2017年6月15日木曜日

pixivfactoryでマスキングテープ作りました。

pixivfactory」ってご存知ですか?
イラストSNS「pixiv」が提供しているサービスで、イラストからグッズが作れちゃいます。
業者さんにお願いするとき、決まったテンプレートや形式で原稿を作って送って…という作業があるんですが、pixivfactoryではイラストをアップロードすれば作りたいグッズのイメージを簡単に作ることができるし、こんな感じにできるよとプレビューもできるので、作る気はなくても遊んでいるだけで楽しいです。

さて、そのpixivfactoryではなんとマスキングテープが一個から作れるんです。
さすがに一個だけだとお値段結構するんですが…それでも、オリジナルのマスキングテープなんて個人では作れないので作ってみたい!と思って一つ注文してみました。

出来上がったのがこちら。
綺麗に印刷されています。
潰れるかなと思った文字もかなり小さいですが読めるように綺麗に出てます。
画面で確認はできるものの、やっぱり実際に出来上がったものとは印象が違いますね。
イラストも思った以上に小さめになりました。
でも、潰れないで印刷されていて、2か月待ったかいがあったなと。
(マステは発送までだいたい2か月ぐらいかかります)
自分で工作したり手芸したりで作るのも楽しいけど、こうやって売り物みたいなクオリティで作っていただけるとまたテンション上がりますね!

ちなみに、テンプレートいらないといいましたが、配布されているテンプレートに合わせて作るとよりいい感じに作れると思います。
今回は、マスキングテープだとやっぱりループしてる方がいいよね!って思ったので、キャラクターの絵の間が均等になるようにテンプレートで調整しながら作りました。
つなぎ目になる部分がわからないですよね?
背景が複雑だと大変かな…

マスキングテープは2か月くらいかかりますが、他は10日とかのもありますので気になった方はぜひお試しください。
楽しいです!

2017年6月12日月曜日

コスプレすること

アニメやゲームのキャラクターに扮する、コスプレ。
ネットで検索するといろんな写真が出てくる。
日本人はもちろんのこと、外国人の気合の入った写真は見ていて面白い。

今日、こんな記事があがっていた。

イスラム女子の「コスプレ魂」 ヒジャブで「盛り髪」戒律を逆手

イスラム圏の女性は、髪や肌を露出してはいけない。
髪はヒジャブというスカーフで覆い隠している。
それゆえに、コスプレはできなかった。
けれども、それでも彼女たちは大好きなアニメやゲームのキャラクターになりきりたくて、ヒジャブのカラフルなカラーでキャラクターの髪の毛を表現したのだという。

ときどき、イスラム圏の方なのかどうかはわからないけれど、頭にスカーフを巻いた人たちがいるのを街で見かける。
けれども、戒律でそう決まっているのだということを意識したことはなかった。
そういうものだ、とただただ思っていただけだった。
だから、コスプレすることと、戒律を守ることを天秤にかけなければならないということがとても衝撃的だった。
私もコスプレをしたことがある。
その時は、恥ずかしさとやってみたいという気持ちを天秤にかけた。
でも、それは本人の気持ちの問題というか、心持の問題というか、そういう問題であって、恥ずかしさをただただ投げ捨てればよかっただけだった。
けれども、信仰によるものを天秤にかけることは、気持ちの問題だけじゃないと思う。
信じているものを裏切ることは、とても重たいものだから。

そういえば、近年はハロウィンなんかで仮装する人が増えた。
それゆえか、オタクたちが作り上げたコスプレのルールを知らない人も多いのではないだろうか。
知り合いと話していて、ふと気が付いた。
コミケなんかがテレビで映るようになってから、そういうイベントがあることを知ってはいても、ルールは知らない。
知っているだろうか。
コミケのような同人誌即売会でコスプレする場合、自宅から衣装を着てきてはいけないことを。
(イベントによってはそもそもコスプレ不可の場合もありますので、事前にHPの確認等が必要です)
一般人(とオタクはオタク以外の人を表現する)の前でコスプレをしてはいけないのだ。
それは自衛のため。最近は上記のハロウィンなんかもあるし、オタク、コスプレの存在がテレビでも見えるようになってきたからか、受け入れている人も増えたんだろうけど、やっぱり変わった趣味だ、何してるんだ、見たくない、と思う人もいる。
そういった批判をかわすには、わかっている人たちだけのスペースでやるのがいい。
だから、イベント会場の決められた場所だけ、と決められているのだ。
というのを、知り合いは知らなかった。
自宅から着ていったらダメなら何処で着替えるの?と聞かれたのが、なんだか衝撃的だった。
でもそれは、普段どういう風に生活しているか、それが少しでも違うだけで、自分たちの常識は常識ではなくなるということ。

