明だと思うぐらい両手の自由が利くことの手軽さを感じました。
移動だけならカメラ操作も含めて片手でできちゃったんですよ。
スイッチでも形は変われど分離されたコントローラー。
ぜひともその手軽さを感じていただきたいです。

2020年が楽しみになりました!
はやくもう一度あの世界に行ってみたい!

2019年6月23日日曜日

物語にして自分事にする

日々のニュース、悲しい出来事、楽しい話、流行りの何か。
興味のないことはどこか他人事で、さっと過ぎていく。
最近はニュースサイトも個人の好みを反映したニュースを流し、余計に興味のないことから離れていく。
今、興味がなくても、明日、興味が出るかもしれない。
それでも、今の興味を頼りに人は日々の出来事を選んでいく。
明日のことなど、知りはしないから。

でも、物を作ったり、描いたり、言葉にしたり。
そうやって何かを作り出そうとするのに、狭い興味の中だけじゃいつかアイディアは枯渇していくだろう。
同じものを何度も見返しての発見だってあるだろうけど、やはり新しい刺激が欲しいものだ。
けれど、いつの間にか防衛反応か、古い興味のあるものしか手を出さず、流行にのれず、枯れていく。
別段、創作なんてしなくたって生きてはいけるものだ。創作して食べていく人間でない限りは。
でも、作り出すって楽しいはずなのだ。
じゃあ、どうやって興味を広げよう。

私の場合は、物語にする。
断片的な情報は咀嚼しなければ、情報でしかない。
私にとっての咀嚼行為が物語にすることなのだ。
不謹慎だろうかなんだろうが、構わない。
それを表に出さない限りは。
そう、表に出さなければ自分の妄想でしかない。誰も文句は言わない。
想像することさえダメだというのは恐ろしいことだ。
アメリカのドラマに、クリミナルマインドというものがある。
あれだって、現実に起こった事件を下敷きにしている。
日本向けなのか、時折日本で起きた凶悪事件が参考事例として名前をあげられていたりする。
臭いものに蓋をするべきではないと思う。
蓋を開けない限り、臭いかどうかわからない。
わからないと、興味本位で開けてしまう人だっているだろう。
その臭いにあてられてしまう人もいるだろう。
理解してこそ、わかることがある。

物語にするというのはなかなか骨が折れる行為だ。
ニュースに出てくるような一瞬だけを思い描くならそこまで難しくはないのかもしれないけれど。
スポーツ選手のニュースなら、ニュースに読まれた輝かしい記録だけじゃなくて、そこに至るまでの努力だったり、挫折だったりを想像して、すごいなと思うわけだ。
多分、人は無意識にそれをやっている。
それを意識の上に上げる。
上げることが、咀嚼することだと私は思う。
上げることで、何がわかっていないのか、何を知らねばならないのか、ようやくわかるのだ。
目にできる形にするともっといい。
頭の中で考えていることは、意外とつじつまが合わなくても綺麗に決まっているように思える時がある。
それを目に見えるようにした時、違和感を感じる時が来る。
そうやって、肉付けをする。
そうしていくことで、いつの間にか、自分が感じたことを明確にできる。

私は感性って言葉が嫌いだ。
嫌いなのは、学生の頃に美術教育の授業で子供の感性を伸ばすとかなんとか言いまくってるのを聞いたからだろうけど。
目に見えないものをどうやって伸ばすんだ?どうやって伸びたと判断するんだ?そう思っていた。
でも、自分が何に、どう感じるのか、知るのは大事だと思う。
何が好きで、何が嫌いで。
多分、それがわかるというのが感性なんだろうなと、最近は思う。
誰もが同じものを持つわけじゃない。
けれど、世間は同じであることを案外強要してくる。
常識という言葉、疑わずに使っている人の多さ。
そして、常識的な感じ方、というものに案外縛られている気もする。
それは自分だけなのかもしれないけど。
誰かに評価を求めてるって、そういうことなんだろう。
自分が正しいと思いたい。正しいは多数派。
決して評価が多いことが悪いわけじゃない。
ただ、それにふりまわされない様に。
自分の気持ちは、自分で選ばなくては。

2018年11月14日水曜日

全く文章が書けない人がを文章を書くための話

学校が苦手を作る

中学生だった頃、学校に招かれた偉い人の話の感想を書け、見学した博物館で何を思ったか書け、それも時間内に。
なんてことはよくあったと思う。
白紙の提出用紙を前に、何を書いたらいいのかわからないまま時間は過ぎていき、最後は話のあらすじを書きなぐって文字数を稼いでしのぐ。
または、授業で作文を書かされる。
こっちはもう少し時間が貰えたけど、何を書いたらいいのやら。
得意な人はすらすら書いていくけれど、私は全く得意じゃない。
長文を書かされることが嫌いだったので、どうして短文でパパっとまとめたらいけないのかと、ダラダラ書いた文章のどこがいいのかとずっと思っていた。