はじめてコスプレして、友人にコスプレイベントにつれて行ってもらったときのことは鮮明に覚えている。
ポーズをとって人に撮影してもらうことなんて全然ないから、なんだか気恥ずかしかったっけ。
それでも、いろんな恰好をした人たちが、思い思いに撮影している、そんな空間に初めて触れて、新しい世界が見えて面白かった。
私は、その世界にはじめて入った身。
そこにいる彼、彼女らを不快にしないために、そこのルールを守らなければならない。
お互いに気持ちよく楽しむためにも。

2017年6月11日日曜日

命の軽さとゲームに関係はあるか

こんなニュース記事があった。

小学生の間で流行っている危険な“度胸だめし”。やめさせるにはどうすればいい?

子供たちが、車やバイクが走っている道路にわざと飛び出す、そんな危険な度胸試しをしているらしい。
その理由の一つが、これを書いた記者はゲームにあると書いていた。
高いところから落ちても死なない、死んでも復活できる…だからこそ、今の子供たちは命を軽く見ている。
正直なところ、まだそんなことを言う人がいるのかと思った。
私が子供の頃から、そんなことは言われていた。
子供はゲームという架空の世界と現実に区別がつかないから、簡単に死んで生き返るゲームばかりやっていたら、命を軽く思ってしまう。

確かに、ゲームの中の命は軽い。
でも、そうでなければ、何度もやり直したりしない。
最近私がやっていた、ゼルダの伝説もそうだ。
何度も死んで、やりなおし。
すぐに再開できるから、何度も挑戦してみる。
そうでなくて、死んだらもう遊べません!なんてゲームじゃ、まずほとんどの人がやらないだろう。
命の軽さは、失敗しても再挑戦しやすくするためのものなのだ。
それゆえに、ゲームの主人公たちの命は軽い。

ファイアーエムブレムというゲームがある。
最近のものは違うんだけど、昔は死んだ仲間は二度と使えないシステムだった。
そういうゲームだと、かなり慎重になる。
リセットすれば確かに生き返るのだけど、リセットしたら、はじめからやり直しになってしまう。
先述のゼルダの伝説の場合は、死んでやり直すときは直近のセーブした場所からすぐにやり直せる。
自動でセーブが行われているので、ほとんど死んだポイントに近い場所から再開できるのだ。
でも、ファイアーエムブレムの場合は違う。
ファイアーエムブレムは章仕立てになったゲームでそれぞれの章で用意されたマップ上の敵を倒していきながら城を制圧するゲームなのだが、リセットしたら再開される場所は章のはじまりから。
マップの途中でセーブが残せないのだ。
どんなにうまくいって、制圧直前でも、リセットしてやり直ししたら初めから。
やり直しがめんどくさいのだ。
めんどくさいからこそ、慎重になる。

ゼルダの伝説がどうしてそういうすぐに再開できるシステムになっているのかといえば、隅々まで探索してほしいからなのである。
ちょっと考えてほしい。
駅からある場所に向かうのに、道に迷ったり、方向を間違えたりしたら、毎回駅に戻されてそこからやり直し。
たとえ、目的地が目前にあったとしてもだ。
そういう場合、寄り道なんかもちろんしないし、決まったルートを通るんじゃないだろうか。
そうならないために、何処を通ってもいいし、再開が楽なシステムになっているのだ。

そんなゼルダの伝説だけど、ストーリー上で死んだかつての仲間たちは生き返らない。
魂となって確かに存在はしているけれども。
最初にであう、ハイラル(ゼルダの伝説の舞台)の王もいなくなった後はエンディングまで出てこない。
すでに死んでいて、魂のまま、主人公のリンクを見守っていたからだ。
主人公の死はいくらでもなかったことにできるのに、彼らの死は決してなくならない。
ハイラルの王が日記を残してるのだけど、それを読むとなんだか切なくなる。
リセットしたってやり直しがきかない死。
ファイアーエムブレムも存在する。
ストーリー上の死は覆らない。
自分の手で救える命と、そうでない命。
ゲーム上にはそれが存在している。
私は思うのだけど、ゲームというのは達成感を与えてくれるものだ。
自己効力感、自分ならできる!と思わせてくれるものだ。
それでも、どうしても覆らないものがある。
その死は重い。他が軽いからこそ、重くなる。

最初の記事に戻ろう。
子供たちが命が軽いと思うのならば、それは、現在の日本が死にがたい世界だからではないのだろうか。
死は遠ざけられ、または、美化される。
映画やドラマで描かれる死は、ドラマゆえにドラマチックだ。
もちろん、そうでないものもあるけれども。
医療が発達し、治安もよく、みんな長生きする。
死は身近にない。
命が軽いということは、死の重たさ、悲惨さを知らないということではないだろうか。

記事の記者が、ゲームに原因を求めるのと同じように、私のこれも感覚的に思っているだけに過ぎないのだけれど、そう考える。

2017年6月10日土曜日

絵が描きたくない!の理由

学生の頃の話。
教育学部の中にある美術科に通っていた私は、3年になるぐらいになるともう絵なんか描きたくない!という気持ちになっていた。
それは、周囲の学生たちの絵の上手さと自分の下手さを比べて、一向にうまくならないことを呪ったからか。
思い通りにならない自分の技術力にいらだったからか。
正直、嫌になった理由は考えなかった。
考えたって仕方がなかったからだ。嫌になろうとも、課題は出さなきゃいけないし。
ずっと絵を描いてきたので、嫌いになったことを認めたくなかったところもある。
本当は好きじゃなかったんだとか思いつつも、それを理解はしたくなかったのだ。

しかも、嫌になったくせに絵は描き続けていた。
漫画研究会に入っていて、そこでは年二回学園祭の時に部員の漫画をまとめた冊子を出していた。
部活というと、絶対全員参加!とかそんなイメージを持つかもしれないけど、ここでは自由参加。
だからこそ、入部したときは出せるものには全部出すと決めていたのだ。
頑固なもので、嫌になってもはじめに決めたそれを諦めるつもりはなかった。
そして多分、その頑固さが嫌になった理由の一つなのだと今は思う。

絵はこう描かねばいけない。こだわりといえば聞こえがいいかもしれないが、ただただ頑固にそうやって決めつけていた。
その思い込みが、自分を苦しめていた。
頭では違和感を感じながらも、決めつけたその描き方以外できない。
自分がやりたいことを、全部自分で否定し続けていたのだ。
やりたいことが何もできなくなったとき、その時きっと嫌になったのだと思う。
周囲の人間の上手さより、きっと私はその自由な発想にイラついていた。
自分で制限したくせに、なんでお前たちはそんな勝手なことをしてるんだといらだっていた。
そうなんだと思う。

子供たちは、中学生になるころに絵を描くのが嫌になるらしい。
思い通りに描けない。想像と現実とのギャップ。
教育を学んでいるとそんな言葉がならんでいたのを覚えている。
それもあるんだろうけど、私はもう一つ思う。
人が求めている(と思っている)絵と、自分が描きたいもののギャップだ。
中学生の美術部の展覧会の受付をしたことがある。
ボーカロイド、ガンダム、野球漫画のキャラクター…
そんな絵が並んでいる。
あのころは、大人はわからないと思って描いているのかしら?とか思っていた。
美術展にそういうモチーフを描くことはタブーのように思っていたからだ。
今思うのは、子供たちはそういう絵を描きたいんだということ。
でも、美術で求められるのは写実的な絵。
描きたいものは、描かせてもらえない。
何となく、子供の頃でも漫画やアニメの絵を描くのはタブーに思えた。
でも、学校の先生はどうしてかなんて教えてくれない。
とにかくダメなものはダメ。
こうやって、描きたいものを否定されたら、嫌になるのは当たり前な気がする。

他人であろうと、自分であろうと、否定し続けたら嫌になる。
描きたくなくなったのはそのせいだ。
もっと、自由なんだ。
そう、思いたい。

2017年6月9日金曜日

プラバン工作

最近、プラバン工作にハマっております。
一時期流行りましたよね。流行には後れてのるスタイル。
子供の頃に、オーブントースターで焼いて縮んでいくのを眺めていたのを覚えています。
なんだかあれって、見てると早く取り出さないとやばいんじゃ?とか思ってしまって、早く取り出しすぎて波打ってどうしょもないものになってしまいますよね。
私だけでしょうか。