あれではいい文章など書けはしないと今では思う。
考えてほしい。
いきなり本番に立たされて、いい結果など出るだろうか。
たまにはうまくいくかもしれないけど、準備が必要なのだ。
思えば、学校はなんだっていきなり本番を書かせようとする。
絵を描かせれば真っ白な画用紙を渡し、作文も清書用の作文用紙。
新しい紙は用意しているよと言われても、貰った一枚に書き続ける子供が大半だった。
だって、時間が決まっている。
やり直したらその分時間が無くなる。
だから、失敗なんてできない。
そうしてなんとかひねり出した文章や絵。
ウケは微妙。
苦手になっていくのは仕方がない。

けれども、年齢が上がれば上がるほど、文章を書かねばならない場面にあたる。
学校生活の中においても、レポート課題が増え、大学を出るなら卒論を書かされ。
苦手だからとは言っていられなくなる。
だから仕方なく書くのだが、2000字程度と言われてぎりぎり許容範囲だろうと言うとこまで書いて終わり。
いい文章を書こうとかそんなレベルじゃない。
まず、書けないのだから。
よけいに苦手意識がつのる。
けれど、卒論を書けなければ卒業できない。
2000字どころじゃない。1万字は必要だと言われた。

もしかしたら少ないと思う人がいるかもしれない。
多分少ない方だ。
何故なら、私の卒業した学科は美術系だったからだ。
3年になる前に選択を迫られる。
卒論は作品を作るか、それとも文章を書くか。
そして私は文章を書く方に決めた。
文章を書く以上に絵を描くことが嫌になっていたせいだ。
その時の私は、文章ならまだ書ける。そういう気持ちだった。

趣味なら長文でも書けるのに

私はたまに趣味で小説を書いていた。
多分これがあったから、文章ならまだ書けると踏んだのだろう。
文章は苦手と思いながら、何故か小説を書く。
だって、絵を描くよりは楽だからだ。
思ったことを言葉のままに打ち込める。
人に見せる気がないのなら拙い文章だって別にいい。
短文が連発され、自分がわかればいいので説明も適当で、便宜的に小説と呼んだがそれを小説とも文章とも思っていなかった。

でも、卒論が書けずにいてふと考えた。
趣味と卒論の違いは?
ここで中学生の頃の話に戻る。
あのころと一緒なのだ。
私はいつもいきなり提出用の文章を書こうと必死だったのだ。
時間がない、なんとか形だけでも。
ギリギリまで悩んで、何を書いたらいいのかわからないままそうやって書いていく。
趣味は違う。
人に見せる気がないから何を書いたっていいし、締切りもない。
なんか違うなと思ったら全部なかったことにしたっていい。
そうやって書いた文章は、課題製作やレポート用に買ったノートPCの中にたまっていった。
それに、その小説を書く前に、自分でも思っていなかったが準備をしていた。
らくがき帳に、キャラクターについて思ったこと、描きたい世界、とにかく書き込んでいた。
違うと思ったらまた書き直し、パラパラめくってこれはこっちの方がいいかと設定を交換し。
小中学校ではわからなかった。
文章を作ることに準備が必要だったなんて。
いつだっていきなり書き始めていたのだから。

長々と書いているけれど、結論を言えば文章を書くためには準備が必要だよ。
ただ、それだけの話だ。
いきなり打ち込むんじゃない。
手描きでもスマホのメモ帳でも何でもいいから、まずは書きたいものを思いつくままに書いてみる。
ならこれが必要かなと思いついたなら調べ、メモする。
そうして羅列された単語や短文の中から必要なものを選ぶ。
いきなり必要なものなんてわからない癖に、必要なものだけを選び取ろうとすると失敗する。
無駄だと思っても、無駄じゃない。

あと、文章を書くことに慣れておく必要がある。
メールやLINEでやってるよと思うかもしれないが、デッサンが得意な人間がアニメのような絵はうまくないのと同じく、そういう文章と長文を書くことは違う。
でも、書いていれば役には立つけれど。
長文を書くなら長い文章を書くことに慣れていないといけない。
何でもいいから書いておくといい。

私がこうしてブログを書くのもその一環。
書くことに慣れてないと、まずそこから鍛えなければいけないから。
文章が書けないなら、書くしかないのだ。

2018年10月10日水曜日

ゲームが描く死~500年という時の流れ

最近は聞かないが、私が子供の頃はゲームにはリセットボタンがあるから、子供たちは人や動物が死んでも生き返ると思ってしまう、そんな批判がありました。
戦争や戦いをテーマにした作品をやることによって、人殺しが楽しいものと勘違いするのではないか?そんな批判もあったと記憶しています。
ただ、私の記憶の中でフィクションにおける人の死の描き方で一番衝撃的だったのは、ゲームの中の死だったんです。
それは以前の記事に書いてあるので割愛するとして、今回は最近触れたゲームの中の死について触れたいと思います。