最近は、じっと動かなくなるまで待ってるのでうまくいっておりますが…
というわけで、最近作ったものです。
ネットで検索してて、子ペンギンモチーフがかわいいなと思って自分でも作ってみました。
他にもちょっと見えてるのは、個人的にシルエットが好きな首長竜。
そういえば、最近テレビを見てたら、首長竜は恐竜とは違うのだと知りました。
ビックリ…
色鉛筆で色が塗れるって面白いですね。
こういうの最初に思いついた人は、どうして思いついたのでしょう?

紙やコンピュータ上のキャンバスに描くイラストの場合は、色を塗れば完成ですが、プラバンに描くと焼く作業がプラスされますよね。
この、焼いて縮めるという作業がやっかいで、思った通りに縮んでくれない。
ただ、その思い通りにならない点が面白い。
もちろん、絵を描くのにだって思い通りにならない点はあるんだけど、なんていうか、その思い通りにならない点ってほとんど自分の腕のなさ、技術の足りなさなんですよね…
うまく描けない、思った形にならない。
でも、プラバンの場合は、思った形にならないのはプラバンのせいにできます(笑)
もちろん、収縮率を調べて~とやっていけば綺麗に作れるんですが、まあ、そこまで厳密にやらなくてもいいかなとも思えるし。
調べてたって、ちょっとした違い、例えば温度だったり、画材だったりで違ってきちゃうから、失敗しても当たり前みたいな気分で臨めるので、気楽です。

技術がないのに、はじめてなのに、うまくやらなくちゃ、下手くそじゃダメだと思ってると、どんなことも挑戦できないし、一回失敗しただけでなんだか自分がダメみたいに思えてきちゃう。
だから、できることしかしない。
でも、それだと成長できないんですよね。
はじめは失敗して当たり前。
慣れてきたからって失敗しない訳じゃない。
私がイラストで息詰まるのは、なまじ描いてきた期間だけは長いせいか、こんなに描いてきたのに下手くそじゃダメだ、笑われるという気持ちが根底にあるからなのかもしれないと思いました。
失敗を恐れると、守りに入ってしまって、新しいことも受け入れられなくなってしまいます。
そうすると、辛いんですよね。
自分が変われないのに、周りはどんどん変わっていって取り残されてしまう。
変わってしまうのが怖いところもあります。
新しいものを取り入れることは、今まで自分が積み上げてきたものの否定な気がしてしまうから。

でも、人間の気分なんて1,2日で変わってしまうもの。
最近はサボっちゃってますが、ずっとノートに日記的なものを描いてたんです。
読み返すと、昨日はこう考えてたのに、今日はこれなのかとびっくりしたりします。
一貫性のない人は嫌だったけど、自分も案外コロコロ変わっていっちゃってることに気が付く。
だから、いろんなことに目がいく。
いろんなところに目がいくのに、それを抑え付けてこれしかやっちゃダメという状態になってたら、興味がわかなくなってきちゃう。
少しづつ、興味を取り戻そうといろいろやってみております。
いろいろやってみると、見えてくるものも多分ある。

2017年6月2日金曜日

トレース練習の効能

描けない…と思って二の足を踏んでいるならトレースがおススメ

と、まだ2,3枚しかやってないけど思います。
何故かというと…

まだ自分で描いたわけじゃないのに描ける気がしてきた。
からです。

以前は、全く描けない。描ける気がしない…と思っていたにも関わらず。
漫画描くときも仕方なしに書いていたにも関わらず。
なんだか、いい感じじゃない?と思ったものが描けると、トレースでもなんだか達成感があります。
いや、びっくりしました。

ただ、ただ単に線をおってトレースするだけでは、本当に描けた気分になるだけです。
だから、描きながらよく観察しましょう。
光の具合とか、壁の岩の流れとか、パースのつき方とか。
どうしてこう見えているのか、よーく観察したら多分今後に役立つはず。
直線的な感じだとパースの流れも何となくわかりやすいですよね。
床やベッドの線が消失点に向かっている感じとか何となく、わかります。
あとは、実戦。
自分で描いてみることをしないとですね。

練習のためにいろいろ写真を集めていると、アイデアも浮かびますね。
いろいろ見たり知ったりしないとアイデアって浮かばないんだなと改めて思いました。
やっぱりよくわかってないと背景は描けません。
今までは、きっと人物をうまくなることばかりに集中しちゃってたのでキャラクターしか見てなかったんだと思います。
背景があることはわかっていても、それ込みでキャラクターを見てなかった感じでしょうか。
見えていても、見てはいないってそういうことかなと思います。
みんながみんな、見ているだけでしっかり観察できているのなら技術さえ鍛えればみんなすごい絵が描けちゃうということですもんね(笑)
あとは焦らないこと。
今日明日で描けなかった人間が急に描けるようにはならないですよね。
じっくり待つ、自分のことも待てるように焦らないように。
頑張っていこうと思います。

2017年6月1日木曜日

背景練習 陰影の重要性

「背景が描けない!」

苦手意識が強すぎて、思いつきもしない。
だから、まずは描けそうな気分になるべくトレースをしてみた。
フリーの写真素材からピンときたものをDLしてトレースしてみて、ふと気が付く。

最初はざっと描こうとして、まあ、雑に描いていたのだけどなんだか雰囲気がある。
なんでだろうと思ってじっと見ていて気が付いた。
トレースするために透明度を上げていたのだけど、それでも写真自体の陰影の具合がうっすら残っている。
それゆえに雑に描いても何となく雰囲気のある感じに見えたのだ。

 線画だけだとただの雑な背景だけど…
写真をもとに陰影もつけてみたら、だいぶそれっぽく見える不思議。
今まで影を描くことの意味は何となく分かっていたつもりだったけど、今回はっきりと分かった。
陰影があることで存在感が増す。
背景を描くとき、ディテールとかパースとかそういった部分ばかりを気にしていた。
漫画だとここまで影を描き込むことはない。
それゆえ、線ばかり気にしていたのだ。
もちろん漫画を描くときにこんなに暗くしてると読みづらくなってしまうから使えないが、トーンを貼ったり、ベタを塗ったりする場合の参考には多分なる。

よく考えると(最近はデジタル化も進んだせいか、トーン多用で影が細かくつけられているものも増えたが)漫画って一番濃い影ぐらいしかついてなかった。
何故かといえば、線で囲まれているからだ。
線というのはある意味一番暗い影のような役割を果たす。
それゆえに、あまり影をつけると画面が真っ黒になってしまう。
だから、漫画を参考にしていると影の存在を少し忘れてしまうのだと思う。

それから、昔の絵、浮世絵とか日本画と呼ばれるものを見てみても、影って描かれていない。
それがなぜなのか、勉強したことがないのでわからないけれど、西洋画には影があるのに日本画にはないことはわかる。
東洋では存在を描きだすのに重要なのは輪郭線で、陰ではなかったのだろうか。
ふと、思いだしたことがある。
私は海外に行ったことがないけれど、学生時代、彫刻の教授がスペインに行った話を聞いた。
スペインの日差しは、日本と比べると強く、色彩が濃いのだと言っていた。
日差しが強いと影も色濃く出てくるんじゃないだろうか。
そういう見え方が、陰影を描きだすことをさせたのではないだろうか。

学生の頃、デッサンの授業を受けているといつも困った。
影が薄い。そして、光が壁やら床やらで反射するのでいくつも影ができていていったいどれをはっきり描くべきなんだとめちゃくちゃ悩んだ。
だから、デッサンは嫌いだった。
室内の人口の光のせいかとも思ったが、電気は消されていた。

それから、海外のドラマなんか見てると、ネットでもよく言われているのを目にするが、画面が暗い。
影がよくできる。
日本のドラマはそれに対して明るい。
照明の違い、光の当て方の違い、それもあるんだろうけど、日本人ってすべてが均等に見えてる方がいいのかなとも思う。
洛中洛外図なんか見ると、全てが均等に描かれている。
一番注目してほしい場所はよくわからない。

影を描く。
それは、西洋的な文化なのかなとふと思った。

やる気とメンタルと体調

 やる気というのは意外と体調に影響を受ける。 いや、考えてみれば当たり前だった。だって、風邪をひいてる時に、よし!何かを始めよう!なんて気にはならない。病気の時なら簡単に気が付くのに、例えばちょっと疲れてるとかそんなときはわからないものだ。 メンタルも疲れてる時は駄々落ちする。人...