ゼノブレイド2黄金の国イーラ

2017年12月1日に、nintendoSwitch用ソフトとして発売された「ゼノブレイド2」
その物語の500年前を描いたのが9月14日よりDLCとして、そして21日はパッケージソフトとして配信、販売されている「黄金の国イーラ」です。

※ネタバレが含まれますのでご注意ください

本編をプレイされた方はご存知かと思いますが、この「黄金の国イーラ」の主人公となっているシンとラウラの悲劇的な最期に向かう物語、それがこの「黄金の国イーラ」です。
死んでしまうのはラウラだけでなく、仲間として戦っていたユーゴ、彼のブレイドであったカグツチワダツミは彼の死によってコアクリスタルに戻ってしまいます。
(知らない人に補足しますと、ブレイドというのはコアクリスタルと呼ばれる石に資格があるものが触れることで生まれる生命体で、生み出した人のことをドライバーと言います。ドライバーとブレイドは一心同体で、ドライバーが死んでしまうとブレイドも石の状態に戻ってしまいます)

DLCとして開発されていますので、本編に比べるとラストバトルまでのプレイタイムは短いのですが、一緒に冒険してきた仲間を失うのは悲しいものです。
ゲームの死が刺さるのは、共に旅してきた仲間だからこそ、という面もあると思います。
ストーリーを追っていった、それだけではなく、そのキャラクターを強くするために装備を考えたり、戦っている間に助けられたり…プレイヤーにだけある思い出というものも蓄積されているからです。
また、今作はストーリー自体は短いものの、サブクエストで得られるヒトノワというものが進行に必要なため、自然とサブクエストをこなしていくことになるのですが、それらがキャラクターに愛着が湧くような、いろんな一面を見せてくれるものとなっています。
本編でも、意外な一面を見せたことで愛着が湧いたキャラがいました。
ストーリーの雰囲気的に描けないようなシーンやキャラクターの側面も、サブクエストやキャラクター同士の会話イベントによって、同じ世界に同時に描けるのはゲームという媒体の特徴かもしれません。
アニメや漫画でも番外編という形で描くことはできますが、ゲームはストーリーを追いながらプレイヤー自身の判断で寄り道ができます。
また、攻略法を見たにしても自分で発見できることは、より愛着を深めるのではないでしょうか。
だからこそ、失うことの悲しさを強めるのだと思います。

500年という時の流れ

記事のタイトルに500年という時の流れとつけました。
「黄金の国イーラ」は本編から500年前が舞台です。
500年もあればかつてを覚えている人なんていないでしょう。
(生き残る方法があるため、今作では500年前を知るキャラが何人か出てきますが)
イーラ編エンディングでは、本編の回想で出てきたラウラの死を描かず、シンのコアクリスタルの色が変わることで彼女の死を表現していました。

というわけで、今回は描かないことで描かれた死というのを考えてみたいと思います。
主人公であるシンとラウラ、ではなく、500年前世界を救った英雄アデルについて。

イーラ編の操作キャラクターで唯一生き残っていたドライバー、それがアデルでした。
国を失い、守りたかったものを守れず、自らのブレイド天の聖杯のヒカリの力を扱いきれず封印することにし、イヤサキ村を拓いたアデル。
天の聖杯同士の戦いによって命を落としたユーゴ、アーケディアの襲撃にあい死んだラウラと違って、彼だけは生き残っていました。
けれど、500年。
本編には、記憶の断片が彼の封印した第三の剣に残されていたものの、彼の姿はどこにもありません。
だって、彼は英雄とのちに呼ばれることになっても、ただの人間でしたから500年を生きることなんてできません。
私は2週目を途中で止めていたので、本編を再開しヒカリの口からアデルの名前を聞いた時、あ、もういないんだと寂しくなりました。
時間や予算、エンジンの違いの関係もあるでしょうが、ゼノブレイド2のDLCには追加ストーリーである「黄金の国イーラ」以外にも過去のゼノブレイドシリーズからゲスト参戦したキャラクターが配信されていましたので、やろうと思えば、本編に彼や500年前のキャラクターたちを呼び出すこともできたでしょう。
でも、それをしなかった。
本編にも登場し、さらに一時的に使えるシンも最後までずっと使えるキャラクターとしての配信はしなかった。
それは多分、意図があったからなのだと私は考えます。
500年という時の流れで失われたもの。
ゲームとしては別々のものなので、いつだって再開すれば500年前にも現代にも行くことはできますが、決して同じ時には存在できないのです。

考えてみれば当たり前ではあるけれど、ゲームでは同じ時に存在することを可能にできるからこそ、決してできないことでそれが色濃く映る。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...